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第8話「灰猫のオッズが書き換わる夜」

 夜の灰猫商会。

 灯りに照らされた壁が、貼り重ねた紙片の影をかすかに揺らしている。


 その前に立ち、今日一日で手に入った情報を一枚ずつ紙片にして貼っていく。

 Eチーム戦の結果、十二分。


 Aチーム戦の分析——ディートハルトの位置、判断速度、旗守備の配分、そして前に出る癖。

 フェリクスの情報——来賓席後方の探査魔法と射線の確保。

 ミラの報告——倉庫の壁の印と「立ち位置」。


 一枚貼るたびに、鋲を打つ。

 エルマが帳簿を開きながら言った。


「旦那。オッズを更新しますよ」

「お願いします」

「Fチームの28倍はもう使えません。あの勝ち方で掛けが集まっていて、あの倍率で出したらあたしの帳簿の信用に関わります」


 エルマがペンを持ち上げた。

 オッズ表の「28」の上に線を引き、その横に、新しい数字を書かなかった。


「……新しい倍率、少し待ってもらえますか」

「何が引っかかっていますか」

「金の流れです。Aに入ってる金の動きが変わった。一回戦の前はAが勝つに張る金だった。今は——」


 エルマがペンを帳簿に戻した。


「Fを潰せに張る金に変わってます。Aに勝たせたい人間が、Fを警戒し始めた」


 レイは壁を見た。

 紙片が並び、オッズ表の「28」に線が引かれ、その横が空白のまま残っている。


「倍率は明日の朝決めましょう……今はレートを空白のままにした方がいい」


 エルマは何か言いかけて、やめた。

 帳簿を閉じて棚にしまった。


 窓際にミラが立っていた。

 短刀を拭く手が、今夜はいつもより少しだけ速い。


「ミラ。明日の準決勝で、あの三人はまだ動きません。彼らが排除したいのはAチームの決勝の相手です。準決勝でFチームが勝てば、決勝までの間に動く」

「……分かった」

「それまでは、見るだけでいいですので」


 ミラは答えなかった。

 短刀を鞘に戻した。


 エルマが立ち上がった。


「旦那。明日の準決勝、相手はBチームのジュリアスですよ。あの人、旦那のこと知ってる可能性あるでしょう」

「あります」

「煙幕は通じないんでしょう」

「通じません」

「じゃあどうするんです」

「もちろん正直に戦います」


 エルマが眉を上げた。


「旦那が正直に……それは嘘の一種では」

 レイは笑わなかった。


「エルマさん。嘘の一種ではありません。ジュリアスは僕の手口を知っている相手です。嘘は通じない。だから本当のことで戦う」


 エルマはレイの顔を数秒見ていた

 帳簿番の目が、数字ではないものを読んでいた。


「……旦那はあの人のこと、ちゃんと友達だと思ってるんですね」

 レイは答えなかった。


「おやすみなさい、エルマさん。明日もよろしくお願いします」

「……旦那は」

「変わらないことに」

「はいはい。おやすみなさい旦那」


 エルマが出ていった。

 ミラも音もなく消えた。


 一人になった。


 紅茶を淹れた。

 湯気が灯りの中を細くのぼり、壁の紙片をかすかに揺らした。

 温度はちょうどよかった。


 カップは一つだけだ。

 変わらない。


 壁を見た。

 紙片が並んでいる。


 数字と図面と承認印。

 その中に、一枚だけ空白がある。


 新しいオッズ。

 まだ数字が入っていない。


 明日の相手はジュリアスだ。

 手口を知っていても崩れない男。


 予想外を歓迎する。

 しかも手口じゃなくてお前自身と戦いたい、と言った。


 お前自身。

 ジュリアスが求めているのは、煙幕の向こうにいる副官ではなく、敬語の奥にいるレイ・ラマリンなのだろう。


 それに応えることは、灰猫のオッズメイカーとしては最も危険な選択だった。

 中身が透ける。


 だが応えない選択肢は、もうなかった。


 壁の紙片の中にジュリアスの名前はない。

 帳簿に載せない場所にいる。


 ジュリアスのオッズを計算したことがある。

 一度だけ。


 だが計算し始めて、途中でやめた。

 データは揃っていた。


 指揮傾向、判断速度、体力指数、チーム掌握力。

 全てを式に入れれば数字は出る。


 だが数字に表れないものがあった。

 あの男は不利を見た時に笑う。


 笑ってから動く。

 笑うまでの時間がゼロに近い。


 不利を歓迎する人間の戦闘力は、数式では出ない。

 だから帳簿に載せなかった。


 載せられないのではない。

 載せたくなかった。


 友人を数字にすると、友人ではなくなる気がした。

 友人は、帳簿の外にある。


 紅茶を啜った。

 明日はその空白が埋まる。

 盤の上でも、盤の外でも。


 灯りを落とした。


 合同実習、二日目。


***


 ナディア・クラインは、Cチームの宿舎に戻る途中で足を止めた。


 一回戦の結果が掲示板に貼り出されている。

 Fチーム、対Eチーム勝利。

 試合時間十二分。


 28倍のチームが勝った。

 ナディアはその数字を見つめた。


 28倍、灰猫商会がつけたオッズ。


 オッズが間違っていた可能性がある。

 もしくは意図的なオッズを設定していた可能性もある。


 だがもう一つの読みがあった。

 通常なら28倍のチームが、実力以上の結果を出した。

 つまり戦術の質が、本来の数字の差を覆した。


 どれが真実だろうか。


 ナディアは掲示板から目を離した。

 Cチーム指揮官として、次の対戦相手を確認する方が先だ。

 だが足がもう一度、Fチームの欄に戻った。


 灰猫商会のオッズメイカーが、自分のチームにつけたオッズを、自分で覆した。

 もしそうならあの賭け屋は数字を操る側ではなく、数字の中で戦う側に来たことになる。


 ナディアは歩き出した。

 足取りはいつもと変わらなかった。

 だが頭の中で、一つだけ帳簿の項目が増えていた。


 裁定のための証拠とは違う種類の、まだ名前のつかない項目が。


***


 同じ夜の灰猫商会。

 ガルドが扉の前に立っていた。


 いつもの場所、いつもの姿勢。

 灰猫商会の営業は続いている。


 合同実習期間も客は来る。

 試合時間でない時は、オッズ表はエルマが更新し、ガルドが店を守り、ミラが盤の外を見ている。


 今夜の客は静かだった。

 常連が三人、新規はいない。


 賭ける手つきが迷わない人間ばかりだった。

 迷わない客は長居しない。

 カウンターに金を置き、壁のオッズ表を一瞥し、番号を告げて帰る。


 常連の一人が帰り際に足を止めた。


「Fチーム、十二分で勝ったそうだな。大穴が来るかもな」


 ガルドは何も答えず、笑いもしなかった。

 客に求められているのは相槌ではなく安全だ。

 用心棒の仕事は口ではない。


 客が出ていった。

 三人目。

 今夜はこれで終わりだ。


 ガルドは扉の鍵をかけ、それから拳を見た。

 自分の拳を。


 大きい手だった。

 拳そのものが武器になるように出来上がった手。

 あの日、上官の顎を砕いた感触が、骨から消えていない。


 この店では、拳で人を壊さなくてよかった。

 ブルーノの夜でさえ、加減して打てた。

 加減していいと思えた。


 壊さなくていい場所を作った男が、今、別の場所で戦っている。

 十二分で勝ったらしい。

 煙幕を使って。


 ガルドには煙幕の設計は分からない。

 分からなくていい。

 あの少年が設計する盤面は、ガルドの拳が届く範囲の外にある。


 だが拳が届く範囲……この扉の内側だけは、ガルドの仕事だ。


 扉の修繕費は前の連中に請求済みだ。

 エルマが帳簿に載せた。


 修繕費は払われていない。

 だが帳簿に載っている。


 載っていることが、灰猫商会が正当な場所であることの証拠だとレイは言った。

 今度の修繕費は、誰に請求すればいい。


 ガルドは拳を開き、鍵を棚に戻した。


 二階でエルマの部屋の灯りが消えた。

 帳簿番は今日も数字を書き終えて寝る。


 明日もまた書く。

 あの手は止まらない。

 止まらないことが、灰猫商会の心臓だ。


 ガルドは扉の前に戻った。

 鍵はかけた。

 だがまだ立っている。


 用心棒は、鍵をかけた後も立つ。

 それが仕事だった。


***


 翌日の午前、店は静かだった。

 常連が二人、新規はなし。

 朝の陽が窓から斜めに差し、カウンターの木目をかすかに光らせている。


 試合が近づく時間となり、店を閉じる前に一人の男が入ってきた。

 壁のオッズ表の前で足を止め、目が紙片を追っている。


 読んでいる。

 ガルドはカウンターの奥から見ていた。


 読む人間は多い。

 だがこの男は読み方が違った。


 左から右へ、紙片を順に追いながら、右手が外套の内側に入った。

 小さな筆記具を取り出しかけている。


 写そうとしている。

 ガルドはカウンターから立ち上がった。


 言葉は使わなかった。

 男の前に移動して、ただ立った。

 大きな体が、壁と男の間に入った。


 男の手が止まった。

 筆記具が外套の内側に戻った。


 男はオッズ表から目を外し、何も買わずに出ていった。

 ガルドはエルマに一言だけ報告した。


「壁を写そうとした客が一人」


 エルマの鉛筆が帳簿の上を走った。

 「壁面オッズ表:外部複写の試み。初。日時記録。継続監視」。


 灰猫のオッズ表が、外から読まれ始めている。


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