第三十二話 契約
東洋繊維商事との正式な契約が成立したのは、夏の終わりだった。
内容は、素材の安定供給と、販路の拡大支援。縫製技術の移転はない。量産は別途協議。
私と桐島さんと社長で、最後の確認をした。
「縫製技術については、どのような形でも提供しない。これは変わりませんね」
「変わりません」
桐島さんは頷いた。
「理解しています。最初の交渉から、そこだけは動かなかった」
「桐島さんはそれで、納得できましたか」
桐島さんは少し考えた。
「正直に言えば、最初は納得していませんでした。なぜ量産を拒むのか、ビジネス(商売)として非合理だと思っていた」
「今は?」
「今は、理解しています。あの縫い方は、人の指先にしかない。それを守ることが、この会社の価値を守ることだと」
契約書に判を押した後、桐島さんが工場を一周見た。
ミシンを一台一台、視線でなぞった。
最後に、アカリさんのミシンの前で止まった。
「触っていいですか」
アカリさんが頷いた。
桐島さんがミシンに手を乗せた。電源は入っていない。ただ、触った。
「記憶が違う」
「記憶?」
「母親が洋裁をやっていて、ミシンに触ったことがあります。もっと冷たい記憶でしたが、今触ったら違う感じがした」
アカリさんが言った。
「このミシン、ちょっと機嫌がいい日なんです。今日は天気がいいので」
桐島さんはアカリさんを見た。
「ミシンに機嫌があるんですか」
「あると思います。ヨシコさんもそう言っていたので」
全員で工場の外に出た夕方、私はヨシコさんの隣に立った。
「今日で一つ、終わりましたね」
「終わりじゃなかよ。始まりよ」
「何の?」
「あの布が宇宙から帰ってきた。次は、それを世の中に出す話になる。それが本当の仕事の始まりよ」
私は空を見た。
夏の終わりの空は、高かった。
始まり。
私はまだ、その言葉の重さを半分しか知らないと思った。でも、半分知っていれば、続けられる。
了
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