歪みー2
ハンス公はヴェストリスを出発する前夜、宿の一室で羽根ペンを走らせていた。
送り先は、このグロスター領を治めるシャルティア公。
ギルド本部の機能不全も深刻だが、それ以上に重くのしかかっているのは、もはや王国そのものの存亡に関わる危機が目前に迫っているという事実だ。
魔族に手を貸していたカフカが、今後どう動いてくるのかは全く読めない。
混乱が本格化する前にシャルティア公に事態の深刻さを共有し、協力を取り付けておくことは、カフカの動向を封じ、被害を未然に防ぐための重要な一手だった。
緊急の面会を求めるその密書は、書き終えられると同時にハンス公直属の早馬によって、領都オブシリスを目指し夜の帳の向こうへと運ばれていった。
翌朝。
泥のように重かった疲労を睡眠で洗い流した俺たちは、少しずつ、だが確実に活気が陰り始めたヴェストリスを後にして魔導帆船を出した。
一行を乗せた帆船は、王都へと続く大動脈「クブン街道」を東へ進む。
だが、数刻ほど進んだ分岐点で、俺たちは本道を外れ、領都である「静謐の都」オブシリスへと続く路に舵を切った。
揺れる船内で俺は頭の上で呑気に寝っ転がり、小さな溜息のようないびきを立てているユシルを片手で押さえながら声をかけた。
「ユシル。起きろって。エントマとの戦いで封印してもらった俺の魔素だけど、そろそろ解除できないか? カフカや魔族との戦いを考えると、どうしてもクロの力が必要なんだ」
俺の呼びかけに、ユシルは眠たげに片目を開けると、俺の髪を枕代わりにしながら面倒そうに口を尖らせた。
「……言われなくても、エントマを倒した直後から少しずつ解除は始めてるわよ。でもね、あれは『世界樹の封印』なの。あんたの魔素の匂いを完全に断つためにガチガチに固めたんだから、並大抵の力じゃ解けないわけ」
ユシルが言うには、今の彼女の力では完全に封印を解くまでに、まだ相当な時間がかかるらしい。
世界樹の元に行けばもう少し早く解除できるらしいが、ここからオブシリス、さらに王都へ行って戻る時間を考えたら、結局ここでじわじわ解いていくのと大差ないとのこと。
「一瞬で終わるようなもんじゃないの。だから封印する時にリスクがあるって言ったでしょ! 今更文句言わないでよ、まったく! しばらくはそのままで我慢してなさい」
「……わかった、仕方ない」
俺はため息をついた。
手の甲に刻まれた、鈍い光を放つ封印の魔法陣を見つめ、それを隠すように強く握りしめる。
そこからは魔素の拍動を一切感じ取ることができない。
アザトースやメフィストといった魔族たちの脅威を思えば、クロを欠いた今の状況は決して楽観できるものではないが、今はただ、目の前の目的地を目指すしかなかった。
やがて、運河の緩やかなカーブを抜けた船の窓から、それまでの景色を一変させる光景が飛び込んできた。
「これが、オブシリスか……」
視界に飛び込んできたのは、緻密な幾何学模様をなす「木組み」の邸宅が、まるで図書室の蔵書のように整然と並ぶ美しい景観だった。
一階部分は堅牢な石造り、その上に繊細な装飾の施された木造階が重なっている。
商業ギルドの本部が壊滅した影響は、まだ領都の平穏を乱すには至っていないのだろう。
行き交う人々は皆、気品ある身なりで、思索にふけるように静かに歩いている。
ヴェストリスで感じたような混乱はなく、この街だけは今も変わらず優雅な時を刻んでいるようだった。
船を下りた俺たちは休息も取らず、その足でシャルティア公の屋敷へと向かった。
街の中央、一段高い丘の上に建つその邸宅は、オブシリスという街の象徴そのもの。
屋敷の門を抜けると、そこには見事な「幾何学式庭園」が広がっていた。
手入れの行き届いた低木は鋭い角を持つ迷路のように整えられ、その間を彩る花々は、色の濃淡によって複雑な紋章を描き出している。
中央の噴水からは清廉な水の音が絶え間なく響き、この場所だけが世界から切り離されているかのような錯覚を覚えた。
屋敷そのものも、木材と灰色の石材が絶妙な調和を保っており、華美さよりも「知性」と「伝統」を感じさせる重厚な佇まいだ。
「ハンス様、シャルティア様がお待ちです。どうぞ、こちらへ」
出迎えた執事の案内で、俺たちは静まり返った廊下を進む。
その先に待つのは、この静謐を愛する領主シャルティア。
彼女に、俺たちはエルドルンで起きた惨劇のすべてと、裏切り者カフカの暗躍について伝えなければならなかった。
屋敷の最奥にある重厚な彫刻が施された扉が開かれた。
天井の高い応接室の窓からは、計算し尽くされた幾何学式庭園のパノラマが広がっている。
「ハンス公、お久しぶりです。何か急ぎの用件と聞き及んでおりましたが……」
椅子から立ち上がったその女性を目にした瞬間、俺の視界がわずかに歪んだ。
シャルティアのすぐ背後、かつて彼女が慈しみ、可愛がっていた剣聖――ネージュ・ロアが立っているような錯覚に陥ったのだ。
だが、まばたきを一つすれば、その幻影は霧散した。
そこにいたのは、かつて領地対抗戦で俺たちと火花を散らした双子の姉妹、イータとシータだけだった。
寵愛していたロアを欠いた主の背後は、どこか以前よりも寂しげに映っていた。
「お久しぶりです、シャルティア卿」
俺が努めて平然とした態度で挨拶を交わすと、シャルティア公は一瞬、その美しい瞳をさらに見開いた。
「あら、あなたは。……お久しぶりですね、オルメヴィーラ公」
彼女はそう返しながらも、俺の姿に、かつて激闘を繰り広げたロアとセレナのことを思い出したのだろう。
その聖母のような表情に、一瞬だけ、ふっと影が差したような暗い色が浮かんだ。
だが、彼女はすぐにそれを取り繕い、戸惑いの混じった微笑を浮かべた。
「……それにしても、まさかオルメヴィーラ公がご一緒だとは驚きましたわ。ハンスの密書には何も書かれておりませんでしたから。一体どうして、あなたがハンスと一緒にここへ?」
シャルティア卿は、まだ何も知らない。
これから起こるであろう混乱も、外の世界で確実に始まりつつある崩壊の足音も、この「静謐の都」には届いていない。
ハンス公は静かに一歩前に出ると、その場に満ちていた穏やかな空気を塗り替えるような、重々しい口調で語り始めた。
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