井伊の赤鬼、妻の前では無力
天正十五年。
正月の慌ただしさが残る駿府城内で、井伊直政と茶々の婚儀が行われた。
白の束帯を纏う直政と、白無垢の茶々は、誰の目にも似合いの美男美女である。
旭はそれを見て「お雛様みたい」と嬉しそうに笑っていた。
婚儀を終えた茶々は奥御殿から井伊家の屋敷へ移ったが、屋敷は城内にあるため、引っ越した実感はほとんどない。
(あの狸親父……ウチの夫のこと、どんだけ好きなんだよ。)
と、思ったのは内緒である。
しかも茶々は婚後も変わらず旭の女房として仕えるため、生活自体も大きくは変わらなかった。
ただ一つ変わったことがあるとすれば、女房名である。
「少輔の方」
夫・直政の官位「兵部少輔」から取られたものだ。
直政が「兵部殿」と呼ばれている以上、その正妻である茶々が「少輔」と呼ばれるのは自然な流れである。
(女房名ってこんなもんよね……。)
平安の女房たちも父や兄弟、夫の官位から名を取っていたのだから、特別なことではない。
今日は旭からの呼び出しもなく、茶々は奥御殿には向かわず井伊邸の奥向きで雑務をこなしていた。
***
「御方様、殿より此方をと。」
呼ばれて顔を上げると、井伊家の侍女二人を連れて萩乃が入って来た。
「……ん?なに?」
「殿より、婚儀のお祝いがようやく届いた、との事です。」
「もう十分頂いてるのに……。」
侍女がそっと桐の箱を置いて、中を確認する。
深い萌葱色の生地に、美しい鶴が織り込まれた見事な打掛だった。
(……これ、高いんじゃない?)
茶々はじっと打掛を見つめていると、萩乃が声を掛けてきた。
「お召しになりますか?」
「……そうね、折角だもの。」
萩乃たちに手伝ってもらいながら、真新しい打掛に袖を通す。
「「まぁ〜……!!」」
「よくお似合いで!」
姿見に写る自分ですら、思わず見惚れた。
(殿って、センスがいいんだなぁ。)
二人の侍女はニコニコと告げる。
「是非とも、若様に!」
「きっと、お喜びになられます!」
(そこまで言われりゃ……。)
そして、茶々は早速、夫へ見せびらかしに行った。
「旦那様、如何でしょう?」
クルリと目の前で回ってみせると、直政は顔を赤くして目を逸らせる。
「うむ……。そのような美しい姿……誰にも見せとうないな。」
ほぼ、消え入りそうな声だった。
控えていた侍女はキャーキャーとはしゃぎ、萩乃に至ってはドヤ顔である。
(……つまり、独り占めしたいってこと?)
悪くない。
そして、ふとある考えが頭をよぎった。
何故、その考えに至ったのかは、茶々本人にすら、分からない。
しかし……。
(……見たい。)
気付けば、茶々は畳に額を擦り付けんばかりに、勢いよく土下座した。
「旦那様ぁぁぁあああーーーー!!お願いにございまするぅぅぅーー!!」
「お茶々ぁぁ!?」
「この打掛、お召しになってくださぁぁぁぁいっっ!!」
「………はぁぁ!?」
「私が見たいのですぅぅぅ!!」
「やめぬかぁぁぁぁーーーー!!」
侍女たちは流石にドン引き、萩乃は慣れてしまったのか、そっと目を逸らせる。
「お願いしますぅぅぅぅ!!一生のお願いぃぃぃーーー!!」
「婚儀が終わったばかりで、一生のお願いをそんな事に使うでないっ!!」
直政の意見は尤もだ。
「そもそも!何故、俺が其方の打掛を着ねばならぬ!?」
「私が見たいから!!」
「答えになってない!!」
その後も攻防が続いた。
結果は茶々の粘り勝ちである。
「旦那様、此方の小袖を!」
「……打掛を羽織るだけではないのか?」
「ダメ。」
直政は死んだ目で茶々にされるがままである。
一方の茶々は、水を得た魚のようにキャッキャとはしゃいでいる。
髷を下ろされ、化粧まで施されている。
「……ここまでする必要があるのか?」
「ございます!!」
即答だった。
かれこれ半刻。
「……出来た!」
ようやく終わったらしい。
直政が立ち上がると、侍女たちは唖然としていた。
「「……ああ。」」
「「若殿……。」」
今にも合掌しそうな雰囲気である。
「……やはり、似合ってないのではないか!」
「そんな事ございません!!お綺麗です!!」
茶々だけが楽しそうだった。
「やっば!イケメンの女装を独り占め出来るなんて、私ってば勝者やん!なにこれ!優勝!?
宝くじ一等当たる前に、運使い果たしたんかな〜!」
直政は思考を手放した。
(考えたところで、分からん。)
直政さん、新婚早々で前途多難。
この妻、普通じゃないぞ(笑)




