普通クラスの先生だったらよかったのに──1
コンビニでチキンとアイスを買った璐世は帰宅するなり入浴を済ませた。お風呂上がりのアイスに勝るものはない。濡れた髪を乾かすより先に、買ってきたアイスに手をつける。
「ん、電話だ」
ソファに投げたスマホが震えているのに気づき、持っていたスプーンを咥えてスマホを拾う。旅行中の母からだ。
「もしもしママ?」
『はあいママの可愛い宝物ちゃん。 良い子にしてたかしら?』
ビデオ通話に応じれば、宿泊先である旅館の部屋が母の後ろに映っている。広々とした和室は画面越しでも相応の値がするであろうと窺えた。
周年記念でもない結婚記念日に張り切りすぎではないか? とスマホを見つめる璐世。
『あら、お風呂上がりね? ちゃんと髪を乾かさないとダメよ?』
「食べ終わったら乾かすー」
『化粧水は塗った? 乳液は? スキンケアは今のうちからしておくのが大事なんだから。璐世はママに似てとっても可愛いんだから、お手入れもしっかりしないと──』
「分かってるってば」
早いところ話題を変えないと、延々と美容トークをされる。母はそういうものに詳しく、こちらにも色々と指摘してくるが璐世はひたすらに面倒臭かった。
『寂しくない? 部活も夏期講習も一日くらい休んだって死なないんだから、一緒に来れば良かったのに』
「一日どころか一週間も旅行するでしょ。そんなに休めるわけないじゃん」
だいたい、高校生にもなって親の結婚記念旅行に付き添いたくない。幼少期は一緒に行っていたが、去年から同行を断っていた。
「パパとママの結婚記念日でしょ。二人でゆっくりしてきなよ。こっちはこっちで楽しんでるから」
今朝トーストを焦がし、牛乳を床にぶち撒けたことは黙っておく。
『それなら良いけど、ご飯は大丈夫? お小遣いを一度に全部使ったりしてない? ママ達が帰るまで何も食べる物が無い、なんてことになったら大変だわ』
「大丈夫だから。私だってそれくらい考えて使えるもん」
『あっ! お菓子ばっかり買うのもダメよ! ちゃんとご飯で栄養取らなきゃ!』
「分かってるから! ちゃんと気をつけてますぅ!」
さすが母。璐世の考えることはお見通しだ。あわよくば高校の夏期講習期間が終わったら一人で深夜のお菓子パーティーをしようと計画していた璐世は、釘を刺されて居心地が悪い。
『塾はちゃんと行ってる?』
「行ってるって。あ、そうだ聞いてよママ。今日から新しい先生来たけど、超イケメンなの! マジイケメン! しかも授業分かりやすいし、字も綺麗だった!」
『あらあらあら、良いじゃない。ママも見てみたいわあ』
亜瑠の姿を思い出す璐世。あれはどれだけ誇張しても期待を裏切らないイケメンだ。
「しかも皇國大学の現役生なんだって! めっちゃ頭良い! で、その人お化け屋敷に住んでた」
『ああ、それでいつだったか管理人さんがあのお家改修工事してたのね』
「そうなの?」
知らなかった。今日は焦っていたため少ししか見ていないが、外観の色が変わっていないだけでボロ屋じゃなくなっていたのかもしれない。
人様の家の塀を勝手に渡り歩いたことも黙っておこう。あの様子じゃ、亜瑠も口外はしないだろうし。
「イケメンの先生ってめっちゃテンション上がるしモチベも上がる! 奏明は鬼講師だって怒ってたけど」
『ふふふ。パパが拗ねてるわ。イケメンの先生に嫉妬してるのかも』
「パパもイケメンじゃん。嫉妬する必要ないでしょ」
『璐世はパパと結婚するって言ってたのに、って』
「いつの話してるの」
それは小学校に上がる前の璐世が言った事だ。まだ結婚というものについてよく知らない子供の言葉だと、父親も分かっているだろうに。
いや、分かっていないのは璐世の方だ。愛娘に男の影がチラつくことは受け入れ難い父の気持ちなど、璐世は露ほども知らない。
「とにかく、私は大丈夫だから! 心配しないで」
母との電話を適当に切ってアイスに専念する。学校の夏期講習はやる気が出ないが、塾の夏期講習は少し楽しみになっていた。
だからこそ明日は近道を通るわけにはいかない。
両親のいない自由時間を楽しみたいが、我慢して早めにベッドに入る。夜更かしを楽しむのは学校の夏期講習が終わってからだ。スクールバッグに塾の教材と学校の夏課題を詰めたのを再三確認してから、璐世は部屋の電気を消した。
──翌朝。ぱちりと目が覚めた璐世は、寝ぼけることなくしっかり起きた。
ヘアバンドで無造作に前髪を上げ、歯磨きをしながらテレビを付ける。朝のニュースはあまり興味が無いが、エンタメやスポーツはチェックしておきたい。
洗面所に戻って顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。化粧水をぱしゃぱしゃ顔につけ、乳液で水分を閉じ込める。「顔は絶対擦っちゃだめ! ゆっくり押し込むようにするのよ!」なんて母親の声が頭の奥から聞こえてくるようだ。
トーストは焦がしたくないから諦め、ハムとマヨネーズでサンドウィッチにする。少しマヨネーズの量が多かった。牛乳は零さなかった。
制服に着替えて寝癖を直す。夏休みだというのにずっしりしたスクールバッグを背負って璐世は家を飛び出した。
昨日と違って時間に余裕がある。いや、昨日が時間に余裕が無かっただけだ。鼻歌混じりでいつもの通学路を歩いていると、気だるそうに歩く長身の男の背中を発見した。
タッタッタ、と駆け寄り、青年の前に回り込む。
「あ、やっぱりせんせーだ! せんせおはよ!」
亜瑠だった。上下黒のスウェットでゴミ出しに行く途中の姿に、頭脳明晰な塾講師のイメージは全く無い。どこからどう見てもただの大学生だ。
「ああ、おはよう。朝から元気だな」
「せんせーは眠そう」
明らかに夜型だろうに、早朝からちゃんとゴミ出しをしている亜瑠に感心する。
「まあな」
「帰ったら寝るの?」
「いや、ゼミの集まりがあるから寝ない」
「ふーん」
ゼミというのはなんだろうか。名前だけなら聞いたことはあるが、部活みたいなものなのだろうか。サークルとはどう違うのか。首を傾げる璐世だったが、まあいっか、と疑問はすぐに溶けていった。
当然のように亜瑠の隣を並んで歩き、通学路の道中にあるゴミステーションまで付き添う。
「せんせーはなんでお化け屋敷に住もうと思ったの?」
「お化け屋敷ってなんだ」
「あの家、ずっとそう呼ばれてるから」
至極微妙な表情の亜瑠を璐世は気に留めない。改装されていようとお化け屋敷はお化け屋敷だ。
「なんでって聞かれたら、そりゃ家賃が安いうえに一軒家だからな。古民家だとしても破格だぞ」
「そーなの?」
「そーなの」
亜瑠がゴミステーションの蓋を開き、持っていたゴミ袋を放る。
ここでお別れだ。亜瑠は家に帰るし、璐世は学校に行かなければならない。
「せんせまたね!」
「気をつけてけよー」
眠そうにヒラヒラと振ってくれた手をポケットに突っ込み、あっさり背を向ける亜瑠。遠ざかっていく背中を少しだけ見送って、璐世も通学路を走って行く。
別に走る必要は無いのだが、なぜか走りたい気分だった。




