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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第5章:整えられた街

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第51話 見えない管理者

宗一の「調整」という言葉は、単なる業務用語として繰り返されてきた。

しかしその裏側には、街全体を維持するための見えない制御の存在がにじみ始める。

ほのかは制御ユニットの規則性に触れ、この街の“同期構造”を観測する段階へ入る。

 七月に入った週、宗一が珍しく早く帰ってきた。


 夕食の準備をしていた恵子が、少しだけ驚いた顔をした。


「今日は早いのね」

「少し調整があってな」


 調整、という言葉を、宗一はよく使う。

 仕事の調整、設備の調整、スケジュールの調整——

 いつも「調整」という言葉を使う。


 晴斗は、その言葉が気になり始めていた。

 調整、という言葉は、何かを意図的に変えることを指す。

 でも宗一が使うとき、

 それは単なる仕事の話なのか、

 それとも別の何かを指しているのか、

 判断できなかった。


     * * *


 夕食後、宗一が珍しくリビングに残った。

 いつもは食後すぐに書斎に戻るのに、

 今日はソファに座って、コーヒーを飲んでいた。

 

 ほのかも、今日は夕食に呼ばれていた。

 五人と一人でリビングに座っている、珍しい光景だった。

 

 夕奈が晴斗の隣に座って、袖を掴んでいた。

 夕莉は少し離れた席から全体を見ていた。

 ほのかは宗一の近くに座っていた。


「宗一さん」

 ほのかが、声をかけた。

「何だい、ほのかちゃん」

「少し聞いていいですか」

「いいよ。何を聞きたいんだい?」

「この街の、制御システムのことを」


 宗一が、少しだけ動きを止めた。コーヒーのカップを持ったまま、ほのかを見た。

「何の話かな」

「壁についてる制御ユニット、ありますよね。うちもそうやし、この家にも。あれ、何をしてるんですか」

 宗一は、少しだけ間を置いた。

「快適な生活環境を維持するためのシステムだ。気温、湿度、照明。そういったものを自動で調整している」

「それだけですか」

「それだけだよ。ほのかちゃんは心配性だなぁ」


 ほのかは、その答えが全てでないことを感じていた。

 でも、それ以上押すことができなかった。

 しかし、それが掴めただけでも、今日は良かった。


     * * *


 その夜、ほのかは壁の制御ユニットを観察した。

 自分の部屋の壁に埋め込まれたユニット。

 白い四角いパネルで、小さな明滅を繰り返している。

 

 観察していると、明滅のパターンに規則性があることに気づいた。

 ランダムではない。

 一定のリズムで、明暗を繰り返している。

 心拍のような、と思った。

 

 一分間に、六十回から七十回。

 ちょうど、安静時の人間の心拍数に近いリズムだった。


(心拍数に合わせてる?)


 その考えが浮かんだとき、ほのかは少しだけ寒気を感じた。

 制御ユニットが、心拍数と同じリズムで明滅している。


 それは偶然なのか、それとも——

 人間の体のリズムに、この街が合わせようとしているのか。

 あるいは逆に、このリズムに人間の体を合わせようとしているのか。


     * * *


 翌日、夕莉にそのことを話した。


「夕莉ちゃん、制御ユニットのこと気づいてた?」

「うん」

「心拍数に似たリズムで明滅してること」

「知ってた。でも、それだけじゃない」

「他に何かある?」

 夕莉が、静かに言った。

「街全体が、同じリズムで動いてる。信号のタイミング、街路樹の揺れ方、人の歩くペース。全部が、あの制御ユニットのリズムに合わせられてる」

 ほのかは、少しだけ黙った。

「それって、街全体が一つの生き物みたいってこと?」

「生き物というより」

 夕莉が、窓の外も視線を移しながら、言葉をつなぐ。

「一つのシステム。心臓があって、血管があって、全体が協調して動く。でも、その心臓がどこにあるかは——」


「八咫の鏡?」


 夕莉が、少しだけ驚いた顔をして、ほのかを見た。

「知ってたの?」

「夕莉ちゃんのノートに書いてあったのを、前に少し見た」

「……そう」

 夕莉は否定しなかった。

「そうかもしれない。鏡淵の中心にある鏡が、この街のリズムの源になってる可能性がある」

「宗一さんは、それを知ってる?」

「知ってる。管理してる側の人間やから」

「朔也さんも?」

「朔也さんは——」

 夕莉が、少しだけ間を置いた。

「もっと深く、関わってる気がする」


 その言葉が、ほのかの胸に、重く落ちた。

 宗一が「調整があって」と言ったとき。

 朔也が「ズレは修正すべき」と言ったとき。

 全部が、この「見えない管理者」の話に繋がっていく気がした。


「夕莉ちゃん」

「うん」

「うちたち、どうすればいい?」

 夕莉は少しだけ考えてから、答えた。

「今は、見てるだけでいい」

「それだけ?」

「動けば、調整される。でも、見てるだけなら、調整されない」


 観測は、介入ではない。

 だから、調整の対象にならない——夕莉の論理は、そういうことだった。

 

 ほのかは、その論理を理解しながら、少しだけ息苦しさを感じた。

 見てるだけでいい、という選択が、正しいのかどうか。

 

 でも今は、それしかないのかもしれない。

 制御ユニットが、心拍のリズムで明滅していた。

 

 ほのかは、そのリズムと自分の呼吸が、

 少しだけ合っていることに気づいた。

 

 気づいた瞬間に、意識的に呼吸を変えた。

 ズレたまま、でいる。

 

 今夜は、それだけを選んだ。

鏡淵は個別の快適性を提供する都市ではなく、

全体が一つのリズムで動く同期システムとして描かれるようになる。

夕莉の分析により、それが八咫の鏡を中心とした制御構造である可能性が示唆され、

ほのかは「観測するだけ」という立場でズレに踏みとどまる選択を取る。

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