無職の三十路男、神隠しにあう
湿った地面とさくりと音をたてる草の感触。周囲に立ち込める湿気と土の匂いに、俺はふと足を止めた。アスファルトの舗装路を歩いていたはずだったのに、一体ここはどこなのだろう。
地方都市の端っこで営んでいた小さな店が潰れ、結婚まで考えていた彼女にもフラれ、三十になったばかりの今後の人生に途方に暮れながら道をぼんやりと歩いていたら、気づけば見知らぬ場所に出ていた。
周囲は鬱蒼とした山の中。慌てて戻ろうとしたが道はどこにもなく、誰もおらず、虫の音ばかりが響き渡る。
絶望のなかで、とりあえず誰かに連絡をと、荷物を探ろうとして、それすらどこかに失くしていることに気づいてしまった。
とにかく、民家か何かを探さなければと、原生林を彷彿とさせるような山中を歩き続け、最初に遭遇したのは、着物を着た、犬のような耳を頭につけた小さな女の子だった。周囲に大人の姿はない。
(き、きっと、どこかで祭りでもあったんだ。耳はカチューシャ、耳はカチューシャ)
気味が悪いと思いながらも、手掛かりも何もない状況に耐えられず、野垂れ死にの恐怖から、俺はその子どもに声をかけた。
「き、君、どこから来たの? 俺、道に迷っちゃったんだけど、誰か大人の人がいるところに案内してもらえないかな?」
頭の上を気にしながら話しかけると、カチューシャのはずの耳がピクリと動き、全身にゾゾゾっと鳥肌が立った。
努めて耳を見ないようにしながら少女の顔に目を向けると、少女はすうっと腕を上げて何処かを指さす。
「村、あっち。一緒に行く?」
「……えぇっと……」
一緒に行って良いものか。この不気味な山中で、動く耳を持つ少女についていって、妙なことに巻き込まれたりしないだろうか。
(例えば、童話に出てくる人食い妖怪とか……)
けれど、ここで置き去りにされたら、またあてもなく彷徨い歩くことになる。水も食べ物もないこの場所で。
泣きたくなりながら少女を見ると、キョトンとした顔で首を傾げた。
「来ないなら、私、帰る。遅くなったら、怒られちゃう」
少女はそう言い放つと、クルリと背を向けた。
不意に背後で、『ギャーッ!ギャーッ!』という獣か鳥かもわからない鳴き声が響いて、ビクッと肩が跳ねた。
(このままここに居たら、別の何かに喰われるんじゃ……)
背筋に冷たいものが滑り落ちる。
「ま、待った! 俺も行く! 待ってくれ!」
慌てて声を裏返しながら、俺は少女の後を情けなく追いかけた。
草間に隠れた獣道を辿りつつ、ピクリ、クルリと自在に動く少女の耳に背筋を震わせながら進むことしばらく。
着いた先にあったのは、ボロい木造りの小屋が並ぶ小さな集落。歴史の教科書で見る農村のような光景。さらにそこに、少女と同じく頭に耳を生やした大人や子どもたちの姿。
「おっとう! ただいま!」
少女は、そのうちの特にガタイの大きな一人に駆け寄った。
「めぐ、その後ろのは?」
警戒心たっぷりの鋭い視線がこちらに向く。
犬か狼か、はたまた狐か。いずれにせよ、全部肉食動物じゃなかっただろうか……
今更ながら、少女について来たことを後悔する。
「わかんない。道に迷ったって言ってたから、連れてきた」
「村の外で、わけのわからん奴に関わるなと言っているだろう」
「でも、困ってるって」
めぐと呼ばれた少女は、シュンと肩を落とす。父親らしき男は、その頭を優しくポンと叩くと、こちらへ寄ってくる。
ジリっと自分の足が後ろに下がった。
「妙な格好をしているが、おたくは、何処から?」
「そ……それが……」
そう言いつつ、やっぱり頭の上の耳に意識が向く。少女と同じく動くのだ。本当に頭に生えているのだろう。
「……ええと……〇〇市の✕✕川付近を歩いてたら……その……気づいたら山の中で……」
「聞いたことがない土地だな。種族は?」
男は怪しげにこちらを見て首を傾げる。
「しゅ、しゅぞく……?」
「それだけ上手く人の姿になるんだ。狐か、狸か、狢か?」
思わず、ぽかんと口が開いた。まさか、人間じゃない何かと勘違いされるとは。ここで、人間だと答えて良いのだろうか。素直に答えて喰われたりしないだろうか。
「おい、どうなんだ?」
男の低く脅すような声音にドキッと心臓が大きく鳴り、思わず、
「に、人間です!」
と答えてしまった。
「人間だぁ〜?」
じろじろと探るような目。うっと息を呑んで視線から逃れるように身をよじると、男はチッと舌打ちをした。
「おい、めぐ! 村長のとこ行って、京から兵士を呼んでもらえ」
「はーい」
思わぬ単語に、俺はぎょっと目を見開く。
「へ、兵士……!?」
「お前、人間なんだろう? 人間を見つけたら、軍に連絡しろって決まりなんだよ。京のお偉いさんの御触れでな」
「お、俺、何もしてません! 本当に、ただ、道に迷っただけなんです!!」
慌てて声を張り上げる。こんなわけの分からない場所で、兵士だなんて物騒な奴らに引き渡されたら、何をされるかもわからない。
「帰り道さえ教えてくれたら、迷惑かけないように、自分で帰りますから!」
「人界への帰り方なんぞ、俺らが知るわけないだろう。いいから大人しくしてろ」
男はそう言うと、無造作に俺の腕を掴んだ。しかも、腕が折れるのではと思うくらいに強い力で。
「ちょ、離してください! だ、誰か!」
しかし、周囲の者たちは、胡散臭い目でこちらを見るだけで誰も動こうとしない。
「誰かぁ! 助けて!!」
「煩い! さっさとこっちへ来い!」
「い、嫌だぁ〜!! 家に帰してくれよ〜!!」
グイッと引かれズルズルと見知らぬ村の真ん中を引きずられながら、俺は大人げもなく泣き喚いた。
連れて行かれたのは、村に立ち並ぶ木の小屋の一つ。土間に竈門に囲炉裏。いったい、何百年前だと思うような家の中。
めぐの父親に見張られながら、部屋の隅で膝を抱え震えて過ごすこと、数時間。いや、正確な時間は分からない。それぐらい経ったような気がする、というだけだ。
外から複数の男の声が聞こえると思ったら、ガラリと木戸が勢いよく開いて、俺は文字通り飛び上がった。
そこに居たのは、これまた、歴史の授業でしか見ないような武具に身を包んだ男が三人。
「あれが、人間か?」
兵士の一人が言うと、めぐの父親が頷いた。
「本人はそう言っています」
その言葉に、三人の目が検分するようにこちらに向く。
「最近、迷い入ってくる人間が多くないか?」
「結界が開きやすくなっているようだ。人界の守り手様方も、手を焼いているとか。まあ、鬼界じゃないだけマシだろう」
「主上は今、京にいらっしゃるらしいが、そうそう簡単に動けんからなぁ〜」
兵士たちはぼやきながら会話をしているが、聞いたこともない単語が交じり、意味がよくわからない。
「ひとまず、関所に連れて行って手続きを進めるか」
そう言いつつ兵士が揃ってこちらに歩み寄ってきて、俺は壁に背をピタリとつけながら身を竦めた。
すると、兵士の一人が思い出したように声を上げる。
「ああ、そうだ。お前、料理を作れるか? 雉里の御当主様から、直々の御命令があってな。人界の料理を作れる者がいれば連れてこいと」
「き、きじ……?」
「幻妖宮の最上位に君臨する四貴族家の一つだ」
よくわからないが、この世界には城があって貴族というものがいるらしい。
「うまくすれば庇護をうけられるかもなぁ。四貴族家との繋がりなど、望んでも得られるものではない。何とも羨ましい話だ」
屈強な兵士が羨ましがるほどの権力者。もしかしたら、頼み込めば家に帰してもらえるかもしれない。
そのうち殺されるのではと怯えていた俺は、咄嗟にその言葉に飛びついた。
「で、出来ます!! 俺、料理人なんです!」
身を乗り出すように声を上げたことを後悔することになろうとは、その時には思いもしなかった。




