節制編前編:1章
人は、10㎝程度の深さの水たまりでも溺死する。例えば前に転倒し、手などが使えず起き上がれない場合、顔を水面から出すことができないのだ。
だから、彼女はこの数センチ程度の水面が地平の限り続くこの異空間で、仰向けに気絶できていたことに、心底安心した。
「いや安心できないから!」
誰に対して弁明しているのか、彼女、天ヶ崎ミカは飛び起きて叫んだ。真っ青な空と真っ白な水面が果てしなく続く空間は、彼女の叫びを反響させることなく吸い込んだ。
「これはなんなの…?」
また、誰に問うというわけでもなく言葉を零す。見渡しても建造物のけの字もなく、謎の半透明の液体が続いているだけ。
彼女の来ている薄紫色のパジャマは、撥水性でないにも関わらず水がしみ込んでおらず、白い半透明の液体は神秘的でありながら、不気味さを孕んでいた。
「誰かいないのー!?おーい!」
声を張り上げながら、彼女は当てもなく進む。彼女が体を動かす度、その波紋は彼方へと消えていった。あまりにも現実と乖離したこの世界に狼狽していると、ミカは後方に気配を感じた。
「ようこそ、天ヶ崎ミカさん」
先ほどまで誰もいなかったはずだ。それでも、突如として彼女は背後に現れた。
「え?…隠れるような場所もないし、え…?」
クエスチョンマークで脳を満杯にしつつも、目の前の謎の少女を観察する。純白のワンピースに、金色と空色のオッドアイ、滑らかで艶やかな銀髪。そして何より目を引くのは、背中から生えている布のような白翼と、頭上に浮かぶ金色のリング。どれだけ察しが悪くとも、目の前の人物がどうのような存在かわかるだろう。
「天使!?」
「うん、そうだよ。わたしは、普通の天使です」
「天使って、こんなザ・天使みたいな見た目してるんだ…」
「うーん、正確には、君の世界の天使の見た目に合わせてるんだ。本当は、もっと違う見た目なんだよ」
「へー、それはそれはなんとも配慮の行き届いた…」
そう言いながら、ミカは天使へずかずかと近寄る。至近距離から羽の一枚一枚の精巧さや、日本でも類を見ないような絶世の美貌に見惚れていた。
「羽かほっぺたか触っていい?」
「え?い、いいけど…君にされる最初の質問がそれになるなんて、思ってもみなかった…」
「あ、そっか。君が可愛いから忘れてたけど…ここって天国?私の認識は、天使がいるイコール天国なんだけど」
「うん。ここは、亡くなった人が集まる天国だよ」
その天使の発言に、ミカは頭を悩ませる。善行を積んだわけでも、何かを成し遂げたわけでもない彼女が天国に行けていることに少々の疑問があるが、今はどうでもいい。ミカは、自身にとって最大の疑問を投げかけた。
「私って、死んだの?」
まるで明日の天気を尋ねるように、ミカは淡泊に質問した。
「…うん。死因は、焼死」
「私、覚えてる範囲だと、睡眠薬飲んで寝ただけだったはずなんだけど。ボヤでた?」
「ええっと、コンセント、って言うんだっけ、あの紐がたくさんあったところから発火してたよ。君、部屋の掃除とかしてなかったでしょ?それで、火がすぐ回って…」
「で、私はその間睡眠薬のせいですやすや眠っていたと…なるほどなるほど…大バカ者じゃん!」
ミカは顔を抑えて縮こまる。なにしてんだ私、となんども呟いてから、腰を下ろして背後に手をつき、空を仰いだ。
「あ、でも、お父さんとお母さんは逃げられたみたいだから、安心して!」
「家失ってる!命あっての物種かもしれないけどだからって何失ってもいいわけじゃない!本当にごめんお母さんお父さんただ問題だけ残したガキでした!」
「そ、そんなに悲観的にならなくても…」
仰向けになって喚くミカの傍に行き、天使は屈んで宥める。
「そうだ嘘でしょ!というより夢でしょ!睡眠薬飲むと悪夢見るって言うし!あーそうだ絶対そうだ!」
弓のように弾きあがって天使に叫ぶ。一瞬驚いた表情をしてから、天使は言った。
「…すごく、長い夢になるかも」
極まりが悪そうに天使はミカに言い放った。暗示的に示すそれは、かえって信憑性が高い。ミカは、がっくりと肩を落とした。
正直、本心から夢を疑ったわけじゃない。夢特有の浮遊感もないし、妙に鮮明な景色と晴れやかな思考回路も起きているときのそれだ。それでも、現実の異常性に、ミカの中にある知識で結論を下すなら、それしかなかっただけだった。
「その…ごめんね。いきなりで、吃驚するのもわかるんだけど…」
「まあ、お前はもう死んでいる、なんて言われたら、流石の私でも取り乱すのさ…」
大きくため息を吐くと、今度はゆっくりと、水面へ腰を下ろした。
「…私、これからどうなるの?天国で贅沢三昧とか、今の気分じゃ絶対無理なんだけど」
「天国ってそういうところじゃないよ…こほん。それじゃあ、どうして君がここにいるのか、説明するね」
「よしきた」
ミカは胡坐をかいて万全をアピールする。立ったままでは話しづらいのだろう、天使の方も水面へ膝を曲げた。柄の悪いミカとは対照的に、天使は清楚で優雅に正座していた。
「えっと、君がここにいるのは、わたしのお願いを聞いてほしいからなの」
「無一文よ私」
「天国にお金はないよ!…そうじゃなくて、わたしは、君の才能を買ってここに召喚したんだ」
「私の、才能…?」
ミカは生前を振り返る。命を得てからは親から寵愛を受け続け、それにかまけて小中高とゲーム三昧。友人と呼べる人物はいない。親孝行をしたこともない。挫折を味わったこともない。ゲームばっかりしていて、学校をサボって、来る日も来る日も飽きずにゲームばかりしていた。
それが、天ヶ崎ミカ享年17歳の人生の概要である。そこから導き出される才能。
「ダメ人間の才能か」
「ちがう!というかそれはどう活かす才能なの!?…わたしが君に求める才能は、君の人生の7割くらいを占める、そのゲームの才能だよ」
「…ゲームの、才能?」
「そう。君には、あるゲームをしてほしいんだ。君って、地球上でも類を見ないプロゲーマーだし」
「プロゲーマー…」
ミカは、ゲームが上手かった。FPSやおちもの、カードバトルなどのゲームではプロに匹敵するほどの実力を持ち、RPGやサバイバルでは素早くゲームクリアまでたどり着く。それでいて放置系やスローライフ系も満遍なく楽しむ。
ミカは、全てのゲームにおいて、ハイレベルに楽しむ才能があった。
「なるほど。確かに私にぴったりだね」
「…どうかな、引き受けてくれる?」
「何ならこっちからお願いしちゃいたいくらい!私、オールジャンル行けるよ!SFだろうがホラーだろうがエログロだろうがなんでもどんとこい!」
「すごく頼もしいな…じゃあ、お願いするね!」
「…ちなみに、どんなゲーム?天国にしかないゲームとか、結構楽しみなんだけど!」
先程までの気分の落ち込みが嘘のように、ミカは鼻息を荒くして天使に問うた。少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らしてから、彼女は答えた。
「…わたしが創ったゲーム」
「…ほん」
反応を待つ天使とは裏腹に、ミカは、話の続きを待っている。天使はその態度に、驚いた表情を見せた。
「…お、驚かないの?わたしが、創ったんだよ?」
「いや、今の時代天使様もゲーム創るんだな、とは思ったよ。でもそれよりゲームのジャンルが聞きたい」
「生粋のゲーマーだね…えっとね、わたしの創ったゲームは、RPGなんだ」
RPG―ロールプレイングゲームの頭文字をとってその名称で呼ばれている。プレイヤーがゲームのキャラクターになりきり、様々な問題を解決していく、といったゲームジャンルだ。ゲーム、と言われて、真っ先にこのジャンルを思いつく人も少なくないだろう。
「RPGかぁ!私、RPG結構好きだよ!やれるならやりたい!」
「じゃあ、やろう!今すぐ!」
そういって天使はミカの手を引っ張って立ち上がり、ミカの方に手を置いた。
「今すぐって…媒体は?ゲームの機種は何なの?」
「ないよ!」
「わーお」
ゲームの常識を覆す発言に、感情を置き去りにした声が漏れる。ルンルンと効果音がついていそうなほど上機嫌な天使に、ミカはまた質問した。
「じゃあ、どうやってゲームをするの?」
「わたしが創ったゲームは、別次元にあるの。今から君を、その次元に送り飛ばすんだ」
「もしかして私3次元から2次元になる!?」
「別次元ってそういう意味じゃない!」
よかった、ペラペラにはならないと安心したりもせず、ミカは困惑していた。そんなことなど目もくれず、天使は何もない空間からゲートのようなものを切り開いた。ゲートの中には、紫色の銀河のようなものが渦巻いていた。
「ここに入れば、君はゲームの世界に没入できるんだ」
「いやストップ!色々言いたいけど、第一に、それはゲームなの!?少なくとも私のゲームプレイスキルは何の役にも立つ気がしない!」
「でも、オールジャンルできる、って…」
「いや、いやいやいや、違うでしょ!それは、私の知ってるゲームじゃない!」
「プレイヤーの行動が反映される物語だよ。ゲームじゃん!」
「天使様のゲームだ!技術力違いすぎて人間が創ったゲームしかしてこなかった私じゃお話にならないってことだよ!…あ、ちょ、押さないで!」
天使に無理やり背中を押される。運動不足のミカにとって、それがただ単に押されているだけでも、バランスを崩しそうになる。天使は、明らかに興奮していて、中を見てほしくて仕方が無いようだった。
「ちょ、待って、本当に待って、せめて心の準備とかさ…!」
「着いたあとでも話せるから!説明するなら、現地の方がしやすいでしょ?だから、ほら!」
「こ、この…せっかち天使ぃぃ!!」
そうして、天ヶ崎ミカは、異次元へと吸い込まれていった。
せせらぎが聞こえる森の中で、天ヶ崎ミカは目を覚ました。
「な、何があったんだっけ…」
ゆっくりと過去を思い出す。天国に行って、天使にゲームをプレイしてくれとせがまれて、異空間へ繋がるゲートへ入った。上下も左右もないあの空間で意識を失い、今、人気のない森の中で目を覚ました。
ひとまずの状況を確認すると、私は怒気を混ぜながら呟いた。
「…天使さーん?聞こえてるんでしょー?」
「うん、聞こえてるよ」
その可憐な声は、頭の内側から耳に届いた。ミカは周囲に誰もいないことを確認してから、この声が、天使様が直接脳内に送っている声なのだと結論付けた。
もう一度周囲に誰もいないことを確認する。そしてミカは、天へ向けて盛大に吠えた。
「『うん、聞こえてるよ』じゃない!何してくれるの!?」
「ちょっと乱暴だったのは、ごめんね。でも、このゲームの世界観を説明するなら、こういう風に風景を見れた方がわかりやすいでしょ?」
「顧客が求めてるものがわかってないよ…」
悪態をつきながらも、ミカは三度目の周囲の観察をする。今度は、正確に。見渡す限り広葉樹がまばらに生えた山の中で、遠くには小川が流れているのが見える。葉の隙間から漏れ出る日射量から、今は恐らく快晴だろう。
同様に、自分自身の状態も確認する。ついさっきまで来ていたパジャマのままで、所持品は何もない。裸足であるため、砂利の混ざった土の上を歩くのは少々痛みが走る。
痛みを認識できる。ミカにとってそのことは、果てしないリアリティであると同時に、ゲーム内であることを感覚的に否定する事象であった。
「というかさ、初期スポーン地点と初期装備舐めてるの!?」
「ごめんね、初めてのプレイヤーだったから…スポーン地点、変なところになっちゃった」
「ふざけんな!」
天を見上げ怒鳴っても、天使の顔は見えない。第一印象は可愛いだったが、今あの顔を見たら跳び膝蹴りをしに行くだろう。
ミカが溜め息を漏らしたと同時、ミカは遠方に何かいることに気がついた。
「…なんだあれ」
恐らく100mは離れているであろう距離に、それはいた。ミカは、目を凝らして観察する。
焦げ茶の毛皮。丸っこい身体。鋭く正面に伸びた二本の牙。深紅の瞳。平べったい鼻。どたどたと、短くありながら俊敏に動く脚。
それは、現実で言う、いわゆるイノシシだった。
それが、こちらに向かって全力疾走している真っ最中だ。
「やっば…!!」
イノシシに背を向け、脱兎のごとく走り出す。足裏の痛みなど忘れて、無我夢中で走った。
しかし当然、距離は縮まっていく。野生を生きるたくましい猪と、平和に飯を食って生きてきただけの人間の差が、はっきりと出ていた。
「…そうだ!」
ミカは、ある策を思いついた。数m向こうのお手頃な広葉樹に目を付け、その木をよじ登る。出っ張った部分の多い木だったので、思いの外スムーズに登れた。
やがて2mくらい登り、息を切らしながら、ミカはイノシシを睨んだ。
「っはあ、っはぁ…直立二足歩行舐めんな…」
高いところなら安全作戦だ。
猛スピードで走って来ていたイノシシは徐々に減速し、木の前で停止した。その深紅の瞳は、ミカを捉え続けている。
数秒間睨み合った後、イノシシはそっぽを向いて去って行った。ミカは、安堵の溜め息をつく。
「あっぶな…いくらゲームでも、木を登るイノシシはいないか…」
枝の根本で呼吸を整えつつ、ひとまず、天へ問う。
「天使様ー…どういうこと、これ」
「さっきのは、チャイノシシだね。基本草食なんだけど、空腹時は兎とか、虫とか、人を食べたりするの」
「人食べる点以外は現実と同じだ…」
「一応、魔物なんだよね。偶に人里に降りて来ては、建物を倒壊させたりとか、人を食べちゃったりとかする害獣ではあるんだけど…でも、可愛いの。ちゃんと観察したらね、同じ種族同士で怪我をなめ合ったりとか、仲良く遊んだりするんだよ!」
「その可愛さで前半部分の怖さ帳消しにできないから!…って、違う!私はあれの生態を知りたいんじゃなくて…!」
と、言いかけて、ミカは気がついた。
今の説明を聞いて、明らかに、現実の尺度で計ってはいけないことがあった。
「建物を、倒壊させる…?」
あれの図体は、小ぶりだった。体長は50cmほど、肩高も30cmほどだった。一般的なバランスボールくらいのサイズのあれが、建物を倒壊させると聞いて、冷や汗の一つや二つかいてもおかしくないだろう。
つまりミカが、あのイノシシが離れていたのは獲物を諦めたわけではなく、助走をつけてこの木を折ろうとしているのだと気づくことも、なんらおかしなことではない。
「ちょ、ま…!」
ミカが言葉を紡ぐよりも早く、イノシシは木に激突する。木は激しく振動し、葉は喧しく歌っている。ミカはなんとか幹に掴まり、放り出されることを避けた。しかし、イノシシはまた遠くへ離れる。二撃目をお見舞いする気だろう。
高いところなら安全作戦は、失敗した。それどころか、退路は断たれ、絶体絶命のピンチへと陥った。ミカは、まずいまずいと幾度も呟きながら、打開策を考えていた。
1つ目、地上に降りて逃げる。考えるまでもなく、却下だった。孰れ追いつかれ、捕食されるだろう。
2つ目、このまま諦めてくれることを待つ。こんな策と呼べるのかも怪しい作戦は、勿論却下だ。またこの木に突進されてしまえば、今度は木そのものが耐えられるかもわからない。
3つ目、どこぞのゲームみたいに、上から踏んづけて倒す。この非常事態に、こんな間抜けな選択肢を思い浮かべていることを、ミカは悔いた。
逃げることも、耐えることも、打ち勝つこともできない。これは即ち、ミカ一人ではどうにもできないことを指し示していた。
となれば、4つ目の選択肢は単純だ。
「天使様!たすけて!」
「え!?」
助けを乞う。もう、これ以外に道はない。
「スポーン地点、おかしかったんでしょ!?今からでも違うところに飛ばして!できるでしょ!?」
「ええ…!?わたし、ゲームそのものには干渉できないんだけど…」
「なんもできないことないでしょ製作者なんだからさぁ!」
「コードを書き換えないといけないから、数分はかかるんだけど…」
「5秒で終わらせて!お願いだから!私に悪いと思ってるならとっととやって!」
段々と、ミカにも心の余裕がなくなってきた。何もできないこの状況では、思考ばかり動く。いや、正確には、恐怖ばかり募っている。
いくらゲームでも、痛みがあることは現実だ。裸足で歩けば痛いし、乾燥した木に張り付くのも痛い。それでも、それらは『傷にもならない怪我』だ。少なくとも、あの鋭い牙で身を貫かれたり、肉を嚙み千切られたりするような痛みと比べてしまえば、些細な痛みだろう。
死だ。死が、身近にあるのだとミカは悟ってしまった。
やがてイノシシは、助走をつけてこちらへ走ってくる。また、ミカは体を大きく揺らした。
「…っ!ま、まだなの、天使様!?本当にまずいんだけど!!」
天使は沈黙する。離席しているのか、集中しているのか、無視しているのか。どちらにせよ、ミカは憤りを抑えるしかなかった。
今の突撃で、何本か枝は折れ、葉は散った。ミカが乗っている枝の先も、途中で折れて垂れ下がっていた。心なしか、木が傾いているような気がする。考えれば考えるほど、怯え竦んでしまう。
そこで、イノシシの姿が見えないことに気がついた。木は密集しているわけではないので、見晴らしは良い。見落とす訳がない。
ミカは前方と左右を見渡す。一度目の突撃の後は、ミカにとっての前方で助走をつけていた。また同様にこの木に突進をするつもりなら、何の遮蔽物もない場所から走り出すに決まっている。
突然対象を確認できなくなったミカは、恐怖と混乱のあまり、後方の安全確認という、至極単純な動作を忘れていた。
イノシシは、傷をつけていた箇所の反対方向から激突した。バキッ、と、耳障りな音が鳴る。ミカは咄嗟に幹を掴んだ。しかし、木は根元から折れていた。そんなことをしたところで、倒伏が止まることなど有り得なかった。
「…っがは!」
反射的に受け身を取ろうとしたため、ミカは木を背にして倒れた。つまりそれは、今ミカの背中が、身体が無事ではないことを示す。
「はぁっ、はぁっ…!」
倒木は、ミカの体内の臓物を破裂させた。肺の中の空気も、胃の中の酸も、心臓の中の血液も、全て溢れて口から零れていた。
息を吸おうにも、腹を膨らませられない。体を動かそうにも、痛みで力が入らない。
痛い。熱い。苦しい。それだけが、ミカの頭を支配していた。
目の焦点が合わなくなる。ぼんやりと、イノシシを見つめる。イノシシは、頭以外の唯一下敷きにならなかった左腕に近づき、涎を垂らした。
「…っ!」
そうだ。これは、捕食だ。ミカはそう思い出した。
イノシシを振り払おうと拳に力を籠める。しかし、酸素が欠乏しているからか、腕が上がらない。イノシシはその努力を嘲笑うかのように、口角を上げた。
イノシシは、その鋭い牙を、ミカの左腕に刺した。
「…ッ!ッッッ!!」
声にならない悲鳴が、ミカの口から胃液や血液に混じって排出される。イノシシはそんなミカにお構いなく、邪悪に笑いながら牙を抜き差しする。その度に左腕から血が噴出し、激痛がミカを襲う。
やがてイノシシがミカに齧りついた辺りで、ミカは失神した。




