第52話 触れてはいけない領域
食卓に現れる朔也の頻度が増し、
家の中に「調整」という言葉が自然に溶け込み始める。
そんな夜、ほのかはシステム端末に現れた未知の単語「YATA」を目撃する。
それは日常の中に埋め込まれた異質な記号として浮かび上がる。
七月の半ば、朔也が夕食に来た夜のことだった。
今月で三回目だった。
月に一度か二度だったのが、気づけば週に一度のペースになっていた。
恵子が歓迎するから、
宗一が喜ぶから、
夕奈が自然に受け入れているから——誰も止めなかった。
晴斗だけが、少しだけ引っかかりを感じていた。
でも、その引っかかりを言葉にする理由も、機会も、なかった。
* * *
その夜の夕食は、賑やかだった。
朔也が、学園の話をした。
神代学園の歴史、創設者のこと、街との関係。
話し方が上手いから、聞いていると自然に引き込まれる。
夕奈が笑い、恵子が相槌を打ち、宗一が補足する。
その流れの中に、晴斗も入っていた。
入っていながら、少しだけ外から見ている感覚があった。
夕莉とほのかだけが、朔也から一番遠い席で、静かに食事をしていた。
* * *
食後、ほのかがキッチンの片付けを手伝っていたとき、端末を見た。
システム端末——壁に埋め込まれた、小さなモニターだった。
家の設備を制御するためのもので、
温度、
湿度、
照明の設定が表示されていた。
その画面の隅に、見慣れない単語があった。
YATA。
ほのかは、その単語を見た瞬間に、手が止まった。
YATAの意味は分からなかったが、あの鏡の名前に似ているとは思った。
でも、見てはいけない何かを見た、という感覚が来た。
(なんやろ、これ)
もう少し見ようとした瞬間、夕奈が来て背後から声をかけた。
「ほのかちゃん、何してるの」
声を突然かけられてびっくりしたことは悟られないよう、
ほのかは、意識して普通の声で答えた。
「端末の操作、見てた」
「触らない方がいいよ」
夕奈の声が、少しだけ固くなった。
「なんでや?」
「触ったら、調整が乱れるから」
その「調整が乱れる」という言い方が、ほのかには引っかかった。
夕奈が、「調整」という言葉を使った。
宗一がよく使う言葉。朔也も使う言葉。
夕奈は、この街の仕組みを、どこかで聞いて知っているのか。
それとも、自然に吸収して使っているのか。
「夕奈ちゃん、YATAって何か知ってる?」
夕奈の表情が、一瞬だけ変わった。
笑顔が消えた。でも、怒ってもいない。何か別の——警戒、に近い表情だった。
「知らない」
即答だった。
「でも、触れちゃだめなの?」
「うん」
「なんで、知らないのに触れちゃだめって分かるの」
夕奈が、少しだけ黙った。
「……なんとなく」
その「なんとなく」が、ほのかには答えに見えなかった。
* * *
そのやり取りを、廊下から聞いていた晴斗が、後でほのかに話しかけた。
「さっきの、YATA?」
「見えた?」
「端末の画面」
「なんか知ってる?」
「知らない。でも、父さんの書類にも似たような単語が出てきたことがあった気がして」
ほのかは少しだけ考えた。
「YU-NAとは違う?」
「違う。でも、同じ種類の言葉っぽい」
二人で、少しだけ黙った。
「晴くん、朔也さんに聞いてみる?」
「……難しいな」
「なんで?」
「聞いたら、何かが動き出す気がする」
ほのかは、夕莉が言っていた言葉を思い出した。
言葉にすれば確定する。動けば、調整される。
「じゃあ、今日は置いとく」
「そうしよう」
二人はそれ以上、その話を続けなかった。
でも、YATAという単語は、ほのかのノートに記録された。
* * *
その夜遅く、リビングで朔也と宗一が話していた。
晴斗は水を飲みに起きて、廊下でその声を聞いた。
「大きな調整が必要になるかもしれません」
朔也の声だった。
「どのくらいの規模で」
「現時点では、まだ試算中です。でも、来月中には判断が必要になると思います」
「分かった」
宗一の声が、短く答えた。
「YU-NAの状態は」
「安定はしています。でも、上限が近づいています」
上限。
晴斗は、その言葉を頭に刻んだ。
夕奈の「状態」の上限が、近づいている。
その「上限」が何を意味するのか。
廊下に立ったまま、晴斗は動けなかった。
リビングのドアが閉まっていて、中の二人には見えない。
でも、その向こうで交わされている言葉が、
晴斗の胸の中に、冷たい重さを持って積み重なっていった。
水を飲みに来た理由を忘れて、晴斗は自分の部屋に戻った。
夕奈が眠っていた。
袖を掴んだまま、静かに寝息を立てていた。
その顔を見ながら、晴斗は思った。
上限、とは何か。
そして、上限が近づいたとき、何が起きるのか。
答えが出ないまま、夜が更けていく。
YATAという記号、YU-NAという状態管理、
そして「上限」という概念が断片的に繋がり始める。
家族の会話の裏側で、
街と人間を対象とした調整計画の輪郭が滲み出す中、
晴斗だけがその危うさを確かな違和感として抱え込む段階に入る。




