さよならの暗闇(1)
残照が映え紫色に染め上げられた雲は、上空を流れて給水塔の先へと解けていく。黄昏に塗れた夕景には昼の名残が幽かに観られているが、それもやがては夜に変わっていく。おんぼろアパートを後にした玲たちの足取りは、その昼夜の移ろいのように緩やかであり、どこか切迫した重さもあった。陽平の話から涼弥の失踪に関与しているらしき謎の人物の存在は明らかになったが、依然として暗礁に乗り上げていることには変わりなく、むしろ、真相はより深潭に近付いてしまったことが、足に重くまとわりついでいるのだろう。
生温い横殴りの風が吹き乱れ、玲の髪をかき乱す。
涼弥と陽平の家にプリントを届けに行った日にもこのような風が吹いていた。思えば、あれが涼弥と会った最後のときだった。遠くの空に漂っていた黒い雲は、まさしく暗雲だったのだと玲は髪を直しながら感傷に浸る。
あの雲さえ来なければ涼弥がいなくなることはなかったのではないか、と雲に責任を転嫁してみるも、それは気休めにもならかった。渡辺もあの日を思い出しているのか、ばたばたと揺れるシャツを鬱陶しそうにしながら、遠くの夕空を遠視していた。
誰も口を開くことなく自然公園の付近まで漫ろに歩いた。公園の入り口を通過するかしないというときに、前を歩いていた渡辺がふと足を止めた。
「確か、この近くにあるんだよね?」
渡辺は地下壕のことを言っているらしく、玲は首を縦に落とす。渡辺は何か考えるように細長い顎に手を当てて言った。
「これから行ってみたいんだけど、案内してもらえるかな」
玲たちは顔を見合わせて戸惑う。
「もう、暗いですよ」
「私が一緒に行くから大丈夫だよ。帰りが遅くなるようだったら、私から親御さんに遅くなった理由を説明するよ」
もう一度顔を寄せ、三人は相談を交わす。
「どうする?」
「僕、もう暗いから帰りたいな」
「でも、あいつ行く気まんまんだぞ」
渡辺をうかがい見ると飄然とした顔で玲たちを見つめ返してきた。
「まぁ、ああ言ってることだし」と玲たちは渋々と渡辺を案内することにした。
近いといっても、ここから緑地へと飛び降りる訳にもいかず、比較的緑地へと入りやすいところまで行かなければならなかった。五分ほど歩いて金網を越え、急ぎ足で壕まで向かったため、たどり着くのにそれほどの時間は必要なかった。
暗く湿っぽい洞窟を渡辺がのぞき込む。普段の気弱さから入るのに気後れすると思ったけれど、陽平から預かったライトを点け、意外にも揚々として中に進んで行った。もしかして、初めから帰りにここを訪れることを予定していたのかもしれない、と玲は勘繰りながら彼の後に続いた。
渡辺の明かりを先頭にして、浩次が口頭で道順を伝えながら水場までたどり着く。ライトを玲に預けた渡辺は、「すごいねぇ、ここ」と内部を見回した。
「あ、これが君たちの言ってた足跡?」
渡辺は件の泥の跡を屈み込んでのぞき見る。我が物顔で中を歩き回る渡辺に、玲は自分の部屋を勝手に荒らされているような不快感を覚え、居心地悪くしながら無遠慮に動き回る担任を目で追った。
ひとしきり内観を見終えた渡辺は、壁に掲げられた絵を見て「おお! これ誰の?」とこちらを振り向いた。童心に戻ったかのような渡辺の姿に実は失笑して、「僕のです」と返す。
「へー、すごいな」
興味を示した渡辺が絵に触れようとするのを見て、実は慌てて止めに走った。
玲は浩次とシートに上がり、ライトを定位置に置いて座った。ややあって、浩次が声を潜めて「市川、見つかるかな」と玲に耳打ちをする。
「分からない――けど、見つけければならないだろう」
「そうだな」と浩次の返答は弱弱しく、どうやら陽平が言っていた謎の人物の登場により、涼弥の捜索を半ば諦め始めてしまっているのかもしれない。本人は無自覚なのだろうが、動作や言動の端々からそう感じられた。
「まだこの洞窟のどこかに、涼弥の手掛かりがあるかもしれない」
浩次の意気を吹き返させるため、玲はさらに手掛かりを捜索することを提案した。浩次はやはり力の抜けた語気で応答しただけで、それほど士気が向上したようには思えなかった。
絵を前に何やら話している実と渡辺を一度見て、玲は頭の中で状況の整理をすることにした。
――涼弥が行方不明になった。
彼は、一昨日の夜六時から八時の間に家を出、この秘密基地に向かった。そこから彼は行方不明になった。
この推理の根拠は、涼弥の両親の証言と玲自身が家に到着したときの時刻を掛け合わせたものである。訪れたのが秘密基地だという根拠は、シートに付いていた靴の泥だけの心許ないものであった。この泥に関しては他のものの可能性も、もちろんある。けれど、それを言い始めたらあらゆる可能性が生まれてしまうので、多少強引でも玲はこの推理を進めることにした。
涼弥と陽平が、実と浩次を驚かせる悪戯を決行した。玲はその場にいなかったので、ここからは聞き及んだ話を総合させたものである。
――浩次が逃げ出してしまい、それを涼弥と実が追った。そのため陽平は一人残された。陽平がライトの明かりを消したとき、何ものかが彼を襲った。
陽平が襲撃されたことと、涼弥が失踪したことは、二日の内に連続して起こったことである。そのため、この二つを関連づけて考えることは至極当然であるだろう。
陽平を襲ったその何ものかが、夜に秘密基地を訪れた涼弥を襲撃した。この結論に至っても、それほど問題はないはずだ。
玲は口内を甘噛みする。
――その人物とは、一体誰なのだろう? ただの変質者という可能性がもっとも高いのだろうか?
経時的この事件を考えると、陽平が先にその人物に襲われた訳だが、そうなるとその人物は、涼弥と陽平が水場に落ちたフリをする悪戯を決行している間、ずっとこの暗闇に潜んでいたことになる。
意固地にならずさっさと謝って皆と一緒にその現場にいれば、何事も起こらなかったかもしれなかったと、玲は悔やんだ。
――そうだ、陽平にまだちゃんと謝っていない。それに、あの約束のこともちゃんとけじめをつけないと……
そう心に誓いを立てながら、玲は再び推理に没頭する。
陽平の証言によると、彼を襲った人物は一度外に出てから舞い戻って来たようだ。そう言えば、自分もあの日、陽平たちに謝ろうとこの場に訪れていた。そのことを思い出し、再び戻って来たその人物とは、自分だったのではないかと玲は思った。
――そうか、あのとき陽平は基地にいたのか、まったく気が付かなかったな。
その人物は、その次の日の夜。雨が降りしきる中、またしても壕に潜んでいた。
そいつは日常的にここを訪れていたのだろうか。それとも何か用事があってここに来ていたのか。いずれにしても、運悪く涼弥が出くわして急襲を受けた。
「あ、そうだ――」
浩次が何かを思い出したようで、玲は思考を中断して浩次の話に耳を傾ける。
「大谷が作った地図があるぞ。それを見ながら市川の手掛かりを探していけば効率がいいだろ」
浩次は腰を上げ、海賊の人形の元へと向かった。玲もそれに続く。人形が抱えている宝箱を浩次が開け、中から筒状に丸まった用紙を取り出した。
「内田が怒って帰った後に、市川がここへしまったんだよ」
言いながら丸まった用紙を解き、前に広げた。
地下壕の構造の絵は丁寧な線で描かれていて、陽平の几帳面な一面が見え隠れしていた。玲は描かれた地図と自分の頭に記憶している地図とを照らし合わせ、まだ行ったことのない個所があるか探した。
入り口から一本道が続き、途中で左右に通路が分かれる。左をたどると大きな空間が描かれていて、楕円の中に『水場』と書いてある。分岐路に戻って今度は右側に進むと、細かく枝分かれした短い道が四方八方に延び、最終的にはすべて行き止まりとなっていた。
自分の知らない秘密の通路のようなものがなく、玲は少しがっかりして地図から目を離したそのとき、地図の端の丸く癖付いた部分に何かが引っ掛っているのを見つけ、それを摘み上げた。
「何だ、それ?」
浩次も枝切れのようなそれを矯めつ眇めつ眺めた。
玲の脳みそでは、まるで歯車の間に挟まっていた歯止めが取り除かれて動き出したかのように、頭の端にあった数々の場景と、今まで感じていた些細な疑問が徐々に噛み合っていく不思議な挙動が始まっていた。突如動き出した脳髄の歯車に戸惑いながらも、玲はその駆動に思考をゆだねた。
――謎の人物が涼弥を襲った日、どうしてそいつはこの場を訪れたのだろう。日常的に訪れていた、とも考えられるが、雨の夜にぬかるんだ緑地を抜けてわざわざ来るものだろうか? 来るかもしれない。事実、涼弥も何らかの理由があって訪れてしまったのだから。
仮に、だ。
その人物は何か目的があってここを訪れていたのだとしたら。
それは、ぬかるんだ緑地を抜ける苦労をしてまで、来なければならなかった早急な事態だったのだとしたら――
涼弥に出くわした相手方も、相当びっくりしたのではないだろうか。気が動転して涼弥を襲った。涼弥はそのとき『これ』をこの宝箱に隠した。それ以外で、これがここにある説明がつかない。
玲は指先のその物体が何であるのか理解する。
――涼弥は、ボクたちが『これ』を宝箱の中から見つけてくれることを期待して隠したんだ。
この『塗装の剥げたネクタイピン』を……!
そろそろ終盤ですね。