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第3話 繋ぎとめる希望

 彼女の姿は、もうどこにもなかった。

 すでに会場を後にしたのだろう。


 全身の力が抜けたように、奥まった場所のソファへと再び腰を下ろす。

 そして、ざわめきの余韻がまだ色濃く残る舞踏会場を、ぼんやりと見渡した。

 

 人々の声や笑いは確かに耳に届いている。

 それでも、意識だけがこの場から切り離されたように、どこか遠くへと漂っていた。


 堪えきれず、私は深く息を吐き出した。


 ――前回の人生では、このあと私はどう行動したのだったか。

 

 前の私は――彼女のことも気にせず、上機嫌な兄上を冷ややかに眺めながら自室へと引き上げた。


 国外へ出ている父上に、いったい何と報告すべきか。

 考えるだけで胃の奥が重くなる。

 そんな答えの出ない問いに頭を悩ませた。


 婚約破棄に至った理由を兄上に尋ねたが――返ってきたのは、こんな言葉だった。


「リュミエール侯爵令嬢が、アデリーヌ伯爵令嬢に意地悪をしたんだぞ」

「ドレスを破られたと言っていた」

「成績を理由に、見下されたともな」


 他にも取るに足らないほど些細で、しかも確たる証拠のない曖昧な話ばかりだった。

 だが、兄上にとっては、それで十分だった。

 だからこそ彼女に対し、魔物が跋扈する緩衝地帯への追放という、あまりにも苛烈な処分を、何の躊躇もなく言い放ったのだ。


 兄上の言葉の前には、私の声など、風に消える囁きにも等しい。

 

 それを理解していたからこそ、あの侯爵令嬢を気の毒に思いながらも、私は兄上の意向に従い、淡々と処理を進めていった。


 それに、これほど理不尽な内容であれば、彼女の実家である侯爵家が黙っているはずもないと思っていた。

 さすがに正式な抗議を受ければ、兄上とて、ここまで無体な仕打ちを押し通すことはできまい。


 そう踏んで、私は兄上の提案どおりに書類を整え、侯爵家へと足を運んだのだが――。

 結果は、あまりにも呆気なかった。


 簡単に、受理されてしまったのだ。


 信じられなかった。

 自分の娘が冤罪で罪人に仕立て上げられ、魔物との緩衝地帯という僻地へ追放されるというのに。


 だが、どれほど疑問を抱こうとも、書類はすでに揃ってしまっていた。

 反対の声は、どこからも上がらない。

 実の親でさえ、賛意を示しているのだ。


 もう、私にできることはなかった。


 侯爵家の門を出て、馬車に揺られながら、胸を満たすどうしようもない無力感に耐えつつ、書類に記された“罪人”の名を、ただ目でなぞる。


 そこに記されていた名前――リュミエール・ノクタリア侯爵令嬢。

 脳裏で何度もその名を繰り返し、王城で出会った数少ない彼女の姿を思い返す。


 端正な顔立ちで、必要以上の言葉を持たない、美しい女性。


 私と彼女が言葉を交わした回数は、決して多くない。

 というよりも、兄上が彼女の王宮への出入りを嫌っていたため、顔を合わせること自体が稀だった。

 親同士の取り決めによって婚約が結ばれただけの相手だ。

 情のようなものが芽生える余地は、もとよりなかったのだろう。

 

 そこへ現れたのが、アデリーヌ伯爵令嬢――彼女とは正反対の、愛らしさを前面に押し出した女性だった。

 常に兄上を褒め、甘え、称え、喜ばせる言葉を惜しみなく注ぐアデリーヌに、兄上があっさりと心を掴まれたであろうことは、想像に難くない。


 兄上の性格を思えば、会話が弾まず、称賛もなく、自分を讃えもしないリュミエール侯爵令嬢は、鬱屈した感情を溜め込むだけの存在だったに違いない。


 その理屈は理解できる。

 理解できてしまうからこそ、胸の奥に不快な澱が滲んだ。

 もし、感情の捌け口として彼女が選ばれたのだとしたら――それは、あまりにも身勝手だ。


 彼女が、何をしたというのだ。

 家柄ゆえに婚約者に選ばれ、妃教育を受け、兄上の側にいただけではないか。

 冤罪で、これほどの仕打ちを受ける理由など、どこにもないはずだ。


 膨れ上がったやり場のない怒りを、私は大きなため息とともに、どうにか胸の外へ押し出した。


 そう思いながらも、結局、私は彼女に手を差し伸べなかった。

 

 あの追放の日も――。

 

 ただ、このまま別れるのは後味が悪いという、それだけの理由で、王都を出る城門まで、彼女の馬車を見送ったにすぎない。


 ふと覗いた馬車の窓越しに見えた彼女は、悲観する様子も取り乱した気配もなく、ただまっすぐに前を向いていた。

 いつもと変わらぬ冷静な瞳で進む先だけを見据える、その規律の取れた姿に、胸の奥がわずかに痛んだ。


 その痛み――自分の中に芽生えた罪悪感めいた不快感を、どうにか紛らわせたくて、城門を出る直前、私は声をかけた。

 

 一瞬だけ彼女の瞳が揺れた気がした。

 だが、すぐにうやうやしく頭を下げる。

 

 結局、言葉による返事は最後まで返ってこなかった。


 そして、誰にも――家族にすら見送られることなく、彼女を乗せた馬車は静かに城門を後にしたのだ。

 


 ――――そうだ。彼女の家族だ。


 前回の人生を辿る中で、ふと頭の奥で何かが弾けるように閃いた。


 このあと私は、兄上から、彼女を冤罪に仕立て上げるための書類作成を任されるはずだ。

 前回は、侯爵とほとんど言葉を交わすこともなく、侯爵家の応接室で罪状を読み上げ、当主の承諾を得ただけだった。


 私は立ち上がり、はやる気持ちを抑え込みながら会場を後にし、自室へと足を向ける。


 あのとき、あの場に、夫人の姿はなかった。

 侯爵自身が、なぜあれほどあっさりと娘の冤罪を受け入れたのかは、今も分からない。


 だが――夫人は、どうだろうか。


 足早に自室へ戻り、兄上から命じられるであろう書類を整えるため、必要な資料をかき集める。

 だが、前回と同じにはしない。


 夫人に話したところで、無駄に終わるかもしれない。

 そんな考えが一瞬、頭をよぎる。

 それでも――やれることは、やりたかった。


 そう決めた瞬間――私は、兄上に気取られぬよう細工を施すために、ペンを強く握りしめた。


 今度こそ、彼女を引き留めるために。

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