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春眠橋駅の近くには交番はない。あるのはコンビニやマンション。スーパーマーケットばかり。庶民の味方と呼ばれる警察官の拠点は、ここでは影一つ見当たらない。だからといって、治安が悪いということはない。駅の北口から北北東に十分も歩けば、機動隊の建物が目に入るし、駅周辺の歩道は幾人もの巡査官が定期的にパトロ-ルを行っている。むしろ治安は良いくらいだ。ここらで堂々と人に迷惑行為を働くのは、ゴミを散らかすカラスや野良猫が大半を占めている。野上のような歪な精神の持ち主が、堂々と子どもを略取できる場所ではない。
それでも、奈穂と共に地上に出た千春が、せわしなく周囲に双眸を向ける理由は、彼自身が警察に不信感を抱いているからだ。
千春は十一歳の時、警察に誘拐事件の被害者として保護されたことがあった。その際、警察は事件の加害者が不利になる話ばかり聞き入れたが、千春の―加害者は悪くない―という主張に関しては、一切聞く耳を持たなかった。千春の聴取を行った、右頬に大きなほくろがある婦人警官は、最初から彼が事件に巻き込まれ、混乱しているのだと決めつけ、加害者を庇うのは仕返しを恐れているからだと判断し、実際にそう処理した。
千春はその時―事件に関して言えば―混乱などしていなかった。ましてや、嘘の証言など一言も口にしなかった。しかし、大人たちは千春の言葉を一部しか聞き入れなかった。
千春からしてみれば、事実が警察に捻じ曲げられる様を、目の前で見てしまったのだ。彼が警察に対し不信感を抱くのは当然なのかもしれない。
「ねぇ、そろそろ離していいんじゃないかな」
大人子供が入り乱れる、混雑した歩道を抜け、両脇が民家で固められている、トラック一台通れるか通れないかくらいの狭い私道に入ると、千春は出しぬけに左手を握り締めてくる奈穂に迷惑そうに話しかけた。
千春たちが入った私道には、十数人ほど通学途中の学生が疎らに歩いている。二人とは違う学校の制服を着ている学生もいるが、ほとんどは千春たちが通う高校と同じ学校の生徒だ。
多感な思春期の子どもは、人と人が手を繋いでいるだけで、その二人が付き合っていると判断する。千春は奈穂のことを大切な友達だと思っているが、彼女と手を繋いで歩く姿を見た同級生は、二人をただの友達とは思わない。
同級生に奈穂と付き合っていると誤解され、山中と夢野が何回セックスしたなどという妙な噂を立てられては千春としては困りもの。ただでさえ誘拐事件の被害者として校内で名を知られ、不良というレッテルを貼られた同級生たちからからかいの対象とされているのだ。これ以上の面倒事はごめんだった。
「手、離してくれないかな」
千春が奈穂の目を見ながら、柔らかい口調で頼むと、奈穂は―少し残念そうな顔をしたものの―彼の手をあっさり離した。彼女からしてみれば、野上がついて来ないか心配だったのだろう。すぐに千春の手を離さなかったのは、野上に襲われた時に、彼を庇うためだったのかもしれない。しかし、千春は野上が自分の跡をつけて来ないと確信していた。地上に出てから辺りを見回していたのは、万が一野上が奈穂を追いかけてきた時に対処するためだった。そして、いざそのような状態に陥ることがあれば、自分を犠牲にして彼女を助けるつもりでいた。それが咄嗟にできるだけの強い覚悟を彼は持っていた。つまり、奈穂の努力は初めから意味を為していなかった。
千春は報われない奈穂のことを思うと、切なくなり、彼女とは反対側に視線を移した。
その後はしばらく沈黙が続いた。
奈穂は千春を気遣っているのか、彼とは体が触れ合わない程度に距離を取り、時折彼の横顔をじっと見つめる。が、喋り出す気配は全くない。千春はそんな状況に一人、必要以上に悶々とする。千春と奈穂は中学生の時からの知り合いだ。二人の間で無言が続いていようと、両者共に居心地の悪さを感じるほど、険悪な仲ではない。それでも千春は沈黙からどことなく気まずさを感じていた。
「さっきはありがとう、駅で助けてくれて」目の前の信号が赤に変わり、歩道で二人、信号待ちをすることになると、千春はおもむろに口を開いた。
「私と山中君は中学時代からの知合いなんだから、困った時はお互い様だよ」
奈穂は千春に顔を向けることなく、じっと信号機を見つめながら答えた。
「でも……」
「それに、礼なんていらないよ。私は山中君にはいつも助けられていたんだから」
千春の言葉を遮るかのように出てきた奈穂の言葉が、彼には引っかかった。
助けられていた?この僕に?
奈穂の言葉が信じられず、千春は僅かに驚きを目に宿す。そんな彼と目が合うやいなや、無理して作っているような、寂しげな笑みを浮かべる奈穂。
「私ずっと山中君と、また話がしたいと思ってたんだ。だから、今日は話しかけることができてよかったよ」
「うん……」
刹那の間。
「ところで、さっき駅で一緒だった男の人って、誰なの?なんか、山中君のこといやな目で見てたけど」
「あの人はストーカー。僕のことが好きみたいだ」
千春は洒落のつもりで野上をストーカーと呼称したが、奈穂はくすりともしなかった。
「あぁ、そうなんだ……。よく、現れるの?あの人は」
「いや、ここ数年は見かけなかったんだけどね。今日久しぶりに僕の前に現れたよ」
「それで?」
「それでって?」
千春が気まぐれに―年相応の少年のような―低い声で訊ねたと同時に、二人の目の前の信号が赤から青に変わった。千春はそれを認めると、いつの間にか不機嫌そうな顔になった奈穂に目で促し、二人並んで横断歩道を渡った。
歩道を渡りきると、奈穂は一瞬背後へと顔を向け、通学路とは反対の、マンションが立ち並ぶ住宅地へと歩を進める。
あれ、こっちじゃないのか?
千春は学校へと近付く左方の私道ではなく、右方の歩道へと進む奈穂の行動に疑問を覚えたが、彼女に合わせて左に向きそうになった体を右に向けた。
「どうしたの?」
奈穂に訊ねながら、千春は彼女に向かってゆっくり歩み寄る。
「学校はあっちだけど……」
「うん。でも、あそこにいたら話を聞かれちゃうでしょ?」
奈穂が話している間にも、何十人もの学生が千春たちが通った横断歩道を渡っていく。奈穂の傍で何となくその学生たちに目を向けているだけでも、数人と目があった。
確かに歩道の近くでは奈穂との会話の内容を同級生に聞かれてしまうおそれがあった。しかし、今更同級生に野上のことを聞かれても、千春に問題はない。彼が誘拐事件に巻き込まれたこと、過去に売春をさせられていたことは、彼の近所も同級生も、みなが知っていることだ。野上という男に言い寄られていようといまいと、地元付近で山中千春が普通の人間として周囲の人に扱われることはない。元々特殊な人生を歩んできた少年。そのことを幅広く認知されている少年なのだから。
さて、彼女は何を気にしているのだろう。僕に配慮しているのであれば、いらぬ気遣いだ。
「何か聞きたいことでもあるの?」
なぜかもじもじしている奈穂とは違い、千春は冷静に、それとなく彼女に話すよう促した。すると、奈穂はおもむろに重い口を開いた。
「あの、だからさ、あの男の人は、山中君に何の用があって会いに来たのかなと思って」
セックスだよ。奈穂の問を聞くと、千春の中でその言葉が真っ先に浮かんだ。しかし、遠慮勝ちに訊ねてきた少女には、その言葉はストレートすぎて余計な動揺を与えると考え、よく頭の中を整理してから千春は言葉を返した。
「野上は元来、僕の売春相手だったんだ。あの人が僕に会いに来たのは、僕の体目的だよ」
千春からの答えは、彼女の予想の範囲内だったようだ。
「そうなんだ……」
千春の返答を聞いた奈穂の表情に、目立った変化はない。千春はそんな奈穂の反応が気にかかった。自分が野上との関係を告白すれば、少しくらい彼女が―おおよそ野上に対して―不快感を露にすると思ったのだ。しかし、奈穂は不快感を露呈することなく、むしろ喜びすら感じているのか、彼女の顔は日が射し始めたのかように、徐々に穏やかになっていった。
「嬉しそうだね」
紅葉を散らす奈穂の明るい表情を、正面からまじまじと見つめながら、千春はうずく好奇心を抑えられず、彼女に話しかけた。
「うん。とっても嬉しいよ」
「そう。なんでそんなに嬉しいの?」
「だって、山中君の役に立てたでしょ?私」
奈穂は得意気に、それでいて密かに千春の双眸を見つめる。
千春は今一状況が理解できなかった。野上と一時的に距離を置いたところで、千春が彼から逃れることはできない。憂鬱な時間は先延ばしにされただけなのだ。
故に、彼女ように喜んではいられなかった。
「野上から引き離してくれたことなら、確かに感謝してるけど……」
「うん!よかったよ。今日ばかりはいつもより早く家を出ていて」
奈穂は千春と目が合い、満面の笑みを浮かべる。それを見て、ようやく千春は彼女が一つ勘違いしていることに気付いた。気付いたのだが……。
「ねぇ、山中君。放課後、話したいことがあるの。終わったら、すぐに私のクラスに来て。待ってるからね」
千春が奈穂の誤解を解く前に、彼女は笑顔で通学路へと向かって走って行ってしまった。一人残された千春は、制服のズボンのポケットに手を突っ込むと、溜め息を吐いて空を見上げた。
何があっても助けになってくれる彼女と一緒にいれば、野上は僕を襲えないだろう。でも、彼女は知らないんだ。僕の携帯電話は野上が持っているということを。
ポケットの中には、今朝あったものが、今ではなくなっていた。




