第80話
老司祭が別荘を訪ねてきたのは、ちょうどフレデリックが温かい紅茶を飲み終えた頃だった。
「ソフィアの様子はどうかね」
玄関のドアを閉めながら、老司祭がさっそく問うてくる。
「今は薬で眠っています」
「ふむ、それならよかった」
フレデリックの返答に、老司祭は安心したようだった。
「追加の香を持ってきたよ。ソフィアの部屋で焚いておくといい」
念には念をと、老司祭が提案してくれた清めの香だった。
カチュアの発狂と悪霊、どちらが事件の原因かはいまだに分からない。だが分からないなりに、できることはやっておこうとフレデリックは考えていた。
「お邪魔してもいいかね?」
「ええ、どうぞ」
老いているとはいえ、司祭も男だ。しかし彼がカチュアになにかするかもしれないという心配を、フレデリックはまったくしていなかった。
まあなにかあったとしても、カチュアならばどんな目に遭ってもかまわないのだが。
老司祭と別れ、フレデリックが厨房へと向かう。わざわざこの冷える中、村はずれの別荘まで来てくれたのだ。温かい茶でも振る舞いたいという気があった。
厨房には、ちょうどメイドのティナがいた。声をかければ、嫌な顔ひとつせず、むしろ来客があったのを喜んで茶の用意に取りかかってくれる。
ティナはどことなくソフィアを思い出させる明るい性格だが、昨晩の事件は彼女にも影響を与えていた。笑顔に、若干疲れの色が滲んでいる。
茶の用意をティナに任せ、フレデリックはカチュアの部屋へと向かった。
ドアをノックしようと片手を上げると同時に、室内から老司祭の低い悲鳴が聞こえてくる。
悠長にノックをしている場合ではない。フレデリックが勢いよく室内へと踏み込む。
そこで見たのは、仰向けに倒れた老司祭に馬乗りになっているカチュアの姿だった。その手にはペーパーナイフを握り、抵抗する老司祭の喉元を狙い暴れている。
本能的に、フレデリックはカチュアを体当たりで突き飛ばした。そのまま彼女を押さえつける。
やつれた女とは思えないほどの強い力で、カチュアは暴れ続ける。
フレデリックが全力で押さえつけて、やっとその動きを制止できるくらいだ。老司祭がカチュアに負けるのは当然に思えた。
薬を飲ませたはずのカチュアの両目は見開かれ、焦点の合わない様子で虚空を見ていた。そんな彼女が自分のおこないを理解しているとは、全く思えない。
フレデリックが押さえつけてからややあって、カチュアは突然気を失ったように動きを止めた。がくりと全身の力が抜け、その両目がゆっくりと閉じられる。
室内にやっと静けさが戻ってきた。
カチュアの手からペーパーナイフを取り上げ、フレデリックが額の汗を服の袖で拭う。
「妻が申し訳ありません」
「なんの、ソフィアが無事ならそれでよい。フレデリック様は怪我しておらんかね?」
倒れたときに腰を打ったのか、老司祭が腰をさすりながらよろよろと立ち上がる。
「いったいなにが?」
フレデリックの問いに、老司祭はローテーブルを指した。そこには小さな香炉が置かれている。見覚えのないものなので、老司祭が持ってきてくれたのだと考えられた。
「儂がそこで香の用意をしていたら、突然飛びかかってきてのう。フレデリック様が来てくれなければ、危ないところだったよ」
言いつつ、老司祭が香に着火する。何度かカチュアの攻撃を手で受け止めてしまったようで、老司祭の手は傷だらけだった。
「司祭様、手当てを。下の居間にお越しください」
「すまんな、世話になるよ」
老司祭はそう言うが、謝るのはフレデリックの方だ。まさか薬で眠らせてもカチュアが暴れるなんて、想像もしていなかったのだ。散歩から戻ったときの様子を思い出すと、薬の効きが悪かったとは思えない。彼女の狂暴化は単なる発狂とは違うのではという予感が、フレデリックの脳裏をよぎる。
とにかく、この部屋に武器となるものを残してはいけない。
ペーパーナイフを持ったまま、フレデリックが室内をぐるりと見回す。割れてしまった鏡台に置かれた小さなはさみと剃刀を見つけ、回収した。
他には特に危険物になりうるものは見当たらないが、暫くティナをこの部屋に近づけない方がよさそうだ。ティナは毎晩カチュアにハーブティーを差し入れていたが、それもやめさせよう。どうしてもティナがこの部屋に来る場合は、フレデリックが付き添った方がいい気がする。
ひとまず、老司祭の手当をしなければ。
ベッドに運んだカチュアの寝息を確認すると、フレデリックは老司祭を伴って部屋を後にした。




