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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第5章:整えられた街

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第53話 夜に動くもの

七月の終わり。鏡淵の“調整”は、ついに目に見える現象として輪郭を持ち始める。これまで観測されていた違和感や修正は、街の構造の一部として静かに存在していた。しかし今回は違う。制御ユニットの異常な明滅、変質した空気、そして夕奈の口から零れる「取り込まれる」という言葉。均一化は環境だけではなく、人間そのものへ及び始めている。この章は、その兆候が初めて夜の静寂の中で露出する記録である。

 七月の終わり、深夜に目が覚めた。


 時計は午前二時を過ぎていた。

 晴斗は、最初は理由が分からなかった。

 喉が渇いたわけでも、悪夢を見たわけでもない。

 ただ、何かに引き起こされたような目覚め方だった。


 横を見ると、夕奈が眠っていた。

 いつも通り、袖を掴んだまま。寝息は規則正しい。


 異常はない。


 でも、部屋の空気が、少しだけ違った。

 密度が、変わっていた。


 昼間の空気より、少しだけ重い。

 湿度が変わったわけでも、温度が変わったわけでもない。

 でも、空気の「質」が、何かが混じったように感じられた。


 晴斗は静かに起き上がって、廊下に出た。


     * * *


 リビングの方から、音がしていた。

 機械的な音だった。

 規則正しいリズムではなく、不規則な明滅と振動が混じったような音。


 壁の制御ユニットが、異常な動きをしていた。

 いつもは穏やかな心拍のリズムで明滅しているはずのユニットが、

 速度を上げていた。

 

 明るくなる、

 暗くなる、

 その間隔が乱れている。


 まるで、心拍が乱れているような——。


 晴斗は、制御ユニットの前に立った。

 明滅が、さらに速くなった。


 その瞬間、リビングの空気が変わった。

 さっきより、もっと密度が上がった。

 空気が、見えない何かで満たされていくような感覚。

 呼吸が、少しだけしにくくなった。


(何かが、調整されている)


 ほのかが言っていた言葉が浮かんだ。

 この街は、リアルタイムで修正されている。


 今、その修正が、何らかの理由で激しく動いている。


     * * *


 廊下から、足音がした。

 夕奈だった。


 眠そうな目で、廊下に出てきた。

 晴斗を見て、少しだけ首を傾けた。


「お兄ちゃん、何してるの」

「起きたんだ。制御ユニットが変な動きをしてて」


 夕奈が、ユニットを見た。

 その瞬間、明滅が少しだけ落ち着いた。

 速度が緩まって、いつもに近いリズムに戻り始めた。


「……調整中なんだよ」

 夕奈が、静かに言った。

「調整中って、何の?」

「さあ。でも、たまにこうなる」

「たまに?」

「うん。夜中に、こうなることがあるの」


 晴斗は、夕奈を見た。

「知ってたのか、こういうことが起きるって」

「……なんとなく」

 また「なんとなく」だった。


 でも今夜の夕奈の「なんとなく」は、昼間のそれより少しだけ重かった。

 なんとなく、

 ではなく、知っている。

 でも、知っていると言いたくない——そういう「なんとなく」だった。


「夕奈、何か知ってるなら教えてほしいんだけど」

 晴斗が言うと、夕奈は少しだけ黙った。

「……触れたら、取り込まれる」

「何に」

「調整の中に」


 その言葉が、どういう意味なのか、晴斗には完全には分からなかった。

 でも、「取り込まれる」という言葉が、単なる比喩ではない気がした。


「夕奈は、取り込まれたことがある?」

 夕奈が、少しだけ考えた。

「……あるかもしれない」

「いつなの?」

「鏡淵に来てから、ずっと」


 その言葉が、静かに落ちた。

 晴斗は、夕奈の手を見た。

 袖を掴んでいない。

 廊下に出てきて晴斗のそばにきたとき、

 夕奈は袖を掴んでいなかった。


 珍しかった。


「夕奈」

「うん」

「怖くないか」

「何が?」

「.......取り込まれること」

 夕奈は少しだけ間を置いて答える。

「怖い、と思う前に——なんか、自然にそうなってく感じがする」


 制御ユニットの明滅が、完全に元のリズムに戻った。

 空気の密度が、少しずつ元に戻っていく。

 夕奈が、晴斗の袖を掴んだ。


「帰ろ、もう」

「ああ」


 二人で、廊下を戻った。

 夕奈の足取りが、少しだけ重かった。

 いつもの軽さが、今夜はなかった。


     * * *


 部屋に戻って、夕奈がベッドの端に座った。


「お兄ちゃん」

「なに?」

「……なんでもない」


 横になる。

 袖を掴む。

 目を閉じる。

 

 その一連の動作が、いつもより少しだけ、機械的だった。


 晴斗は天井を見た。

 「自然にそうなってく」という夕奈の言葉が、頭の中に残っていた。

 抵抗できない。

 気づかないうちに変わっていく。

 それが、鏡淵という街が夕奈にしていることだとしたら——。


 制御ユニットの明滅が、壁越しに感じられる気がした。


 心拍のリズムで、静かに、続いていた。

本章では、“調整”が単なる都市制御や環境維持ではなく、人間の認識や存在そのものへ干渉する構造として描かれる。特に重要なのは、夕奈が恐怖や拒絶より先に「自然にそうなっていく」と語る点にある。侵食は暴力的ではなく、違和感のないまま進行する。だからこそ抗いにくい。袖を掴む行為や定型化された動作も、安心と依存の境界を曖昧にしながら、少しずつ“調整済み”のものへ変質していく。

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