第78話 フレデリック
睡眠薬のせいかぼんやりとしているカチュアの手を取り、フレデリックは少し遅い朝の小さな庭へと出た。
庭師をしてくれていた義父のジェームスはもういない。昨晩発狂したカチュアが殺してしまったからだ。
また暴れられては困るので、カチュアは基本的に医師から処方された睡眠薬で眠らせるという話でまとまった。
だが健康面を考えると、寝たきりがいいとは思えない。カチュアには真実を知るまで健康でいてもらわないと困るのだ。少しくらいは外に連れ出した方がいい気がする。
そう考え、フレデリックはちょうど目覚めたカチュアをこうして散歩へと連れ出していた。
一応老司祭にエクソシストの件は頼んだものの、いまだにフレデリックはカチュアが精神的に限界を迎えただけなのではという可能性を捨てきれていなかった。もしそうだとしたら、カチュアには落ち着いて話ができる程度に回復してもらわないといけない。カチュアに気を使うという努力が、フレデリックには必要とされた。
散歩がなにか刺激になればいいと思ってカチュアを庭に連れ出したが、彼女はというと手を引かれるままにおとなしくついてくるだけだ。
晩秋のエルディア村の空気は少し肌寒く、適度に気を引き締めてくれる。国内でもかなり北方に位置するこの村で秋を過ごすのは、フレデリックは初めてだった。
愛しいソフィアはこんな環境で暮らしていたのだなと、新鮮な気持ちで周囲を見回す。
朝方に出ていた霧はすっかり晴れ、色の薄い青空の下には紅葉した山の稜線がくっきりと見えていた。村人から聞いた話では、来月あたりからは少しずつ雪が降り出すという。
しんしんと雪が降り積もる冬でも、きっとソフィアは真夏の太陽のような明るい笑みをたたえていたに違いない。
そんな彼女にもう会えないと思うと、秋の静けさが余計に寂しく感じられた。
「ソフィア、足下気をつけて。段差があるからね」
己が手を引いているのはカチュアだと理解しているが、それでもフレデリックは相変わらず『ソフィア』と呼び続けていた。
それがどんなにカチュアを追い詰めているかは、彼女の年齢らしからぬ骨ばった手からも感じ取れる。
挙式の日に触れたときのふっくらとした感触はとっくに失われ、ティナがスキンケアをしているおかげでかろうじて皮膚はかさついていないという程度の、寂しい手だった。
ちらりと見やったカチュアの横顔からも、疲弊しきっているのが目に見えて伝わってくる。
だがフレデリックがカチュアを『ソフィア』と呼ばなければならない理由は、彼女とて理解しているはずだ。その道を生きていくと選んだのは、他でもないカチュアなのだ。ソフィアがいなくなって以来、カチュアは自分がソフィアでないという否定を、フレデリックたちの前では一切しない。
それでも公の場で彼女を『カチュア』と呼び、真実を強引に暴こうとしないだけまだ優しいはずだと、フレデリックは考えていた。
周囲の人間を巻き込む気はないのだ。あくまでもフレデリックだけが真実に辿り着けたら、それでいい。
たったそれだけのことなのに、どうしてこうもうまくいかないのか。
もやもやとした気持ちを抱いたまま、あくまでも『妻のソフィア』として扱っているカチュアを、小さなベンチに座らせる。
「寒くないかい?」
「平気よ。慣れてるもの」
フレデリックの問いに、はかなげな声が返ってくる。
声はたしかにソフィアのものに似てはいるものの、やはりどこか違う。それはカチュアの衰弱だけが原因ではない。いくら魂を分け合った瓜二つの双子とはいえ、どこかに差はあるのだ。
フレデリックは、己の直感が間違っていないと信じていた。
「覚えているかい、ソフィア。この庭は僕たちが初めて出会った場所だよ」
なにかにつけて、フレデリックはソフィアとの思い出をカチュアに突きつけていた。ソフィアとの思い出の光景の中には、もちろんカチュアも一緒にいる。
カチュアの刺激になればいいと思う反面、まるでこれは八つ当たりのような行為だと自分でも分かっていた。だがフレデリック自身も、己を保つのに精いっぱいなのだ。
思い出話につられて、カチュアが真実を口にしてくれたらどんなに楽か。
だがそんな現実は、どんなに待っても訪れてくれない。
「ソフィア、僕に隠してることはないかい? 悩み事があるなら話して欲しいんだ。僕たちは夫婦なんだから、遠慮なんてしなくていいんだよ」
「ありがとう。でも、悩み事は特にないわ」
今日もカチュアはなにも語る気がないのだと、フレデリックはがっかりした。真実を知りたいフレデリックと、ひたすらに隠し続けるカチュア。二人の根競べはまだまだ続くようだ。
落胆した気持ちが、ついフレデリックの気を緩ませてしまったのだろう。
「ねえ、カチュア」
無意識に、フレデリックはそう口にしていた。
思わず見たカチュアの表情が、見るからに強張っている。
カチュアが生きてるうちは、ずっと『ソフィア』と呼ぶつもりだったのに。精神的な疲れを抱いて思い出の場所に立つという行為は、フレデリックを油断させてしまったらしい。
「違うんだ。ソフィア、ごめん」
「どうしてそんな間違いをするの? あたしがカチュアに見える?」
「違うんだ」
「あたしは『ソフィア』よ。だってあなたもあたしを『ソフィア』って呼ぶじゃない」
フレデリックの腕にすがってくるカチュアの細い指が、思いのほか強い力で食い込んでくる。ソフィアが死んで以来初めて見る、激しい反応だった。突然の変貌ぶりに、フレデリックが思わず息をのむ。
「ごめんよソフィア。ちょっと昔を思い出していただけなんだ。本当だよ」
「フレデリック、あなた本当はカチュアの方が好きだったんじゃないの?」
「それはないよ」
カチュアの問いに、フレデリックは即答した。本当のことだけを口にするのは、至極簡単だ。
カチュアのはしばみ色の瞳が翳る。彼女を傷つけてしまったとフレデリックはすぐに分かったが、正直傷ついた相手がソフィアでなければどうでもよかった。




