無害なあやかし
「巫女様、巫女様!」
「はいはい、今行くわよ」
ある日のこと、厨で着物の袂を縛り、昼食の用意をしていた真白は境内から聞こえてくる声に返事をしながら滑るように廊下を進んでいく。
物理的に空を少しばかり飛んで急ぐ彼女の足元は、パチリ、パチリと雷に似た光がそのたびに瞬いていた。
それから、人の気配がある場所に近づくと彼女は地に足をつけ、急ぎ足で客の前に姿を現した。僅かと言えど、空を飛んでいるとなれば不気味がられてしまうからである。
「巫女様、お願いがあります」
「ゆっくり言ってちょうだい。ちゃんと聴くから」
山の麓から代表してやってきたのだろう。痩せ細った男は息を整えるように数度深く呼吸をすると、ようやっと話を始めた。
「うちの中にはなにもいないはずなのですが、夜中にギイギイと音がしたり、なにかが軋むような、まるで誰かが天井裏を歩いているような、そんな音がするのでございます。どうか、どうか正体を見極め、わたくしめをお助けください」
真白は思案するように顎に手を置く。
それから訝しげに、男へと尋ねた。
「鼠や虫ではないのよね?」
「わたくしめの言うことを信じられないのは無理もありません。しかし、きっちりと天井裏は見渡しました。なにもいないはずなのです」
「ふうん」
村人の嫌味をなんでもないように受け流し、真白は目を細める。
それから「分かったわ」と言って頷いた。
男はこれを受け、非常に嬉しそうにしていたので彼女は満足気に笑う。
「報酬は……そうね、こないだの雨で食べ物がダメになっちゃったから、もう少し用意してほしいわね。なるべく境内の中に入れてちょうだい。頼むわよ、本当に」
「す、すみません。その中はなんだか畏れ多くて……」
「荷物を屋根の下に置くだけでいいのよ。もしまた食材がダメになったら、私は野山の草を食んで生きることになるでしょうね。巫女の私がそれでは神様はどう思うかしら……?」
「ひっ、わ、分かりました。分かりましたから、早く、お願いします!」
怯え竦む男に、真白は面白くなさそうに溜め息を吐いた。
それを見てますます男は怯え、彼女はうんざりとしたようにしてからすぐに背を向ける。男の顔は知っていた。なにせ小さな村である。山を越えた隣の村までは分からないだろうが、彼女は己の所属する村の人間のことなら見分けられる自信があった。
故に男を放って山を降りても、勝手に妖怪退治の依頼をこなせる自信があったのだ。当然、顔を知っているのならば家も知っているのである。
ガサガサと、草木に当たらぬようにと空を飛びながら巫女は駆ける。
ひらひらと鶴の羽織をはためかせながら、そうして山を降りていった。
「きゃっ」
彼女の通ったあと、流れる風に煽られ尻餅をつく小さな影がひとつ。
呆然として巫女の通った場所を見上げているのだった。
「ここね」
真白は山道から出る前に地面に降り立ち、歩いて依頼人の家へと向かう。周囲の人間は彼女の姿を見るや、店まで畳んで姿を隠していく。それだけ、この少女の力は異様に思われていたのである。
そう、むしろ彼女こそが怪異を遣わしているのではないかと、そう嘯く人間もいるくらいであった。
当然のことながら、そんな噂も大きくなれば彼女の耳に入ってくる。
そうして思うのは、刈安色の羽織を纏った彼女にとって「気に入らない」美丈夫の男の言葉だった。
――恩なあ……お前はもう十分返しているのだと思うが……。
少女、真白は首を振る。
これは自分がやりたくてやっていることであると。恩返しなど関係なく、見返りを求めて行なっているわけではないと。
「ああ、もう……腹がたつわね」
真白は御歳12の娘である。大人っぽくはあるが、感受性が豊かでときには受け流せない怒りにかられることもあるのだ。
未だ知らぬ感情の起伏に少女は戸惑いつつも、それら全てを破月のせいにして目を逸らした。とにかく腹がたつ。それだけだと断じて。
「確か、天井裏だったかしら……」
閂のひとつもかかっていない扉を開けて真白は家の中に入る。
それからキイキイと鳴る音に耳を傾けて、目を瞑る。
――キイ。
「そこっ!」
素早く彼女は己の簪を引き抜き、鋭い視線でそれを投げつけた。
遅れて、解かれた黒髪がはらりと重力に任せて肩にかかる。
不思議なことに、床に簪が刺さったその真横から、空気が揺らぐようにして小さな小さな毛玉のようなものが現われ出でた。
毛玉は突然近くに簪が刺さったために驚いて固まっている。
「家鳴りね。あんた一匹だけかしら?」
もぞもぞと動こうとする毛玉に、真白は簪を投げつけたままの姿で困惑した。
「そっか、小さい家鳴りだから喋れないのね」
誰も見ていないのにもかかわらず、彼女は恥ずかしそうに頬をかき、佇まいを直す。それから毛玉の近くに歩み寄り、警戒させないようにとしゃがみこんだ。
「あんたのことは、普通の人には見えないのよね……」
ちょん、と指先で毛玉をつついて真白が言う。
毛玉はきゃらきゃらと無邪気に笑いながら、なんともくすぐったそうにその場で転がった。その様子を優しい瞳で眺めてから、真白は「仲間はいるかしら?」と尋ねた。
手で触れながら霊力をゆっくりと循環させ、怪異である「家鳴り」を害してしまわない程度に流し込んでいく。喋ることができない怪異に対してはこうして触れることで霊力を流し、意思をも流し込む。そうすることで意思疎通を図っているのだ。
「……! ……!」
毛玉が転がっていく。
それを見て真白は疑問を浮かべるが、すぐさまその理由を知ることとなった。
「きゃあっ!?」
頭上から大量の毛玉が降ってきたのである。
ぼふんぼふんと、埃と共に落ちてくるそれらに潰されながら真白は笑っていた。
「あははは、そう来るのね。いるとは思っていたけれど、あなた達実は遊びたいだけでしょう」
優しい笑い声。
「もう……ただでさえ着物が白いんだから、汚れちゃうじゃない。どうしてくれんのよ」
咎める言葉。
しかしその表情に怒りはなく、ただただ幼い子を叱るような調子で。
彼女は己の上にこんもりと積もった毛玉達に声をかけていた。この毛玉達は言葉の意味を解さぬと分かっていながら、それでも優しげに声をかけていた。
「この着物、とても大切な物なのよ……多分だけれど。仕方ないわね、これはあんた達に償ってもらわないといけないわ」
毛玉をひとつひとつ潰さぬように起き上がった真白は、手で羽織の裾を叩きながら遊びまわる毛玉達を見つめる。
「うちに来て、着物を洗ってちょうだいな。やり方は教えてあげるから」
毛玉の視線が真白にむく。
きょとりきょとりと一斉に向けられた視線を気にせず、真白は簪を拾う。
そしてその場で簡単にくるくると己の髪を纏め上げ、簪を元通りに差すと毛玉達は喜ぶように跳ね回った。射干玉のような長い黒髪が簡単に一纏めにされる様子を見て、珍しがったのだろう。
子供のように喜色を表すひと抱え分もありそうな毛玉達を見渡し、少女は再びしゃがみこんだ。
「これで全員みたいね。私の羽織と着物の袂に入りなさい。もっと広いところに連れて行ってあげるわ」
一匹の毛玉に触れ、意思疎通を測ればすぐさま毛玉が彼女の元へと集まってくる。
ピシリ、パシリとそのたびに家から音が鳴ったが、全ての毛玉が彼女の着物の中に収まると同時に音もシンとして聞こえなくなった。
「家鳴り」という怪異は、文字通り家屋でときおり鳴る軋むような音の正体である。本来は、家屋の木々が古くなることで生じる自然現象ではあるが、人々がそういった不思議な現象に名前をつけることでこれらの怪異も同時に生まれるのだ。
真白はそれを知りつつ、家鳴り達を袂に入れたまま家屋の外へ出る。
「み、巫女様。どうでしょうか?」
「解決したわ。また家が鳴き声をあげるようなら私に言いなさい」
「はい、ありがとうございました」
着物を見事に汚している真白に村人は目を白黒とさせていたが、気にせず彼女は背を向ける。そして山の中へ入ると同時にふわりとその場から浮かんだ。
パチリと、小さく雷のような光が足元を走っていく。その電光が、彼女の力が雷にまつわるものであると示しているかのようだ。
そうして神社を目指してふわふわと遊覧飛行をしていた彼女に、近く影があった。
「ふむ、なかなか優しいなあ。そんな小さなアヤカシをも救ってやるとは。我のときとは対応が違いすぎないか? 真白よ」
破月である。
こちらも同じく空に浮かびながら真白を追いかけている。
真白は視線を一切動かさず、無言で速度を上げた。
「無視なんてしないでおくれ。我、とっても悲しい」
「……可愛げのないトカゲと、可愛らしい毛玉。どちらを優先するかなんて分かりきったことじゃない。それとあんまり近づかないで。この子達が怯えるでしょう」
「おう、それはすまなんだ。小さき物に我の気はちと厳しいか」
大人しく距離を開ける彼に、初めて真白は目を丸くして振り返る。
「あんたに配慮なんて望んでなかったけれど、なんだちゃんとできるんじゃないの」
「上に立つ者だからなあ。しかし、それでもお前の懐に入っている其奴らに嫉妬の念を抱かざるを得ないぞ? 我もお前の柔肌に触れてみたいものだ。さぞ心地好いだろうなあ」
「褒めるんじゃなかった」
すっとその瞳を鋭くさせ、吐き捨てる真白。
竜はその日も余計なことばかり言って、ますます彼女の心象を下げていくのであった。
……後日談ではあるが、毛玉達は集団でせっせこと彼女の着物を洗うことに成功していたそうな。
神社で家鳴りがするようになったが、真白はふわふわもこもこと動くその毛玉達に日々癒されているのでなにも問題ないのだろう。
残念ながらこのことで村人達がますます近寄らなくなったが、ただ一人の訪問者の対応で追われる彼女はそのことを次第に気にしなくなっていた。
――そう、心の隙間を無理矢理にでも埋めようとする一頭の竜によって。
「うるさくなっただけよ」
彼女は決して、そのことを認めようとしないが。




