第1話 ずっと仕事しなくて済むようにしてください
佐々木直人(34歳)は、仕事をしながら悩んでいた。
今働いている会社は、いわゆるブラック企業というほど酷くはない。給料は普通で、残業も毎日何時間もあるわけではない。上司も部下を怒鳴りつけるような人間ではなかった。
ただ、慢性的に人が足りなかった。
誰かが辞めても、すぐに補充されるわけではない。その分の仕事は残った人間に回ってくる。だから有給休暇も取りづらい。誰かが休むとなれば、「その仕事、誰がやるんだ」という空気が自然と生まれる。
みんな、自分の仕事を増やしたくない。
仕事を頼まれれば、自分の手が空いていないことを説明する。誰かが退職すると聞けば、本人を責めることはなくても、その分が自分たちに回ってくることを考えてしまう。
誰も悪人ではないのに、互いに牽制し合うような職場だった。
それでも会社が潰れないうちは、まだいい。
少し前、同じ業界で付き合いのあった会社が一つ潰れた。そこも特別酷い会社ではなかった。ただ、仕事が減り、人が減り、それでも何とか続けているうちに立ち行かなくなったらしい。
その話を聞いたとき、佐々木は他人事とは思えなかった。
自分の会社だって、いつまで今のままでいられるのか分からない。
毎朝、会社に行きたくないと思う。仕事中には、いつか辞めてやろうと考える。
それでも生活があるから辞められない。
別に出世したいわけではないし、出世した所で自分の上司を見ていると割に合わない事は明白だ。
将来こうなりたいという目標にはなりえなかった。
働かなくて済むなら、それが一番いいと、そんなことを考えながら、佐々木は今日も仕事をしていた。
明日も、おそらく仕事をする。
その先に何があるのか分からない。
ただ、今の生活を続けていくしかないことだけは分かっていた。
ある金曜日の夜、特に大きな事件があったわけではない。ただ、その日は仕事でちょっと嫌なことが重なった。
誰かがミスをしたわけでも、大きなトラブルが起きたわけでもない。
それでも、朝から続いていた社内の妙にギスギスした空気は、夕方になっても消えなかった。
そんな雰囲気を察したのか、上司の発案で、その日は珍しく同僚たちと飲みに行くことになった。
一軒目では仕事の愚痴を言い合い、二軒目に入る頃には、もう何の話をしているのかよく分からなくなっていた。
佐々木もかなり酒が回っていた。二軒目を出たところで同僚たちと別れ、ふらつきながらスマホを取り出して時間を確認すると、終電まであと数分しかない。
「……やばいな」
慌てて駅へ向かったものの、結局間に合わなかった。遠ざかっていく終電を見ながら、佐々木は、どうして自分の人生はこんなにうまくいかないのだろうと思った。
一体、何なんだろう。この不安は……。
タクシーに乗るほど金を使いたくない。かといって、ホテルに泊まるほどのことでもない。少し考えた末に、スマホで近くのネットカフェを検索した。歩いて行ける距離に何軒かある。
「まあ……ネカフェで寝ればいいか」
それで十分だと思った。明日の朝に帰って、そのまま休日を過ごせばいい。佐々木はコンビニに立ち寄って酒を一本買うと、ネットカフェへ向かうでもなく、なんとなく繁華街を歩き始めた。
しばらく飲み会に参加していなかったからか、街の雰囲気は以前訪れたときよりずいぶんと静かになっていた。好景気なのか不景気なのかよく分からない。この町もまた、閉塞感のかたまりのように見えた。
酔っているせいか、目的地へ急ぐ気にもならなかった。酒を飲みながら歩いているうちに、人の多い通りから少し外れ、細い路地裏に迷い込んでいた。
ふと気がつけば、ビルとビルの隙間に、小さな鳥居が立っているのが見えた。
「……神社?」
こんなところに神社があったのかと、佐々木は少しだけ足を止めた。鳥居の向こうには小さな境内があり、さっきまでの繁華街の喧騒が嘘のように静かだった。人の姿もない。
別に神社に用があったわけではない。ただ、静かだった。それだけで、今の佐々木には十分だった。
境内へ入り、社殿の軒下まで歩いていくと、佐々木はその場に座り込んだ。
夜風は少し冷たかったが、ここなら雨が降っても濡れずに済みそうだ。
もう、ネットカフェへ行くのも面倒になっていた。
どうせ明日は休みなのだ。少しくらい寝る場所が変わったところで、どうということはない。
佐々木は賽銭箱を背にして座り、買った酒を飲みながら、ぼんやりと境内を眺めた。
何も考えたくなかった。今だけは、仕事のことも、これからのことも忘れてしまいたかった。それなのに、静かになればなるほど、頭に浮かんでくるのは仕事のことばかりだった。明日からまた同じような日々が始まる。休日は何をすることもなく、休みの後はまた仕事だ。
来週も、その次の週も、きっと同じような毎日が続いていく。
佐々木はしばらく黙っていたが、やがて誰に聞かせるでもなく、ぽつりと口を開いた。
「なんで俺、こんなことしてんだろ」
「別に、あの会社じゃなくてもいいのにな」
少し間を置いて、佐々木はまた酒を飲んだ。
「いや……もう、行きたくねえ」
「一生遊んで暮らせたらいいのにな……」
そこまで言って、佐々木はふと背中の賽銭箱を振り返った。
酔った頭で何を思ったのか、財布を取り出す。中には小銭がいくらか入っていた。
佐々木はそれを確かめることもせず、まとめてそのまま賽銭箱へ放り込んだ。
小銭が落ちる音が、静かな境内に響いた。
「……神様、仏様、誰でもいいよ」
佐々木はうつろな目で天を仰ぎながら、願い始めた。
「もう、働きたくありません」
「頑張りたくもありません」
「ずっと仕事しなくて済むようにしてください」
それまで胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったようにあふれ出した。
「なんのために生きているのか、もうわからないんだよ! 飯食ってクソするだけの人生か?」
声が少し大きくなる。
「結婚もせず、子供も作れず、何も残せず、何も成し遂げられない。ほんと、くだらねぇ!」
言い切ったところで、佐々木はしばらく黙り込んだ。
やがて、自分が口にした言葉がおかしくなったのか、小さく笑った。
「……アホかよ、何言ってんだ、俺」
酒が回った頭では、それ以上考える気にもならなかった。
佐々木はそのまま軒下に体を横たえると、静かな境内で眠りについた。
翌朝。
鳥の声で、佐々木は目を覚ました。
「……ぅん?」
目を開けたものの、すぐには自分がどこにいるのか分からなかった。
硬い床の感触と重たい頭。しばらく神社の軒下を見上げてから、ようやく昨夜のことが少しずつ蘇ってくる。
「……ああ、神社か」
どうしてこんなところで寝ているのか、記憶もとぎれとぎれだった。それよりも、ひどい二日酔いだ。
「くそぅ、何やってんだよ、最悪だ……」
昨日の自分に悪態をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
そこで初めて、境内をまともに見渡した。
夜は暗くて気づかなかったが、思っていたよりずっと綺麗な神社だった。社殿も境内もきれいに整えられていて、朝の光の中で見ると、どこか妙に清々しい。
「こんな神社だったっけ……」
昨夜の記憶が曖昧なので、自信がない。
佐々木はポケットからスマホを取り出した。しかし、画面は真っ黒だった。電源ボタンを押してみるが、反応はない。
「マジ? 電池切れかよ……」
昨夜、酒を飲みながら動画でも見ていたのだろう。今さら思い出しても仕方がない。
スマホをポケットへ戻し、佐々木は神社を出た。
半分寝ぼけているうえに、硬いところで寝ていたせいで背中が痛い。体を伸ばしながら、駅へ向かって歩き始める。
ところが、少し歩いたところで、佐々木は妙な違和感を覚えた。
「……こんな道だったっけ?」
昨日、歩いてきたはずの道なのに、何かがおかしい。
道がやけに綺麗なのだ。
昨日の夜は暗くて気づかなかったが、道路も歩道もきれいに整備されている。建物も妙にこぎれいになっていて、以前のような寂れた繁華街の雰囲気がない。
それだけではなかった。
朝から、やたらと人が多い。
ジョギングをしている人が何人もいる。しかも、すれ違う人がなぜかみんな佐々木に声をかけてくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「……あ? おはようございます」
反射的に返事をしながら、佐々木は首をかしげた。
こんなところだったか。久々に来たこの町は、もっと寂れた感じだったはずだ。
ただ、二日酔いの頭では、それ以上考える気にもなれなかった。
「喉、渇いたな……」
自販機を探して、しばらく歩くと、ちょうどいい場所に一台見つかった。
佐々木は財布を取り出して、中身を見て固まった。
「……あ」
小銭がない。
昨夜、全部賽銭箱に放り込んだことを思い出した。
「俺のアホ……」
スマホを見る。電源は入らない。
朝っぱらから自分の馬鹿さ加減に嫌気が差した。
「クソッ! ……詰んでるじゃねえか」
『ドン!』
腹立ちまぎれに、自販機を軽く叩く。
すると――。
<ポーン>
「……ん?」
何かのボタンに手が当たったらしい。
<ガコン!>
取り出し口に、見たことのないデザインのボトルが落ちてきた。
「……なんだ、これ」
佐々木はしゃがみ込み、ボトルを拾い上げた。
ラベルには、見たことのない商品名が書かれていた。
「……まあ、水ならいいか」
二日酔いの佐々木にとって、それ以上のことを考える余裕はなかった。
キャップをひねって、そのまま一気に口へ流し込んだ。
どうせ家に帰ったところで、また寝るだけだ。ゆっくりして帰るか。
佐々木は植え込みの段差に腰かけ、小綺麗な街の様子をぼんやりと眺めていた。
ちょうど、道路の向かいにある店のシャッターが、静かに開き始めた。
入口に人影が見えたとき、佐々木は初めて、はっきりとした違和感を覚えた。
妙に白い、ぴったりとしたスーツを着た人が、ヘルメットをかぶったまま店の外へ出てきたのだ。
「なんだ、あれ? ロボット?」
そう思った瞬間、道路を一台の車が音もなく横切った。
佐々木は思わず目で追った。
そして、さらに驚いた。
「……誰も乗ってない?」
運転席にも、助手席にも人影がない。
車は何事もなかったかのように、そのまま静かに走り去っていった。
佐々木は改めて町の様子を確認した。
電柱がない。
信号もない。
空を見上げると、何か丸いものが空中を飛んでいる。
鳥でもない。3mくらいの大きさだろうか。
4つの穴が開いた丸い皿のようなものが、音もなく静かに飛び去っていった。
そして何よりも、佐々木は妙な違和感の正体に気が付いた。
看板がないのだ。
昨日歩いたときは、そこかしこに広告や看板があふれていたはずである。
佐々木は急に不安になり、慌てて駅へ向かって歩き出した。
すれ違う人が、みんなにこやかな笑顔で挨拶をしてくる。車は少ないが、走っているものはどれも見たことのない車種ばかりだった。
真四角な形をしていて、どちらが前なのかすら分からない。
小学生だろうか。5人ほどの集団とすれ違う。
この子たちもまた、佐々木に向かって挨拶をしてくる。
今まで閉塞感にあふれていた町が、一晩で別世界になってしまったようだった。
駅が近くなるにつれ、佐々木は、自分の置かれた状況が想像もしていなかったようなことになっているのではないかと、ようやく気付き始めた。
そして駅に着いた。いや、駅だった場所には、ただの広場が広がっていた。
そこにはたくさんの老人が、思い思いに体操らしき踊りをしている。
そのすぐそばでは、10体ほどいるだろうか。まるでそれが当然であるかのように、掃除をしたり、植木の剪定をしたりするロボットが動き回っていた。
佐々木は、たまたま通りがかった自分と同じくらいの年齢に見える男性に声をかけた。
「あの……すみません」
男性は足を止め、にこやかに振り返った。
「はい?」
「つかぬことをお伺いしますが、私、昨日ちょっと飲み過ぎまして。どうも知らない街に来てしまったようなんです」
男性は、ますます不思議そうな顔をした。
「飲み過ぎたら、町を移動したんですか?」
「いや、そういう意味では……」
佐々木は周囲を見回した。
当たり前のように動き回っているロボットや、空を飛ぶ見たことのない物体。
「……今日、いや。今は何年ですか?」
「何年?」
男性は少し不思議そうな顔をした。
「26年ですよ?」
佐々木は、どうしていいのか分からず、呆然とその場に立ち尽くしていた。
一体、どうなっているんだ。
駅がなくなっている。見たことのない乗り物が走り、空には何かが飛んでいる。ロボットまで普通に歩き回っている。
夢でも見ているのか?
そんなことを考えていると、背後から声がした。
<私がお手伝いできます>
「うわっ!」
佐々木は飛び上がるように振り返った。いつの間に近づいてきたのか、白いボディのロボットがすぐ後ろに立っていた。
「お、お前……いつからそこに?」
<先ほどから、あなたの様子を確認していました>
「確認って……」
佐々木は少し後ずさった。
目の前にいるロボットは滑らかな動きで、まるで中に人間が入っているようにしか見えない。
「ここ……駅があったはずなんだ。昨日まで、ここには駅があった」
<はい>
「それなのに、なくなってる。車もおかしいし、空も飛んでるし……俺は佐々木直人。家に帰りたいんだけど、スマホも使えないし……」
<状況を確認します。佐々木直人さんですね>
「……そうだけど」
<ご自宅へお帰りになりたい、ということでよろしいですか?>
「そうだよ。帰りたいんだよ。でも、何がどうなってるのか全然分からない」
ロボットは少し間を置くと、穏やかな声で答えた。
<安心してください。私がサポートします>
「……本当に?」
<はい。こちらへどうぞ>
「いや、ちょっと待て。どこへいくんだ?」
<現在の状況を確認するため、サポート施設へご案内します>
そう言われても、佐々木には不安しかなかった。
しかし、他に頼れるものもない。
仕方なくロボットについていくと、少し先に見たことのない車が停まっていた。
ロボットが近づくと、車のドアが静かに開く。
佐々木は恐る恐る車内を覗き込んだ。
運転席らしき場所はある。が、ハンドルがない。
それどころか、アクセルもブレーキもない。画面がポツンと一つあるだけだった。
「……これ、車? ……これに乗れと?」
<はい。ご安心ください>
「いやいやいや……」
佐々木はしばらく車とロボットを交互に見つめたが、他にどうすることもできず、観念して乗り込んだ。
ドアが静かに閉まり、車は音もなく走り始めた。
「……マジかよ」
佐々木は窓の外を眺めながら、何度も首をかしげた。
一体、自分はどこへ連れていかれるのだろう。
このときの佐々木は、まだ何も知らなかった。




