第一章「救えなかったあとで」上
冷たい風が、西地区の荒地を吹き抜けていた。
暗く、足場の悪い道を進んでいたルル・ユースティアは、人影のない場所で足を止める。
視線の先に横たわっていたのは、行方不明になっていた少女だった。
「……また、遅かったのね」
ルルは静かに膝をついた。
少女の亡骸は、まるで眠っているかのように穏やかな表情を浮かべていた。
目立った外傷はない。争った形跡も見当たらない。それでも、確かに何かが奪われている。
「……魂、ってやつ?」
誰に向けるでもなく呟き、ルルは少女の亡骸を見つめた。
やがて顔を上げ、周囲へと視線を巡らせる。
荒れた地面に、何か痕跡は残されていないだろうか。犯人につながる手掛かりは、本当に何もないのだろうか。
しかし、目に入るのは暗闇と荒れた地面ばかりだった。
その時、背後に人の気配を感じた。
ルルは片手に拳銃を構えたまま、勢いよく振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。
月明かりを受けて輝く銀色の髪。そして、左右で色の異なる瞳が、こちらをじっと見つめている。
「……こんばんは」
柔らかな声だった。目の前に亡骸があるとは思えないほど、場違いなほど穏やかな挨拶。
「その挨拶が出る状況じゃないでしょ」
拳銃を向けられているというのに、少女は驚く様子もない。その態度がかえって奇妙で、ルルの声は自然と鋭くなった。
「ここにあるの、見えてる?」
「うん。確認したよ」
少女は淡々と答えた。
「あんた、ここで何をしていたの?」
こんな暗くて辺鄙な場所に、人がいるはずがない。ましてや、この状況で無関係だとは考えにくかった。
少女の視線が一瞬、亡骸へと向けられる。そして、すぐにルルへと戻った。
「外傷なし。表情は安らか。抵抗の痕もない」
まるで現場を分析するように、少女は淡々と告げた。
「だから、普通の犯人じゃない。そう思ってるでしょ?」
自分が考えていたことを言い当てられ、ルルの眉がわずかに動いた。
「……あんた、何者?」
「ただの旅人、かな」
少女は苦笑いを浮かべた。
ルルは疑わしげに少女を上から下まで眺める。本当に旅人なのだろうか。そう疑いたくなるほど、少女は若く見えた。それに、犯人だったとしてもおかしくない状況なのに、逃げも隠れもしない。その態度が、かえって怪しさを増していた。
それでも、ルルの意識は少女だけに向いているわけではなかった。
少女の背後に広がる暗闇。荒れた地面。何度見回しても、犯人につながる手掛かりは見つからない。
何か見落としているのではないか。まだ、どこかに痕跡が残されているのではないか。
そう考えずにはいられなかった。
「でも、疑うのは正しい判断だと思うよ」
「……は?」
予想外の言葉に、ルルは思わず拍子抜けした。自分への疑いを晴らそうとするでもなく、少女はただ事実を述べるような口調だった。
「この状況なら、私が一番怪しいから」
少女はそう言い切った。
「だから、警戒は解かなくていい」
そう言って、少女は一歩だけ距離を取る。
「ひとつ、いい?」
ルルは少女を睨んだまま、無言で続きを促した。
「この事件の犯人は、人間じゃない」
少女の表情には、この事件について何かを知っているような含みがあった。
「“悪魔”」
真っ直ぐに向けられた視線を受け、ルルはその言葉を思い出す。
──悪魔。
そういえば、【教団】と呼ばれる悪魔退治を専門とする機関が存在する、という話を聞いたことがある。警察では追えないような事件を解決しているらしい。
だが、それが本当に実在するのか、ルルには確信が持てなかった。上司が冗談交じりに話すものだから、どうにも信じきれずにいたのだ。
そもそも、ルル自身、悪魔などという幻想的な存在を現実のものとして受け入れられずにいた。
けれど、上司が口にしていた言葉が頭をよぎる。
──悪魔は、人に化ける。
「あんたが悪魔じゃないって証明はないわ」
「うん。だから、信じなくてもいいよ」
あまりに飄々とした返答に、ルルは眉をひそめた。
「……ずいぶん余裕ね。人が死んでるのよ」
「そうだね」
少女は再び亡骸へと視線を落とした。
「でも、あなたはこの子を助けられなかったことより、犯人を捕まえることを気にしているように見えるけど」
その言葉に、ルルの表情がわずかに強張った。
「……何が言いたいの?」
「何か理由があるのかなって」
少女は、まるでルルの内に秘められたものを覗き込むかのように見つめていた。
その視線から逃れるように、ルルは顔をしかめて目を逸らす。
図星だった。
目の前で一人の少女が死んでいる。それなのに、ルルの頭に浮かぶのは犯人のことばかりだった。
犯人を捕まえなければ。二度と、こんなことが起こらないように。けれど、それだけなのだろうか。
胸の奥に押し込めていた感情が、わずかに揺れる。
この怒りを誰に向けているのか。
そんなことは、とっくに分かっていた。
分かっているのに、目を逸らすたび、後悔したくなるほど鮮明に、あの日の記憶が脳裏をよぎる。
「……誰かを救えなかったことがあるの?」
不意に、少女が尋ねた。ルルは答えなかった。
「あなたのその顔、犯人を見つければ終わるようには見えないよ」
静かな声だった。
その言葉に、ルルは拳銃を握る手に力を込める。
この少女に話したところで、何も変わらない。何も変えられない。
そう思っていた。
それでも、目の前の少女は自分の過去を見透かしているようだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、その静寂を破るように風が吹き抜ける。
「……姉がいたの」
自分でも、なぜそんなことを話そうとしたのか分からなかった。ただ、胸の奥に押し込めていたものを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「昔、姉と一緒に暮らしてたの」
誰にも話したことのない、過去の話だった。
□□□
私たちは平民だった。
貧しい生活を、家族で送っていた。
ある時、両親が相次いで亡くなり、私たち姉妹は二人きりになった。
別に、それが悲しかったわけでも、辛かったわけでもない。私にとってはそれが当たり前だった。この寂れた荒地に住み続けるのなら、これからも変わらない日々が続いていくものだと思っていた。
そんなある日、姉に「会わせたい人がいる」と言われた。
嫌な予感ほど、よく的中する。
姉は幸せそうな顔をしながら、一人の男を紹介した。
「この人と結婚するの」
そう言って姉が紹介したのは、この場所には不釣り合いなほど身なりの整った男だった。
誰が見ても貴族だと分かるような男。
なぜ、こんな人が私たちのような平民と結婚するのか。
怪しいことなど、百も承知だった。
それでも、姉の幸せそうな顔を見ると、私だけが置いていかれるような気がした。
寂しさを認めたくなくて、私はその感情を怒りに変えた。
「勝手すぎる。そんなにこの暮らしに不満だったわけ?」
一度溢れ出した言葉は、止められなかった。
「結婚ですって? この人と? ありえないわ。お貴族様が私たち平民を相手にするなんて」
次々と飛び出す失礼な言葉に、姉が声を荒らげた。
「ルル! 失礼よ!」
「まあまあ、仕方ないよ」
男は姉を宥めた。その態度が、無性に腹立たしかった。
「姉さんなんて、どっかに行ってしまえばいいのよ!!!」
そう言い捨てて、私は家を飛び出した。
どれくらい走ったのか分からない。気づけば、空はすっかり暗くなっていた。
姉は心配しているだろうか。
そんなことを考える自分に嫌気が差した。
自分から出ていったのだから、心配されるわけがない。姉と一緒にいる資格なんてない。
そう思った。
あの日、姉と別れてから、私は自警団に入った。
この荒地で、警察のような役割を担う組織だ。事件の調査や治安の維持を行い、住民たちの安全を守っている。
それから数か月が経った、ある日のことだった。
その頃、荒地ではある事件の噂でもちきりだった。
どうやら、眠るように息絶えた人々が、あちこちで見つかっているらしい。
「おい! 近くに、あの事件の被害者が見つかったぞ!」
同僚の声を聞き、私も現場へ向かった。
すでに多くの村人たちが集まっている。その人だかりをかき分け、私は声を上げた。
「自警団です! 道を開けてください!」
ようやく人だかりを抜け、現場へとたどり着く。
そこには、忘れるはずもない姿があった。
「……姉さん?」
横たわっていたのは、姉の亡骸だった。
噂通り、まるで眠っているかのような穏やかな顔をしていた。
そんなはずがない。姉さんが、死ぬなんてありえない。
そう自分に言い聞かせても、目の前の現実は変わらなかった。
姉は、息をしていなかった。
何度呼びかけても、返事はない。肩に触れても、目を開けてはくれなかった。
それから私は、姉の死の真相を突き止めようと事件を追い始めた。
しかし、証拠は見つからず、被害者ばかりが増えていく。毎日調べ続けても、何の手掛かりも得られなかった。
そんなある日、私は姉と過ごした家に帰った。
扉を開けた瞬間、異変に気づいた。部屋の中はひどく荒らされていた。
私はその場に立ち尽くした。
姉との思い出が詰まった場所まで、穢されてしまったような気がした。もう、それ以上そこにいることはできなかった。
私は家を飛び出した。
気がつけば、頬を大粒の涙が伝っていた。もう、どうすればいいのかも分からない。
大切な人は、もう戻ってこない。
分かっている。そんなことは、分かっているのに。それでも、現実から逃げたくなる。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて、途方に暮れながら帰路につくと、前から歩いてくる見覚えのある男に気づいた。
身なりの整った男だった。
その隣には、幸せそうに微笑む綺麗な女性がいる。そう、かつて姉が結婚相手として紹介してきた男だった。
「……あんた、姉さんと結婚したんじゃないの?」
突然声をかけられた男は、怪訝そうな顔でこちらを見た。
「平民風情が! 俺にそんな口を聞くつもりか!?」
男は私を怒鳴りつけた。
その言葉に、私は思わず拳を握った。姉さんと一緒にいた頃は、あんなにも優しそうな顔をしていたくせに。
「……姉さんは、死んだのよ」
「知るか。もう関係のない女だ」
男は吐き捨てるように言った。その態度に、ひとつの疑念が頭をよぎる。
姉さんは、この男に騙されていたんじゃないか。
身分の差を越えて結ばれるなんて、やはりただの幻想に過ぎない。私たちにとっては本気でも、こいつにとってはただの遊びなのだろう。
胸がぎゅっと締め付けられた。
「所詮、ただの遊びだったわけね」
ぽつりと呟いた言葉も、どうやら男の耳に届いたらしい。男は怒りを露わにした。
「このっ! 平民がっ!!!」
そう怒鳴り、男は拳を振り上げた。
私は男を睨みつけた。
こいつが、姉さんの死に関わっているのだろうか。まだ何も分からない。
こいつが犯人だという証拠もないのだから。
□□□
「それで、事件を追ってるんだね」
不意に声をかけられ、ルルは我に返った。
初対面の相手に、何を話しているのだろう。そう思うと、急に恥ずかしくなった。
しかし、恥ずかしさに気を取られている場合ではない。
事件現場に現れたこの少女を、何も聞かずに帰すわけにはいかなかった。彼女が事件と無関係だという保証はないのだから。
「とりあえず、一緒に来なさい」
少女は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに小さく頷いた。
「分かった」
抵抗しない。その素直さが、かえって不気味だった。
ルルは警戒を解かないまま、拳銃をしまい、顎で先を示した。
「変なことしたら撃つわよ」
「しないよ」
即答だった。
「むしろ、そのつもりならもうしてる」
少女は軽く肩をすくめる。
その言葉に嘘は感じられない。だからこそ、判断に迷いが生まれる。
「……ルル・ユースティア。自警団よ。あんたは?」
ルルは少女を見つめ、返答を待った。
「クロス・カルディア」
それだけだった。余計な肩書きも、説明もない。
「……それだけ?」
「それだけ」
あっさりと言い切る。
「十分でしょ?」
クロスは少しだけ笑った。その態度に、ルルは小さく息を吐く。
「……変なやつ」
「よく言われる」
軽い返事だった。ルルは視線を外し、先に歩き出す。クロスも静かにその後をついてきた。




