第三十三話 ヨシコさんの手
ヨシコさんが手首を押さえているのに気づいたのは、秋の初めだった。
ミシンを踏んでいる途中、右手を止めて、左手で手首をそっと押さえる。一瞬だけ。それからまた動き始める。
私は最初、気のせいかと思った。
でも、三日連続で見た。
昼食のとき、隣に座って言った。
「ヨシコさん、手首、大丈夫ですか」
ヨシコさんは少し間を置いた。
「前から少し痛かった」
「いつから?」
「半年くらい前から。でも、縫えるけんよか、と思いよった」
「病院には?」
「行っとらん」
私は少し考えた。
「今日、行きませんか。私が一緒に行きます」
「大げさやろ」
「大げさじゃないと思います。ヨシコさんの手首は、工場の全員の手首でもあります」
ヨシコさんは少し黙った。
「大げさなことを言うようになったね」
「ヨシコさんに鍛えられました」
ヨシコさんは少し笑った。
「明日でよか?」
「今日にしてください」
診断は手根管症候群だった。
手首の神経が圧迫されて、しびれや痛みが出る。縫製の職人に多い症状だと、医師が言った。
「しばらくは安静にしてください」
ヨシコさんは「どのくらい?」と聞いた。
「手術するなら、術後三週間は縫製作業はできません」
ヨシコさんはしばらく黙った。
「手術する」
即答だった。
「え、少し考えてからでも」
「考えることはない。縫えるようになる方を選ぶ。そのためなら、三週間くらいかまわん」
帰り道、ヨシコさんが言った。
「怒っとる?」
「……なんで私が怒るんですか」
「言わんでいたけんかと思って」
「少し、心配しています」
「心配しなくていい。これは治る。縫えなくなるよりよか」
私は頷いた。
治る。縫えるようになる。
ヨシコさんの優先順位は、いつも明確だった。
私はその明確さが、少し羨ましくて、少し頼もしかった。
了
次回 第三十四話 不在




