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第32話「射線の向こう」

 思わずたたら踏むディートハルト。

 そんな彼を前に、一度レイは後ろへと下がると、そのまま冷静に眼の前の青年を観察する。


 だがディートハルトは一度大地に剣を突き立てると、まっすぐに前を睨み、そのまま体を再度前進させる。


 既に理解していた。

 眼の前の男の実力は。


 いや、理解はできていない。

 その実力の全貌は。


 だがいずれにせよ、まだ自分の体は動く。

 そして味方が敵の旗を奪っている可能性が零でない以上、諦める理由にはならない。


 目の前の男は既に剣を取り落としている。

 息は乱れ、体は傾ぎ、その目の焦点はどこか合ってないように見えた。


「行くぞ!」


 ディートハルトはレイを目掛けて駆け出し、横薙ぎの一閃を放つ。

 だがその瞬間、突然レイがしゃがんだ。


 ディートハルトの剣は虚空を切り裂き、そして剣を握る手に低い姿勢から天に向けられるかのように蹴りが放たれた。

 途端、ディートハルトの手に強いしびれが走り、慌てて距離を取る。

 すると、つい先程まで自らの身があった場所に、眼の前の男の蹴りが空を切った。


「君は……何者だ?」


 思わず声が出た。

 出て、後悔した。


 聞くべきではなかったという感情が彼を包み込む。

 そしてその彼の後悔を知ってか知らずか、レイは落ちていた自分の剣を手にしながら、苦笑を浮かべる。

 そしてそのまま小さく呟いた。


「文学科の一年、レイ・ラマリンです」

「そうか。いや、その答えで十分だ」


 言葉とともに、ディートハルトは周囲を見回す。

 谷間による視線の空白地帯。


 そう、この場は観客席からはまさに死角の場所と言えた。

 だからこそ、眼の前の男は自身に答えてくれたことを彼は理解する。


 不思議な心境だった。

 学生で自らを圧倒する存在がいる。


 そのことに不思議と悔しさを覚えない。

 家族は、親族は激怒するだろう。


 この国を武を体現せよと、育ててきた彼らは。

 だがそんなことは些事に過ぎなかった。


 今の彼にとって、眼の前の男はこの試合において最大の強敵であり、同時にこれまでついぞ出会うことがなかった彼にとっての圧倒的強者でもあった。


 不思議と口元に笑みがこぼれる。

 ただ敷かれたレールを歩く日々。

 それに不満を感じたことはない。


 自らの道は一族の願いによって敷かれたものであり、良き貴族子息たらんと願った自分にとって、まさに最善の道でもあった。

 ただそれでも、そのレールの上に初めて異物が立ちはだかった。


 いや、おそらくほんの少しでも戦場を変えれば、眼の前の異物はその姿を消すだろう。

 いま、この時、この場所、この瞬間だからこそ、彼は眼の前の異物と正面から道が交わったのだから。


 だからこそ、その幸運に、そして同時に不幸に感謝しながら、ディートハルトは半歩踏み出した。


 だがその瞬間、レイの刃先が鼻先一寸にあった。


 弾いた。

 弾く動作が、間に合った。

 間に合ったのが、奇跡だった。


 刃と刃が、触れた。

 触れた瞬間、ディートハルトは知った。


 眼の前の男の剣の本質。


 それは力でもない。

 それは速さでもない。


 眼の前の男の剣は、あるべき瞬間に、あるべき場所に、あるべき角度に存在する。

 実際、刃先がディートハルトの剣の側面の、最も力の乗らない一点を、撫でていた。


 撫でただけで、ディートハルトの剣の軌道が、僅かに逸れた。

 僅かに、というのは、剣士にとって致命的に、という意味だった。


 二合目。


 ディートハルトが踏み込んだ。

 完璧な踏み込みだった。


 学院最速の踏み込みだった。

 無敗の踏み込みだった。


 レイは踏まなかった。


 半歩、引いた。

 ディートハルトの剣がレイの胸を貫くはずの軌道の上に、レイの胸はなかった。


 半歩分、後ろにあった。

 ディートハルトの剣が、空を切った。


 空を切った瞬間、レイの剣が、ディートハルトの腕の付け根に、触れた。


 触れただけだった。

 触れて、止まった。


 判定徽章が……光らなかった。


 触れる強度が、足りていなかった。

 足りない強度で、止めていた。


 その意味するところは……わざと。


「……無粋であることは理解している。だが理由を教えてもらえないか?」


 レイは、答えなかった。

 答える代わりに、半歩、引いた。


 構えは、解かなかった。

 崩れない構えで、間合いだけ開けた。


 ディートハルトは、理解した。


 やはりこの男は己の実力を表に出すつもりがない。

 ディートハルトを判定で排除すれば記録に残る。

 だがこの場に釘付けにするだけならば、記録に残らない。


 時間。

 ディートハルトは、悟った。


 この男は、時間を奪っているのだ。

 最初から。


 自分に合わせて剣を重ねてくれるのは、あくまで彼の好意にすぎない。

 間違いなく眼の前の存在は、学院の制服を着て、学院の試合に出ているだけの、学生を超越した何かだった。


 ディートハルトの剣が、初めて止まった。

 止めたのは、判断だった。


 目の前の男に対して、自らの剣術が通用しないことを……認めた。

 認めた上で、なお踏み込めば、自分の剣が崩れる。

 崩れることが、ディートハルトの矜持にとって、より深い敗北だった。


「……なぜだ?」

「あなたの誇りが汚されたから……でしょうか」


 レイは外套の内ポケットから、紙片を一枚、取り出した。

 灰猫商会の紋が入った紙。

 帳簿の端から切り出した紙だった。


「これを」

「……何だこれは」

「会場外から攻撃魔法が放たれました。間違いなく外部の人間です」

「やはりあれは……」

 

 蘇るは、陣地後方で突然発生した光の記憶。


「うちの商会の記録です。あなたのこれまでの勝利は、そして無敗記録は、あなた自身の力で作ったものです。ですが……それを汚す人間がいる」


 風が吹いた。

 紙片が揺れた。


 レイの手は、震えていなかった。

 ディートハルトは剣を構えたまま、レイの目を、見ていた。


「君は、なぜ、それを俺に渡す」

「黙っていれば、あなたの名誉が、傷つきます」


 レイの声は穏やかだった。


「黙っているのが、合理的ではありました。でも合理だけで動くと、後で帳簿が合わなくなることがあります」


 ディートハルトの目が、揺れた。


「帳簿の数字は、嘘をつかない。いつだって嘘をつくのは、数字を書く人間です。そしてあなたの周りにいる方々は、あなたの勝利を値札に変えて、ご自身の利益のために使っている。あなたはそれを知らないまま、正しく真っ直ぐに、誰よりも速く戦ってこられた」


 ディートハルトの剣が、揺れた。


「あなたの周りは汚れている。そして汚れていることを、あなたはご存じない。だが僕は知った上で、ここに立っている。貴方が汚されるように、オッズが汚されることをオッズメーカーは認めたくはありませんので」


 言い終えて、息を吐いた。

 長い息だった。


 敬語は、崩れなかった。

 崩れない敬語の中に、鋼が、通っていた。


 ディートハルトは、渡された紙片を見た。

 そしてレイを見て、もう一度紙片を見た。


 そして静かに剣を収めた。

 鞘に刃が戻る音が乾いて響いた。


 収めてから、紙片を、左手で、受け取った。

 受け取って、外套の内ポケットにしまった。


 ディートハルトは、何も言わなかった。

 言うべき言葉が、まだ整わなかった。


 その時、彼方から声が響いた。


「Aチーム旗、Fチーム自陣に到達した!」


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