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お兄ちゃん、と妹の黎奈が駆け寄ってきた。「やめろよ、お前何歳だと思ってんだ」追い払おうとするが、構わず抱き着いて来た。
「だってお兄ちゃん出張でこれから会えなくなるんでしょ? だから最後にこの兄の懐の感触を覚えておきたくって」
そうやって大人になっても自分のことを大事に思ってくれる黎奈には、とてもじゃないが、本当のことは言えなかった。出張と言えば出張だが、恐らく、これ以降家族と顔を合わせること、干渉することはないだろう。
家の玄関では、母がその光景を見守っているのが見えた。
「ありがとう」そう一言だけ言いたかった言葉は、いつ言ってもよかったはずなのに、本当に言わなければならない場面にまで来ても、口から発せられることはなかった。
俺の変な胎内記憶のせいで、母はきっと陰で泣いたことだろう。胎内記憶ではなく、夢だったらまだよかったのにと、検索エンジンで何度も夢診断について調べた。「母親に殺される夢」「母親に殺されかける夢」。「母親に殺」まで入れると、それ関連の検索候補がずらっと並んだ。舐めるようにサイトを読んだ。それほど悪い夢でもないようだった。それなりに見ている人がいるようだった。しかし、胎内で見たという人は見当たらなかった。
夢と胎内記憶の差。架空と前世。
母は、俺の変な胎内記憶のせいで自分を責めたかもしれない。自分はちゃんと母親であるかと身に染みて、毎日気を張ることを欠かさなかったかもしれない。いっぱい泣いたはずなのに、いっぱい疲れたはずなのに、その泣いた姿を疲れた姿を、俺が目にすることは一度たりともなかった。涙の痕、ストレス、俺は母のそれを一切見たことがなかった。だから母は、泣いたことも疲れたことも、一度もないのだろう。
俺と母が対峙するとき、母はいつも笑顔だった。
だから笑った。
「ごめんなさい」、と。
――私があなたに“筈れた夢”を見させてあげる――そう聴こえる声の正体が、あの頃はまだいなかった妹の黎奈だということを知ったその日から、それだけは絶対に口外しないと心に誓っていた。あり得ないことだが、たとえ妹が殺人鬼になったとしてもそれは変わらない。誰だって自分の家族が大事なのは同じなのだから、俺は自分の家族に優しさを存分に振りまく。もしそれが優しさでないと言うなら、まあ、そういうことなのかもしれない。
母親の笑顔を見るたびに思い出すのは、幼少の頃に行った病院の診察室――深刻そうな横顔とこちらを向いた微笑み。
妹まで気負わせてしまったら、きっと母も俺も、さすがにこの世にはいたたまれなくなるような気がした。
苦しむのは俺だけでいい。でも、俺が苦しんでいるのを母や妹は気に入らないようだった。平気で怒鳴ってくるのだ。
あのとき自分だけの問題だと気づいていたら――きっともっと早く死んでいた。幼少の頃に自我が芽生えていれば、母に胎内記憶のことを嬉しそうに話すこともなかったし、交通事故にでも巻き込まれようと道端から飛び出していた。
今、自分だけの問題だとは到底――少なからず、あのとき死んでおけばよかったとは思わなくなっていた。
だから多分、俺は、まだ、死なない。




