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 扉が開いて真っ先に目に入ってきたのは光だ。薄暗い地下の駅を照らす、一部の人間には鬱陶しくすら感じさせる、白い光。その蛍光灯の白い光は、べたりとへばりつく憂鬱な気持を更に強める。嫌気が差して、視線を移せば、今度は中年男のやつれた顔。その顔は、たった今停車した電車の車内で佇む乗客たちに、露骨に『早く出ろ』と語っている。

 学生服姿の中性的な少年、山中千春は気難しそうな中年男の顔を認めるや否や、そそくさと満員電車を降りた。

 春眠橋駅のホームは朝から学校の教室並に騒がしく、混雑している。その上、日頃のストレスが騒ぎに呼応するのか、駅構内は些細なことで激する大人が大勢いる。故に、ここではいつ爆発が起きてもなんらおかしくはない。

 千春は争い事……というよりは、面倒なことが嫌いだ。安っぽい背広姿の中年男の顔を見て、すぐに電車を降りたのは、単に目的地に着いたからというのもあるが、彼の気を害するようなことをすれば、無駄に人と関わる時間が増えてしまうと判断したからだ。

 そんなことも知らずに、中年男は停車してすぐに千春が電車から降りると、満足そうに僅かに空いた車内へと足を踏み入れた。

 この世界には残念な人が多過ぎる。話し合えば、理解できない人なんていないのに。

 千春はすぐには改札口には向かわず、壁に背を付け、心の中で悪態を吐きながら、停車中の電車の扉に空ろな視線を送る。

 電車に目を向けるのには特に意味はない。千春は少しでも改札口が空いている時に地上に出たいので、たった今下車した乗客たちの数が、ホームから少なくなるのを待っているだけだ。人気が少なくなるのを待っているだけで、決して人を待っている訳ではない。しかし、春眠橋駅のホームで、売店の横で立ったままスポーツ新聞を読んでいた若い男は、彼が駅に姿を現すのを待っていたようだ。

「よぉ、千春。元気か?」

 若い男は千春が下車したのを認めると、新聞を折りたたみ、再び走り出した電車を他所目に、彼に向かってゆっくりと歩み寄る。

「元気そうだな」

 気さくに声をかけ、千春の横に並ぶと、男は周囲の目を気にすることなく、彼の頭を優しくなでた。まるで千春の父親のように。

「良かった良かった」

 軽々しく体に触れられ、千春の心は唐突に不愉快な気持で一杯になった。

 ただでさえ登校日は憂鬱なのだ。

 それなのに、どうして朝からこんな厭な思いをしなければならない。

 千春は男に頭を撫でられると、不快な気持を顔に露呈し、頭に乗せられた彼の手を右手で乱暴に払う。そしてようやく男に双眸を向け、彼を面倒臭そうに睨む。

「おぉ。その反抗的な態度、相変わらずだなぁ」

 男はしばし、ぽかんとして払われた自身の右手を見つめいていたが、やがて千春に舐めるような視線を向ける。

「ほんと、変わらないよな。千春の綺麗な容姿も」

「何の用ですか?野上さん」

 『ぐひひ』と歪な笑みを浮かべる若い男、野上の安い挑発を無視して、十七歳とは思えない、少女のような地声で千春は訊ねる。

「仕事なら構いませんが、明日にしてくれませんか」

 今日は終業式だ。部活に所属していない千春は、明日から春休みで連休となる。連休となれば、わざわざ外に出る必要もなくなるので、家で引きこもってさえいれば、野上のような大人と会うこともない。今日さえ乗り切れば、野上とはしばらく会わずに済む筈だ。明日会う約束だけしておいて、あとは約束をなかったことにすればいい。千春はそう考えて訊ねたのだが、中々思い通りには事は運ばないようだ。

「今日じゃないと駄目だ」

 千春が頭を下げて懇願する前に、野上は即答した。

「ずっと千春に会うのを我慢してたんだぜ?少しは俺の身にもなってくれよ」

 野上が何を我慢しているのか。興味本位で聞き耳を立てる周囲の大人たちにはわからなくとも、千春には容易に想像がついた。野上が我慢しているのは千春との性行為だ。彼は元々千春が売春をしていた時の客だった。つまり、千春の言う『仕事』というのもまた、暗に性行為を表していた。

「どうしても今日じゃないと駄目なんですか?……今日はとても、する気にはなれない」

「おいおい千春、お前はいつからそんなことを言える立場になったんだ?」

 野上は先程から優しく穏やかな口調で、歪とはいえ、常に笑顔だ。

 この慌ただしい空気が流れる早朝の駅のホームでは、駅員も客も、千春と野上に興味を抱いたとしても、二人を知り合いとしか思わない。ましてや、大の大人がまだ高校二年生の少年を食い物にしようとしているなど、思い付きもしない。誰も二人の間に割って入って、半ば強引に誘拐されそうになっている千春を助けようとはしない。

「はぁ……」

 千春は大きくため息を吐いた。

 今朝から嫌な予感はしていた。何か自分に不幸なことが振りかかる。占いや霊能力といった類いのものを千春は信じていなかったが、漠然と自分の直感だけは信じていた。

 不幸が振りかかってしまう。ならばそれを避ければ良い。千春は安易にも自分が予感した不幸を、他人に難癖を付けられると解釈した。だからこそ、極力人気の多い場所に踏み込むことを避けていたのだ。しかし、実際には他人に絡まれることはなく、野上が目の前に現れ、不幸を避けるための行動が裏目に出ている。

 まさかよりにもよって精神異常者の野上と出くわすとは……。

 千春は自らの失敗に苛立ち、下唇に当てた歯に力を込める。

 千春が野上と初めて出会ったのは、今から約七年前。義母に売春を強いられていた小学生の千春は、昔から整った顔立ちをしていて、彼を求め、彼に好んでお金を払う大人は少なくなかった。千春の育ての親である義母は彼が何度も同じ客から金をせしめることができると、彼に対して日常的に行っている嫌がらせの回数を極端に減らした。そのこともあって、まだ純粋だった小学生時代の千春は、いわゆる固定客に対して過剰なくらい媚を売っていた。そして、その幼気な少年の媚を異常なほど愛していたのが、かつての千春の客の一人、野上だった。

 千春は母親を一歳の時に失くしている。そして、そのことによって引き取り先の叔母との間に生まれた確執と溝。家庭内で躾と称して日常的に行われる虐待。擦り切れた幼い未熟な心は、安らぎを求め続けた。野上はその気持を利用して、千春に何度も体を求めた。自分が性交をしたくなれば、千春が登校日であろうと彼を連れ出し、行為に及ぶ。野上という男は昔からそういう身勝手な人間だ。普通なら嫌われてもおかしくない。しかし、千春は野上を拒絶しなかった。その訳は、野上は性行為を求める時以外は、千春に対して―当時は―誰よりも優しかったからだ。

 行為が始まる前、手を繋ぎ、穏やかな口調で話しかけてくれる。それだけで千春は野上から安らぎを得ていた。

 幼い頃から自由のない千春にとって、野上は本当の家族のような温かい存在だった。千春は彼を父親のように思ったこともある。今となっては昔の話だが。

 現在では野上に対して嫌悪しか抱かない。近くにいるだけで不快だ。そんな状況であるにも関わらず、千春が野上から離れようとしないのは、性欲が爆発寸前の彼から逃れることはできないと確信しているからだった。

「千春、携帯電話持ってるだろ?俺に貸せよ。預かっといてやる」

 春眠橋駅のホームには、早くも疲れた顔をした大人たちが白線の内側で列を成し始めている。それでも野上は何食わぬ顔で千春に話しかける。挙動不審でなければ、本来変質者である野上を知らない者は、平然と振る舞う彼のことを変質者だとは思わない。

 周りが野上を変質者だと判断してくれない以上、誰かが野上を取り押さえてくれることもない。比較的混雑した場所に身を置いても、売春で足がつかないよう、できる範囲で慎重な行動をとっていた野上が、あっさりぼろを出すとも思えない。故に、ここで今時間稼ぎをしても無意味。性欲が溜まりに溜まった野上を言いくるめることも不可能。八方ふさがり。

 千春はうんざりして再度大きなため息を吐きたくなったが、替わりに身近の駅員や乗客たちに困惑した視線を送る。と、5mほど離れた階段付近、二列に並ぶ乗客たちの後方で、実験動物を観察する研究者のような好奇心剥き出しの眼差しを向けてくる、メガネをかけた若い女性と目があった。

 助けてください。

 千春は口にはせず、気持を双眸に込めて、女を見返す。が、やはりと言うべきか、女は千春に見られていることに気付くと、慌てて視線を線路へと向けた。

 かわいそうに何か言いがかりをつけられているのねきっとでもごめんなさいそれはあなたの問題であって私の問題じゃないわあなたが解決するべき問題だから私には関係ないわ。

 女の哀愁を帯びた―生気のない―横顔を見ていると、彼女の心の声が聞こえるような気がした。

 面倒なことには関わらないのが一番。賢く生きないと死んじゃうよね。

「……わかりました。とりあえず預けておきますよ」

 視線の先の若い女をつまらなそうに見つめながら、千春は『ふふ』と笑うと、携帯電話をズボンのポケットから取り出し、野上に手渡す。

「相変わらず利口だな、お前は」

 野上は笑顔で千春から携帯電話を受け取ると、彼が見つめる女へと冷たい双眸を向ける。

「人は誰も助けられないんだよ。千春の親父がお前を助けられなかったようにな」

 再び満面の笑み。歪で下卑た笑み。千春が『父親』の話題を忌避していることを知っていての発言。それはまるで出口のない迷路で狡猾な大人が無力な少年を追いかけまわすようなものだ。

 それでも相も変わらず、春眠橋駅のホームに佇む乗客たちは、二人の前をそそくさと行き交うだけで、千春や野上の表情を注視するものはいない。ましてや野上から千春を引き離そうとする者は一人もいない。少なくとも今現在は。

「それで、お願いがあるんですけど」

 千春はメガネをかけた女から目を離し、野上を軽く睨みつける。

「仕事は学校帰りにしてくれませんか?僕は無遅刻無欠席なんです。こんな下らないことで欠席なんかしたくない。お願いします」

「駄目だ」

 千春なりに野上に頭を下げたつもりなのだが、頼みはあっさり拒否された。

 少しくらい迷うかと思ったが、即答だった。

 どうしてもすぐに僕としたいんだな、このおっさんは。

「わかりました。じゃあ、行きましょうか」

 頼みをことごとく断られた千春は、抵抗する気も失せ、仕方なく改札口へと歩を進める。

 野上との性行為を先延ばしにできないとわかった以上、少しでも早く彼との仕事を終わらせたかった。

 千春が野上の前を進んで歩き始めたのはただ、それだけの理由だった。しかし……。

「おはよう、千春」

 唐突に、春眠橋駅のホームに、快活な少女の声が響き渡った。

 その少女はあらかじめ千春と示し合わせていたかのように、彼が野上から離れるのにはベストなタイミングで彼の前に現れた。そして、千春の左手を無言で掴むと、半ば強引に引っ張り、二人で階段を駆け上った。

「何をするんだ!」

 少女が階上から見下ろすと、野上は悲鳴のような怒声を上げて、彼女を見上げた。

 野上からしてみれば少女の行動は不意打ちだったのだろう。一瞬の内に千春たちと野上の距離は10m近く間ができていた。

 なんて馬鹿なことをするんだ。

 千春は左手を握り締めてくる少女より先に、まず階下で硬直している野上へと虚ろな双眸を向ける。そして、―多くの乗客たちから白い目で見られている―野上とは十分距離が取れていることを確認してから、隣で息つく少女、夢野奈穂を一瞥した。

「離れた方が良い」

 そう言って、千春は力ずくで奈穂からの拘束を解こうとするが、彼女は千春の手を放す気はないらしい。無言で彼の手を握る右手に力を込める。

 一体彼女は何をしようとしているのだろう。

 千春がまじまじと奈穂の横顔を見つめると、再び階下から声がした。

「君と千春はどういう関係なんだ?」

 今度は優しい口調。顔に笑みまで浮かべて野上はゆっくりと階段を昇り始める。

「そんな警戒するような目で見ないで欲しいな。俺と千春は親子なんだから」

 親子。その言葉を聞くと、騒ぎを聞き、駆けつけてきた駅員や乗客の大半は怒声を上げた野上に対する興味を失った。

 とはいえ、まだ野上に対して訝しげな視線を送っているものは何人かいる。奈穂もそのうちの一人だ。

 千春からしてみれば、野上の言葉を疑ってくれるのは少なからず嬉しかった。しかし、今この状況では素直に喜んでもいられない。

 千春は奈穂に野上のような変態性欲者と関わってほしくなかった。そう思うのは彼女が自分と同じような境遇で育った人間だと知っているからだ。

 二人は中学生の時から仲が良く、お互いがお互いのことを誰よりも理解していた。しかし、そんな彼女だからこそなのだろう。男に絡まれ、渋々歩き始めた千春を放っておけなかったのは。

「……もういいよ。行こう」

 千春は奈穂の手を強く握り返すと、彼女と野上が会話もできないよう小走りで出入口へと移動を始めた。

 千春としては、奈穂には野上と顔を合わせてほしくなかった。話もしてほしくなかった。しかし、奈穂は千春に引っ張られると同時に、野上に言葉を返した。

「恋人です」と。

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