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第30話「帳簿は閉じない」

 レイは立ち上がった。

 大地に手をついて、体を起こした。


 左手の指が痛い。

 爪が二枚欠けている。


 体の左側が痺れている。

 衝撃波で打たれた側。


 肋骨は折れてはいない。

 折れてはいないが、深く吸うと痛む。


 右目の中央に白い斑点がある。

 視界の右半分が溶けている。


 咄嗟に構造式を読んだ消耗と、火球の閃光が重なった結果だ。


 指を顔の前に出した。

 右目では指が二本に見えた。


 残っているもの。

 左目。

 両足。

 反射板が一枚。

 滑り止め用具が一つ。


 失ったもの。

 防魔布。

 右目の視界の半分。

 岩棚の縁。

 左手の爪。

 煙幕筒が二本。


 そして何より……時間。


 帳簿をつけるように、残と損を数えた。

 数えた結果は明確だった。


 足りない。

 計算に火球のロスは入っていなかった。


 立ち上がるまで、何秒を消耗しただろうか。

 体感では長かった。


 足りない。


 レイは崩れた岩棚の縁を見た。

 穴の向こうに、道が続いている。

 Aチーム陣地の方角に。


 帳簿の行が右目では読めない。

 もし今、帳簿を開いても、右側の数字が消えている。

 帳簿番としての目が、半分壊れている。


 距離感の補正が必要だった。

 左目だけで距離を測る。

 壁との距離は左手の甲で確認する。


 指先ではなく甲。

 接触面積が広い方が、触覚からの距離情報が正確だ。


 走る速度は落とさなかった。

 落とす必要がなかった。


 体は動く。

 体の精度を、目の精度で補正するだけだ。


 自分の体の寸法は知っている。

 知っている寸法を、左目と左手で壁に合わせる。

 帳簿の数字を書き直すのと同じ作業だった。


 帳簿の数字を書き直した。

 右目の分を左手で補填する。


 時間の不足を速度で補填する。

 足りないものを、足りるものに書き換える。


 灰猫のオッズメイカーは、帳簿が赤字になった時に帳簿を閉じない。

 赤字の中から黒字の行を探す。

 探して、次の一手を書く。


 足りない分は走って埋める。

 距離感は手で補う。


 左手を壁に押しつけた。

 右足で踏み切った。


 走り出した。

 壁に左手をつきながら。


 指先で壁の凹凸を読みながら。

 右目の霞の中を。


 恐怖がある。

 帳簿に「恐怖」と書く欄はないが、変数としては存在する。


 心拍が上がれば判断速度が落ちる。

 判断速度が落ちれば、構造式を読む精度が下がる。


 呼吸を一つ落とした。

 心拍を二拍分戻した。

 恐怖は消えなかったが、変数として管理下に入った。


 あのタイミングでの火球は計算の外だった。

 だが、来た。


 計算の外。

 だが計算の外にあるものは、敵だけではない。


 レイの足が速くなった。


***


 渓谷の中央。

 ディートハルト・フォン・リヒトフェルデンは戦場の真ん中にいた。


 前線に出たのは正しかった。

 Fチームの攻撃隊四名を、Aチームの前線が正面から押さえ込んでいる。


 ディートハルト自身が前衛の間に立ち、指揮と戦闘を同時に行っている。

 Fチームの前衛は強くはない。

 だが、折れない。


 圧力に押されても退かない。

 退かずに膠着する。

 突破しようとしていない。


 時間を使っている。


 膠着が目的。

 ディートハルトの前線を膠着させている間に、何かが別の場所で動いている。

 だが正面を空けるわけにはいかない。


 前線を引けば雪崩れ込まれる。

 相手が時間を買うなら、こちらも時間を買えばいい。


 Fチームの守備は二名。

 先にあちらの旗が落ちる。


 正しい判断を、最速で、下し続けていた。

 その時、渓谷の西から光が走った。


 ディートハルトの剣が一瞬だけ止まった。

 一瞬、しかし確実に、止まった。


 火属性の閃光。

 フィールドの外。

 試合場の外からの光。


 もしFチームが崖道経由で迂回する別働隊を用意していたとすれば、あの場所にいた可能性がある。

 通常ならば使用しないとディートハルトが判断していた迂回路に。


 一瞬、敬意を覚えた。

 そのルートを覚悟を持って敵が選んだかもしれない事実に。


 だが敬意が怒りに変わるまで、一秒もかからなかった。

 次の瞬間には剣を動かしていた。


 Fチームの前衛の斬撃を受け流し、隣に指示を出し、戦線を維持した。

 戦闘中に判断を乱すことはしない。

 それが指揮官だ。


 だが、あの光が意味するものを、ディートハルトの頭は戦いながら理解していた。


 フィールドの外から試合場の中にいる人間に向けて火属性の攻撃魔法が撃たれた。

 模擬戦の中に、実戦の魔法が。


 ディートハルトの歯が鳴った。


 事実であれば、これは試合の形をした処刑にほかならない。

 しかもそれはディートハルトのために行われたものだ。


 全てはAチームを勝たせるために。

 そう、ディートハルトの勝利を、保証するために。


 怒りが来た。

 腹の底から。

 火球よりも熱い怒りが、ディートハルトの体を走った。


 剣の握りが変わった。

 さっきまで、正確に、合理的に、最善手を最速で選ぶ握りだった。


 今は……硬い。


 硬くなった握りが、次の一太刀に乗った。

 Fチームの前衛が模擬剣ごと弾き飛ばされた。


 自分でも分かった。

 怒りが剣に乗っている。


 乗せてはいけない。

 指揮官は怒りで剣を振らない。


 ディートハルトは握りを意識して緩めた。

 緩めて、怒りを飲み込んだ。


 だがこの怒りは、屈辱は、辱めは……忘れない。

 しかしそれでも、自身は11名を預かる指揮官であり続けねばならなかった。


 そう思考した瞬間、彼の耳に届く音に不純物が混じった。


 後方。

 Aチーム陣地の方角。


 足音。

 正規の進入路ではない方角から。

 崖の方角から。


 ディートハルトの体が反応した。

 頭が言語化する前に、体が理解していた。


 旗だ。

 旗に来ている。


 崖の方角から。

 先程の魔法が放たれた道から。


 崖道を迂回してきた人間。

 光に撃たれて、まだ動いている。


 生きている。

 旗に向かっている。


「後方!」


 声が渓谷に響いた。

 ディートハルトは反転した。

 前線を副官に任せ、自分が後方に走った。


 旗を守るために、指揮官が前線を離れる。

 前線を離れれば攻撃隊が押し込む。

 だが旗が取られれば終わりだ。


 渓谷を全速力で走りながら、ディートハルトは歯を食いしばっていた。


 あの光の主は俺のために撃ったのだろう。

 俺の勝利を保証するために。


 だが迂回路を使用した人物は生きている。

 崖道を通って旗に来ている。


 火球を撃たれても、まだ諦めていない。

 つまり止められなかった。

 フィールドの外からの火球でも、その人物を止められなかった。


 ならば俺が止める。

 それが正しいことかはわからない。


 既にこの戦いは汚された。

 だから放棄することが正しいのかもしれない。


 しかしそれもまた、仲間に対して、そして何よりあの魔法を乗り越えて進む敵に対して、礼を失するようにも思えた。


 だから……正面から俺の剣で戦う。

 俺にはそれ以外のあり方を知らないのだから。


***


 渓谷の東端。

 隘路。


 トーマは立っていた。


 隘路の最も狭い箇所に。

 壁と壁の間の、体一つ分の空間に。


 模擬剣を構えたまま。

 右肩の判定徽章が黄。

 左脇腹が黄。

 右膝も黄。


 もう一人の守備は、既に脱落していた。

 崖から降りてきた側面攻撃を防ぎ、徽章が橙になって行動制限。


 隘路の奥に座り込んでいる。

 動けない。


 この場を守るのはトーマただ一人。

 一人になった瞬間、隘路の空気が変わった。


 さっきまで二人だった。

 後方に予備がいた。


 予備がいるということは、押し込まれたら退ける。

 退ける余裕があった。


 今はない。

 退いたら、直接旗だ。

 トーマの背中のすぐ後ろに、旗竿が立っている。


 退路がない。

 退路がないと、体が軽くなった。


 不思議だった。

 退路がある方が、重かった。


 退く選択肢があると、退くかどうかを考える。

 考える分だけ重い。


 退路がなくなると、考えなくていい。

 ここに立つ。


 立って、止める。

 それだけだ。


 剣を握る手の感触が変わっている。

 一人目を受けた時と今では、柄を握る指の位置が違う。

 無意識に変えていた。


 体が、立ち続けるための最適な握りを見つけていた。

 誰にも教わっていない握り。

 教科書にもない握り。


 自分の体だけが知っている、自分だけの剣の持ち方。

 Aチームの攻撃隊が隘路の入口に並び、何度目かの突撃を敢行して来る。


 受けた。

 受けた瞬間、腕に痺れが走った。


 これまで僅かな間もなく剣を振り続けた腕だ。

 一人を捌き終えた瞬間に次が来る。


 休みなく。

 隘路は一人ずつしか通れない。


 だが一人ずつが、休みなく来る。

 体力ではない。


 集中力の問題だ。

 一人一人の攻撃を読み、受け、流し、押し返す。


 繰り返す。

 繰り返す。

 繰り返す。

 繰り返す。

 繰り返す。

 繰り返す。

 ……繰り返し、続ける。


 五度目の突入を押し返した。

 隘路の向こうで声がした。


「相手は一人だぞ! なぜ通れない!」


 トーマは息を吐いた。

 吐いた息の中に、笑いがあった。


 口元だけの笑い。

 自分でも驚くような笑いだった。


 一人だから通れないのだ。

 一人でこの幅を塞いでいるから。


 前からしか来られない。

 前から一人ずつなら、一人ずつ止められる。


 一人で立っているのは弱さではない。

 一人で立てるのが、強さだ。


 だが今、壁に寄りかかっているのではない。

 壁の間に立っている。

 壁が味方で、隘路が武器で、一人であることが、戦法だ。


 額面に見合う仕事だった。

 あの文学科の男は、トーマの額面を読んだ。


 二八倍のオッズの中に、帳簿に載らない数字を見つけた。

 トーマという、一人で立つ数字を。


 六度目が来た。

 膝が軋んだ。

 黄の判定がついた右膝で踏ん張った。


 痛い。

 だが退けない。

 退いたら旗が落ちる。


 旗が落ちたら、全部が崩れる。

 レイの計算が。

 前衛の忍耐が。

 リーゼが走った距離が。

 全員の戦いの軌跡が。


 迫りくる敵の斬撃を壁に誘導した。

 壁に当たった反動で相手の体勢が崩れた。

 崩れた隙に、剣の峰で喉元を打った。


 腕が重い。

 足が重い。

 呼吸が荒い。


 だが剣は、握れている。

 握れている限りは立てる。


 あと一分。

 もう一分。


 あの男に渡されたのは七分だった。

 七分だけ時間をくれと言った。

 七分あれば旗に届くと言った。


 ただ七分しか保たないなど、俺は言ったつもりはない。


***



 レイは走り続けた。

 右目が半分霞んだ視界で。

 壁の凹凸を左手で読みながら。

 体の左側の痺れを抱えて。


 霞む視界にAチーム陣地の背面が見えた。


 西風に揺れる旗。

 守備は二名。


 精鋭。

 構えが低い。

 動きに無駄がない。


 十五秒。

 岩棚の終点からAチーム陣地まで、走って十五秒。

 昨夜、足で計った距離。

 右目が見えていた時に計った距離だ。


 今は片目。

 距離感が狂っている。


 十五秒は、十五秒ではないかもしれない。

 十八秒かもしれない。

 十二秒かもしれない。


 ……分からない。

 だが走る。


 数字が正確かどうかは、走ってみなければ分からない。

 帳簿の数字は、取引が成立して初めて確定する。

 走って、着いて、旗を掴んで、初めて数字が確定する。


 レイは腰の模擬剣に手を置いた。

 柄に触れた瞬間、指が覚えていたのは、柄の感触ではなかった。


 ミラが縫い込んだ布の感触だった。

 灰になった布の、あの手触り。


 もう外套の内側にはない。

 ないものの感触が、指に残っている。


 いい。

 それでいい。


 計算する側であって、計算の中に入る側ではない。

 かつて自分で書いた帳簿の一行が、頭の中で響いた。


 嘘だ。

 今この瞬間、自分は計算の中にいる。


 帳簿の行間に足を踏み入れている。

 だがこの一行を書き換えるのは、今の自分にしかできない。


 レイは大地を蹴った。


 勢いを増し駆け出す。

 十五秒のカウントが始まった。


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