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第16章

『ごめんよ、ローラ。僕は君との約束を守れなかった』

 あたりの空気は薄青く、灰色で、とても冷たかった。微かに霧がかかって、トミーの存在も、その世界では極めて希薄な残留思念のようなものに過ぎないようだった。ローラは涙色の紗の服を着て、彼の見慣れた繋ぎの作業服姿を後ろから追っていった。

『待って、いかないで!わたしも連れていって!』

 ローラは悲しみに裂けた胸でそう叫んだが、トミーは寂しげな微笑を浮かべたまま、霧そのものと同化したように、どこかへ消えてしまった。ローラはうろたえながらあたりを見回した。ここはどこなのだろう?夢の中で寒い、と気温を感じるのは初めてだとローラは思った。そして、

(……夢?)

 と自分の意識が気づいた時に、遥か上空へと、何者かの力強い意志によって、引き上げられていくのを感じた。


「気がついたかい、ローラ?」

 そこは、以前エリザベス伯母さんが使っていた寝室だった。天蓋のついた、ローラが昔から憧れていたベッド。だが実際にエリザベス伯母が亡くなってしまうと、ローラはそこで一度でいいから眠ってみたいという十四歳頃からの願いを、叶えたいようには思わなかった。

「おばさん、わたし……夢を見たわ。トミーが最後に、きっとお別れの挨拶にきたのね」

 ローラのその言葉を聞くと、ジョスリンはわっと泣きだし、彼女の結婚指輪のはまった手を、ぎゅっと握りしめた。妊娠のため、体のほうは太ってきていたものの、指のほうは今、するりと指輪が簡単に抜けてしまうくらい、ほっそり痩せていたのだ。

「トミーに赤ちゃんのこと、知らせるべきだったのかしら……」

 その時、ローラの意識はまだ朦朧としており、(赤ちゃん)と自分で口にしてから、はっと自分の八時間近くにも及ぶ苦しみのことを思いだし、はっきり意識が現実と結びつくのを感じた。

「ジョスリンおばさん、赤ちゃんは……」

 ローラが首をまわしてジョスリンのほうを見ると、ジョスリンはまるですべて何もかも自分が悪いのだというような顔つきで、何度も首を振った。

「そう。駄目だったの……」

 そうだ、赤ん坊は生まれたものの、なかなか泣きださなかったのだ。ローランド医師が呼吸をしていない、死産だと言っていたような気がする……ローラは朧ろげな記憶を辿り、そして静かに泣きだした。

(こんなにひどいことってあるかしら?もうわたしには何も残されていないのだわ。トミーが……自分の夫が必ず帰ってくるという希望も、トミーに似た目鼻立ちの男の子が生まれるかもしれないという待つ楽しみも……)

 ローラにとっては、今となっては産褥の苦しみや体の衰弱といったことは大したことではなく、これまで苦しんだ苦しみや、悩みや不安で眠れなかった夜といったものが正当に報われなかったように思えること――それが何よりつらかった。トミーが戦地に赴いて以来、一体自分はどのくらい必死になって、神に祈ったことだろう?赤十字看護師団に寄付金を送るバザーのために、時間さえあれば縫い物をし、編み物をして、これこそが神の御心に叶うことと信じていたのに……ローラの神に対する信仰はこの日以来難破し、ローラの精神状態は十歳から十四歳にかけてサナトリウムに入っていた頃にいきつ戻りつした。

(そうだ。あの頃も自分はよく思ったものだった。父と母が結核に倒れ、自分だけが助かって療養所に隔離された……その運命の理不尽さに耐えるには、わたしの精神はまだあまりにも幼すぎた。でもやがて、そんなわたしの寂しい心を親友のジュディスが支えてくれたのだ。ジュディス=メレディス!ああ、あなたのように強い信仰心が今わたしにあったなら!でも……わからないの。本当にわからない。どうしてわたしの大切な人はみんな死んでしまうのかしら?お父さんもお母さんも、ジュディスもエリザベス伯母さんも……トミーも、お腹の中の赤ちゃんも……)

「ローラ、ローランド先生は今は精神的にも肉体的にも、休養が必要な時期だから、ゆっくり静養するようにって言ってたよ。ミッチェル家のほうでもサラが産気づいたらしくてね、ボブが先生を呼びにきたので、先生は看護婦にあんたのことを任せると、すぐにいってしまったのだよ。ああ、ローラ……」

 ジョスリンは羽布団の縁で涙をぬぐうローラのことが不憫でならなかった。今のローラはまるで、十四歳の頃にロチェスターへやってきたばかりの時と同じ顔色をしていた。青白くて、不健康に痩せていて、死の縁をのぞいた者だけが見せる、灰色の暗い眼差しをし

ている……

「家のことは心配しないでいいからね」ジョスリンはローラの額の前髪を、優しく撫でながら言った。「しばらくの間は、わたしがエドとフレディの食事の用意を世話するつもりでいるからね。ローラは何も考えないで、ただ自分の体を労わることだけを考えるんだよ。いいね?」

 ジョスリンが部屋をでていき、看護婦と廊下で何かを話す声が聞こえたが、ローラはただ黙って静かに泣き続けた。そして廊下からふたつの足音が遠ざかっていくと、声を押し殺すことをやめて、大きな声ですすり泣いた。

(こんなことってないわ!ミッチェルさんの家にはもう、三人も元気な子供がいるじゃないの!あたしだってきっと、トミーがそばにいてくれさえしたら、元気な赤ん坊を生んだに違いないのに……)

 ローラは突然、自分が呪われているように感じた。それは魔女エメリンの呪いをさらに超越した、運命の魔の手による呪いである。ローラにはもう、生きていく支えが何もなかった。エドおじもフレディおじももう年だし、いずれは自分を残して死んでいくだろう。そして自分はこのローズ屋敷でいつまでもひとりぼっちで、老いさらばえていくのだ。

(トミー!あなたが恋しいわ、とっても……どうしてあの時夢の中で、わたしを連れていってくれなかったの?ひどいわ、こんな寒くて冷たい、ひどい世界にわたしをひとり残していくなんて……)

 部屋は暖房がきいて、羽布団もシーツも枕もおろしたてで、とても心地好かったが、ローラは死にたかった。ジョスリン特製のスープですら喉をとおらなかったし、産後の衰弱からはその後なかなか回復しなかった。あれだけ大きかったお腹はすぐにぺしゃんこになり、ローラは自分の体型がすぐ元に戻っても少しも嬉しくなく、毎晩夢ではうなされた。

 それは残忍なユーディンの兵士が、シオンの妊婦を銃剣で突き刺し、お腹の子供ごと殺すという夢だった。ローラは自分が何故そんな夢を見るのかまるで理解できず、またそのようなことが彼の地では実際に行われているのだから、喪失の悲しみに嘆いてばかりもいられないといくら自分を励まそうとしてみても――体には力が入らず、また精神的にも無気力で、何をする気にもなれなかった。

 エドおじもフレディおじもジョスリンもジョサイアも、ローラが春になっても衰弱しきった状態から回復しないのを見ると、いよいよ心配になった。ローランド医師は精神的なものが原因なのだからどうすることもできないと言い、このままの状態が続くようなら、ロカルノンのボールドウィン精神医学研究所へ連れていきたまえと言った。メアリの夫の精神科医、ロジャー・ボールドウィン博士の研究所である。

「あんな男の気違い研究所なんて、わたしは絶対認めませんよ!ええ、断固としてね!あんなところにローラを連れていくだなんてとんでもない!ローラのことはわたしが直してみせますとも!あんなインチキくさい男の手を借りなくてもね!」

 廊下でジョスリンがそう息巻いているのを聞いて、ローラはうっすら微笑した。ローラも結婚式で少しだけ話したことがあるだけだったが、ボールドウィン博士というのはかなり奇天烈な人物のようだった。メアリが結婚する時にも、博士とジョスリンの間には一波乱あったのだとか。

「そうね、わたしも元気をださなくちゃ」と、ローラはまるで無責任に誰かを励ますように、自分に言い聞かせた。「つらいのはわたしだけじゃないのだもの――ジョスリンおばさんもジョサイアおじさんも、トミーが亡くなってどんなにつらかったか……ああ、もう春なのね。トミーがわたしにプロポーズしてくれたのも春だったわ――今は何を見ても、トミーのことを思いだしてしまうけど……これ以上思い出と自己憐憫に浸って、家族に迷惑をかけ続けるのはいけないわ」

 そしてローラは庭に春の先触れを知らせる福寿草の黄色い花を窓から見つけると、自分の心にかつての自然との愛――ルベドとの強い絆が突然にして甦ってくるのを感じた。ローラは窓を開けると、春のまだうっすら冷たい風とともに、甦りの精を室内に導きいれた。

 トミーが出征前に塗り直した、白い板塀に、駒鳥が仲良く二羽、とまっているのが見える。

「ああ、トミー。わたしにとって世界はあまりにも変わってしまったわ」

 吐く白い息とともに、ローラは誰にともなく呟いた。

「昔は朝ローズ邸で目覚めるたびに、こう思ったものだったのに――世界はなんて美しく素晴らしいのだろうって。日々世界は新しく生まれ変わり、似たように日はあっても同じ日は決してないのだと……まさかいつか、今みたいな気持ちで窓を開ける日がやってくるだなんてね……時がすべてを癒すとは、今のわたしにはとてもそんなふうには思えないけど……それでも、生きていかなくちゃいけないのだわ――どうかトミー、弱いわたしに力を貸してちょうだい」




 永遠のローラ、第一部 完/第二部へ続く






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◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
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