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夏のある日の──1

「もおーーーー!! せっかく早く起きたのに!!」


 快晴に少女の声が突き抜ける。空気は既に熱気を孕み、じっとりと身体に絡みついてきた。それを振り切るように走る彼女の肌は火照り、汗ばんでいる。短く切り揃えられたローズピンクの髪が風を切って後ろになびいた。

 これだけかっ飛ばしても整った顔立ちが崩れないのはある種の才能に違いない。


 急がなければ夏期講習が始まってしまう。生まれてこの方遅刻などしたことないのに、夏休み早々遅刻しては気が緩んでいると思われる。

 今日の空のように青い瞳が通学路の先を睨んだ。


 いや、璐世(ろぜ)はしっかりと早起きした。なんならいつもより早く起きた。昨日から両親が結婚記念日の旅行に出かけ、束の間の一人暮らし気分に浮き足立っていたのだ。

 しかしどうだろう。朝食のトーストを焦がし、牛乳を床に盛大にぶち撒け、気づけばとっくに家を出る時間が過ぎていた。こういう時に限って自転車がパンク、次のバスは三十分後。最寄駅まで走っても二十分。待ってる間に夏期講習が始まる。


「今日は厄日!! 絶対厄日!! 近道する!!」


 通っているグレナディア女子高等学校まで、普段の通学路では高台にある住宅街や小学校を迂回する経路になっている。今日は仕方ない。限りなくショートカットをしよう。


 進路を変え、細い階段を駆け上がる。朝の住宅街をマラソン選手のように走り抜け、小学校のグラウンドを突っ切った。完全に不法侵入だが卒業生だから大目に見てほしい。

 その先に見えるのは外壁が黒いボロ屋。小学生の間ではもっぱら「お化け敷」と呼ばれる家だ。お化け屋敷の向こうに出れば、いつもの通学路に戻れる。


 躊躇わずに璐世(ろぜ)は塀を登った。この近道を通るのは、実は一度や二度じゃない。

 しかし誰かに咎められたことはない、という成功体験が彼女を油断させていた。


 いつものように塀を上った先で、青年と目が合った。真っ黒な髪に眠そうな赤い目。見覚えの無い顔だ。こんな美しい顔の人間、一度見れば忘れない。

 お化け屋敷の庭で、青年が草木に水やりをしていた。

 お化け屋敷に、いつの間にか人が住んでいる。


「……」

「……」


 両者がしばらく見つめ合い。遅刻への焦りと見知らぬ人への動揺で、璐世(ろぜ)は塀を降りるどころかそのまま強行突破してしまう。


「ご、ごめんなさい!!」


 謝罪を置き去りに過去最速で塀を渡り切った。


 誰だあのイケメンは。女子校という環境のせいで普段父親と教職員以外の男性と接しないため、あまり男性に対する耐性が無いのだこっちは。


(あ、ううん。塾にも男の人いた)


 訂正。高校に進学した今年から通っている塾でも異性と関わる機会があった。なんなら中学生までは共学だった。しかしあそこまでのイケメンは会ったことがない。

 というか、なぜあんな若人がお化け屋敷に住んでいるのか。先ほどの彼を思い出す。黒いTシャツに同じく黒のハーフパンツと、ザ・夏休みの大学生を体現した青年だった。あれは不法侵入などではなく完全に住んでいる人の空気だ。不法侵入したのはこっちだ。


「もうあの道使えないじゃん! 私の方が先にここに住んでるのに!!」


 ようやく学校が見えてきた。夏日で輝く白い壁が眩しい。

 見知らぬイケメンに理不尽な怒りをぶつけながら、なんとか璐世(ろぜ)は校舎へと滑り込んだ。


 制服で通っている高校などすぐバレるだろう。通報されないことを願うばかりだ。






 夏休み、などと謳っておきながら夏期講習を三日間も詰めるのはやめてほしい。それなら夏休みを明明後日からにしてくれればいいのに。

 午前の夏期講習を無事に終え、午後からは部活。夏の大会が終わった今、あれだけ張り詰めていた空気が幾分か和らいでいた。


「この後塾とかやだなー……せっかくパパとママがいないんだから、一人暮らしを満喫したいのに」


 剣道の防具を片付けながら璐世(ろぜ)が文句をこぼす。グレナディア女子高等学校の偏差値は高いからこそ塾に通って授業に置いていかれぬようにしている。

 道着から制服に着替え、スクールバッグをリュックのように背負った。道場をせっせと去り、玄関で友人の背中を見つけた璐世(ろぜ)が顔を綻ばせる。


奏明(そみん)!」


 黒髪を太く三つ編みにした少女が振り返る。(みどり)の瞳が璐世(ろぜ)を捉えた。


「これから塾行くとこでしょ! 一緒に行こ!」

「いいわよ」


 細身で背が高く、頭脳明晰な奏明(そみん)。完成されたその顔と口数が少ないことから、彼女はどこか近寄り難さを持つ少女だった。そんな彼女に躊躇いもせず話しかけるのは璐世(ろぜ)一人。見目麗しい少女達が立ち並ぶ様に、まだ校舎に残っている生徒がチラチラと振り返る。

 実は、凄まじい行動力と運動神経を持つ璐世(ろぜ)は他の生徒から密かに王子様認定されているのだが、本人は全く気づいていなかった。


「でね、あのお化け屋敷に人住んでてさ!」


 塾に向かう道中、璐世(ろぜ)は今朝の出来事を奏明(そみん)に話していた。


「あんなボロ屋に住む人がいるの? 璐世(ろぜ)の見間違いじゃなくて?」

「本当に住んでたの! 大学生っぽい男の人。すっごいイケメンの」


 いまいち奏明(そみん)は信じていない。彼女は幽霊の類いを全く信じない人間だからか、不思議な出来事はいつも「気のせい」や「見間違い」と返してくる。

 本当に住んでたのに。というか、璐世(ろぜ)が見たのは人間であって幽霊ではない。


 本当に見た、いや見間違いだ、のやり取りを繰り返しているうちに塾に着いた。

 自動ドアを潜って中に入った璐世(ろぜ)が、急に奏明(そみん)の腕を引く。


「ちょっと、何?」

「あの人! あの人! お化け屋敷に住んでた人!!」


 小声で叫びながら璐世(ろぜ)がフロントを指した。塾講師達のデスクが並んだその一つに、あの黒髪の青年が座っていた。

 間違うはずもない。あんなイケメン、一度見れば忘れないのだから。


「たしかに、知らない顔ね」

「なんでここにいるの!?」

「私が知るはずないでしょ。新しい講師のバイトなんじゃない?」


 気にせず中に入ろうとする奏明(そみん)を、しかし璐世(ろぜ)が腕を掴んで止める。


「なんで止めるのよ」

「あの人がいなくなってからにしよ!!」

「はあ?」


 今朝不法侵入をかました家の住人がいるのだ。こちらの存在は絶対にバレたくない。なんなら帰りたい。塾を変えたいと今すぐ両親に訴えたいが、彼らは絶賛旅行中だ。


 じとっと璐世(ろぜ)が入り口から中を伺う。奏明(そみん)の言った通り、彼は新しく入った講師らしい。他の先生と一言二言会話を交わした後、フロントから立ち去った。

 その隙を逃さず璐世(ろぜ)が中に入る。


「田中先生! あの人誰!!」

璐世(ろぜ)さん。彼ね。今日から入った亜瑠(ある)先生だよ。皇國大学の三年生なんだって。すごいよねえ」

「教科は!? どこのクラスの先生!?」


 のほほんと話すおじいちゃん先生に問い詰める璐世(ろぜ)。これは死活問題だ。場合によっては、今日は仮病で家に帰るしかない。


「ああ、亜瑠(ある)先生は中高の特進クラスの数学と理系科目を担当してもらうよ」

「よし!! よし!!」


 拳を握り喜びを噛み締める璐世(ろぜ)。特進クラスは難関大学を目指す生徒達のクラスだ。璐世(ろぜ)が在籍しているのはそのクラスではない。

 つまり、よほど成績が上がらない限りは関わることがない講師だ。


「あー安心した──」

「数学のテキスト一冊借りて良いですか? 忘れた生徒がいて」


 フロントに亜瑠(ある)が戻ってくるなり、璐世(ろぜ)がシュンっとカウンターの下に引っ込む。一瞬目が合った気がした。


「いいよいいよ。そこの貸出用のところにあるから。あれ、璐世(ろぜ)さんは?」


 必死で隠れる璐世(ろぜ)に肩を竦める奏明(そみん)。そんなに気まずいなら先に謝った方が楽なのに、と奏明(そみん)は自分の足元でしゃがんでいる友人を見下ろした。


 件の青年が再び立ち去ったのを確認すべく、璐世(ろぜ)がカウンターからそっと顔を覗かせる。

 いない。よし。


「あっっぶなかったー……」

「大袈裟すぎよ。一回会っただけなら向こうも覚えてないんじゃない?」

「だって、皇國大でしょ!? 頭良いもん、一回見た顔は覚えてるって絶対!!」


 早いところ教室へ移動してしまおう。この時間は中学生の授業だ。今のうちに教室へ行ってしまえば鉢合わせない。


「私も教室で自習してるわ」

「もう行っちゃうの?」


 特進クラスに在籍している奏明(そみん)は隣の教室。塾に来たばかりだというのに離れてしまうことに、璐世(ろぜ)が寂しそうな顔をする。


「早く席取らないと埋まっちゃうもの」

「そっかぁ」


 勉強熱心な生徒ばかりの特進クラスは、空きコマでも教室で自習をする生徒が多い。比べてこちらの教室は自由奔放だった。机にちらほら鞄は置かれているものの、その持ち主は見当たらない。

 奏明(そみん)を見送って、仕方なく璐世(ろぜ)はテキストを開く。今日の授業は二コマ。最初は数学だ。


「どうせ一学期の復習だし、そんな難しくないでしょ」


 塾に来てまで奏明(そみん)のように自習する気は起きない。パラパラとテキストを数ページめくっただけで、璐世(ろぜ)は机に突っ伏した。


 暇だ。授業が始まるまで何十分もある。学校の夏課題を鞄に入れようと思っていたのに、朝のバタバタで忘れてしまった。

 することもなくタプタプとスマホをいじる。こんなことなら一度家に帰ればよかった。

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