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日ノ音カキケス門ノ音



 頬の腫れも引き、陽平は二日ぶりに登校した。

 昨日の気怠さが抜けきっていない体で、だらだらと伸び上る坂道を上がるのには骨が折れたのか、彼は足を引きずるようにして校門へと続く長い階段を上がる。最後の一段を踏み、彼は少しだけ背後へと目を流す。

 目端に映った街並みは、爽やかすぎるほどに初夏の青が落ちていた。

 陽平は景色に背を向け、校門をくぐる。横長の校庭を過ぎ、昇降口で靴を履き替える。廊下を渡り、階段を上がる。上階から下りてきたボールを持った生徒たちと擦れ違い、教室へと向かう。


 教室に入り、陽平はどっかりと自分の席に腰を据えた。

 実、涼弥、玲、浩次。陽平は空席となった前の四つの席をぼんやりと眺めて、冷たい北風が吹いているような虚しさを胸の内に感じていた。

 ホームルームが始まるいつもの時間より少し早めに、大仏を思わせる老教師先生が教室にやってきた。教壇に立った彼の顔には、まったくといっていいほど血の気のなかった。


「今朝は、私が渡辺先生の代わりにホームルームをやります」


 そう告げて、ホームルームを始めた。

 簡単な連絡の後に、浩次と実が怪我で入院してしばらく欠席することと、今日の授業は毎時間違う先生が担当することを矢継ぎ早に述べ、教師は教室を出て行った。

 生徒たちはどこか落ち着きがなく、教室の所々から陽平以外の四人が休んでいることや、渡辺がいないことを好き勝手に噂をしていた。

 何人かの好奇心旺盛なクラスメイトが様々な憶測を持って陽平へと直々に尋ねてきたが、彼は曖昧な返事でそれらすべてをかわした。


 靄がかかったかのようなはっきりとしない頭で授業を聞いていると、いつの間にかその日の授業はすべて終わっていた。一人残った教室には焼けるような夕日が射し込んでいて、黒板の上にある時計は下校時刻をとうにすぎていた。陽平は血のように赤い夕焼けに誘われ、机と椅子を避けながら窓辺へと歩んだ。


 真赤な空を見上げ、膨れ上がった水風船を針で突いたかのように溢れ出してきた鮮血を思い出し、陽平の体中が打ち震えた。



 とくん――。



 胸の心臓が小さく唸った。

 その唸りは次第に叫びに変わる。叫びは悲鳴に変わり、最後には獣の咆哮になる。

 校庭にサッカーボールを追いかけまわしている幾人かの生徒が見えた。

 どの子も嬉しそうに、何の悩みもなさそうに、無辜に、無邪気に丸い球を追っていた。

 未来の希望をビー玉に託したあの日の自分のように、彼らは校庭を走り回っていた。



「――陽平」


 急な呼び掛けに仰天して、陽平は背後へと振り返えった。

 ドアの向こうに玲を見付け、小さく吐息をもらす。


「何だ、来てたのかよ」

「うん、職員室でずっと尋問を受けてた。やっと終わったと思ったら、その後は保健室に監禁されて困った」


 その対応をみる限り、学校側も渡辺の行方が分からなくなっていることは存知のようであった。最後の目撃者である浩次と実が入院していることから鑑みるに、玲たちが関係していると嫌疑をかけられても仕方ないのだろう。


 ――明日くらいには自分の番がくるかもしれないな。


 言い訳を考えおかないといけないのか、と苦手な分野に陽平は頭を悩ませる。

 玲は扉の向こうから上半身だけをのぞかせて、なかなか教室の中に入ってこようとしなかった。それに気付いた陽平が呼びかける。


「どうしたんだよ、玲? 入って来ればいいじゃねぇか」


 「う、うん――」と、玲は歩きなれていない新品のスニーカーを履いたかのように、ぎこちない動きで教室に入って来た。

 陽平は玲の顔から視線を徐々に落としていき――

 ひらひらと揺れるスカートを見て、目を見開いた。

 玲はその視線に気付いているようで、恥ずかしそうにしながら窓辺の陽平の隣に並んだ。陽平がスカートからのぞく小さな膝小僧をぼんやりと眺めていると、玲は膝を隠そうとスカートの裾を引っ張った。


「もう、いいのか?」


 陽平が尋ね、玲は答える。


「陽平との約束を破っちゃったから……」


 その言葉遣いは前の気取ったものから、大人しい女の子のものに戻っていた。


 ――そう言えば、あの日も今みたいな夕暮れの教室だったな。


 陽平は大切な記憶を宝物のように取り出して、再生させる。



 今とは逆に、玲が独りで夕方の教室にいた。

 陽平は母との記憶を余すことなく、写真のようにいつでも思い起こすことができた。だから、独りで読書に耽っていたその子が、ビー玉を坂から転がしたあの日にもいた女の子であったことにすぐに気が付いたのと同時に、その子に対するある噂話を思い出した。


『あの子の両親って、悪いことをして捕まっちゃたんだって。だから、お父さんもお母さんもいないんだって』


 そのとき、陽平の胸には何だかよく分からない感情が奔った。今彼女に話しかけなければいけない、とその何かが堰き立てた。

 陽平自身は気付いていなかったが、彼は玲の所作から母の面影を投影していたのだった。その根幹には、ビー玉を転がしたあの想い出の中に玲がいたことが関連し合い印象付けされ、深層下で玲と母を混同したことによるものであるのだが、いずれにせよ、そのときの陽平は玲にただならぬ好意を抱いたのであった。


 高鳴る鼓動を鎮めながら、その子に声をかけたとこまでは良かったけれど、次に何を話せばいいのか分からず、陽平はとっさに自分の境遇をべらべらと話してしまった。

 父の暴力。母子に対する虐待。母の失踪。父と残された自分。いつの日か母が帰ってくると信じて、父の暴力に独りで耐えている現状まで話し終え、陽平はどうして自分が彼女に自身の境遇を打ち明けたのか、その理由を知ることができた。

 クラス中で噂になっている自分と似た境遇の彼女のことを、好きになっていたのだ。

 自分と同じように一人で耐えている彼女のことを、支えて上げたくなってしまったのだ。


『一緒に強く生きると約束しよう』


 信頼していた人に見捨てられた自分だからこそ、そのように言えば、彼女を繋ぎ止めることができる。浅ましくもそう確信していた。その狙い通りに、陽平の言葉に彼女は感銘を受けたようだった。

 そして、約束を交わした後、玲が陽平にこう言った。


「どうしたら、キミみたいに強くなれるの?」


 陽平は玲の言葉に小さく笑い声をもらしてこう答えた。


「でも君、女だよ」


 女と言われてむっとした顔をした玲は、けらけらと笑う陽平にこう返した。


「だったら、今からわたしは男になる」

「男になるって、どうやって?」


 陽平がそう尋ねると、玲はうつむいて黙り込む。嫌われてしまうのではないかと陽平は焦り、偶々思いついたことを口にした。


「それなら、僕の『僕』を君に上げるよ」


 その意味が分からず小首を傾げる玲に、陽平は噛んで含めるように言った。


「今日から君は自分のことを『僕』って呼びなよ。そうしたら、自分のことを男と思えるようになって、強くなるかもしれないよ」


 玲の表情は明るくなったが、すぐに影が差した。


「でも、そうしたらキミはこれから自分のことを何て呼ぶの?」

「んー、僕はこれから自分のことを『俺』って呼ぶことにするよ。その方がカッコいいし」


 椅子に腰かけていた玲は、自然と上目づかいで陽平を見上げることになった。


「いいの?」


 その仕草に陽平はどきっとし、ぎくしゃくと答える。


「う、うん。今日のことを忘れない良い思い出にもなると思うし」


 陽平は頭を掻いて恥ずかしさを紛らわした。



 約束を交わしたあの日と重なっていた景色は、太陽が山の奥に沈み始めたことで静かに現実から分裂した。地平線に隠れてしまう一段と煌めくその瞬間を、陽平は目を細めて見送る。


「陽平に『ボク』を返すよ」


 そう、玲が言った。

 その提案は、あの約束をないものにしようというものだと陽平は受け取った。

 二人が交わした約束によって玲が男性のようにふるまい、男子とばかり遊ぶようになったことが原因で、陰で虐めを受けることになったのを陽平はもちろん知っていた。けれど、この約束をないものとしてしまったら、玲は自分から興味を失ってしまうのではないか、母と同じように自分のもとから去ってしまうのではないか、と陽平はそれが恐ろしくて、今まで玲の虐めを見て見ぬ振りをして過ごした。


 今、玲は中途半端な状態でぶら下がっていた約束を、陽平に『僕』を返すことで完全になくしてしまおうとしている。前までの自分なら、玲との繋がりがなくなってしまうことを恐れて、その誓いを失くすことを拒んだのだろう。しかし、陽平にはもう約束に対する未練は、まったくといっていいほど残っていなかった。

 昨日のことで、そのような約束よりももっと強固な鎖で二人は繋がることができたのだから。

 それに、彼は既に賭けに勝利していた。


 ――この崖から飛び降りて生き残れば、玲は俺から離れない。


 あのとき、陽平はそのような想いを抱いて緑地へと飛んだのだった。


「分かったよ」


 だから、彼はそう答えた。

 二人を縛っていた糸が途絶えたことを伝えるように、黒い峰々へと太陽は沈んだ。

 空一面に広がっていた赤色は、西へと退潮する。

 黒い山の上に浮く赤い残光。太陽の名残。

 それが、自分の姿と重なる。

 とく――り。

 もうじきやって来る夜を嗅ぎつけたかのように、陽平の腹の底で何かが蠢いた。その何ものかの駆動は、陽平にあのときの、渡辺を押したときの感触を思い起こさせる。


 ――突き飛ばす直前までは、誰か分からなかった。


 玲の身に危険が迫っているように見えたから、軽くぶつかってそいつを威嚇しようと思った。でも、薄ぼんやりと渡辺の顔が見えた瞬間、体中に細かな痺れが廻った。

 突風に背を押されたかのように突発的で衝動的、気付いたら渾身の力で渡辺を本棚の角をめがけて突き飛ばしていた。

 あれは事故ではなかった。


 ――僕はたしかにあの瞬間、渡辺を殺そうと思って突き飛ばした。


 ぞ――わり。

 渡辺の頭から堰を切ったようにあふれ出た赤い液体。

 殴る度に小さくなった動き。蹴る度に闇に溶けていった呼吸。

 陽平は手の平を前に出して眺める。

 太陽は沈んでしまったはずなのに、二つの手の平は赤く染まっていた。


「陽平。今日の帰りも、あそこへ寄るんだよね?」


 玲が蝋人形のように微笑んで投げかける。その笑みは、初めて会ったときに見せた綺麗な笑顔とよく似ていた。


「ああ、涼弥も一人で寂しがってるかもしれねぇしな」


 深く伸びた二つの影が寄り添うように混じりあって暗い教室を侵食する。溶け合い、絡み合って濃厚な影を作り出す。

 ふいと陽平は窓に背を向けてまぶたを落とした。


 ――大人が、あの夕焼けのように裏表なく綺麗にいてくれたのなら、僕たちも道を逸れずに歩めたのだろうか?




 そして、暗い夜がやってくる。

 闇の中で獅子が細く伸びた口端を舐め、隣にいる雌獅子へと向く。

 彼女は彼と同じ顔をして、笑う。

 二匹は笑い合う。

 暗い闇の中で、笑い合う。



 二匹の獅子は街を走り抜け、深緑の森へと駆ける。

 決して離れぬようにと身を寄せ合い、

 日の音も聞こえぬ森の奥、

 暗く閉ざされた穴底で、

 二匹は静かに爪を研ぐ。





 しっかりと完結させた長編ってこれがはじめてだなー、と。

 まだまだ文章も拙いし物語も穴だらけだと思いますが、自分が文章として表現したいものに着実に近付いている気がします。


 感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。

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