第2話 止められなかった暴挙
「お前とは――今日この場をもって婚約破棄とする!」
高く、冷えた声が広間の天井に跳ね返る。吊り下げられたシャンデリアの光が、一瞬だけ細かく震えたように見えた。
舞踏会に集った令息や令嬢たちの間に、動揺が静かに広がっていく。
その気配が、群衆の中に立つ第二王子フェリオンの肌へ、冷たい波のように押し寄せてきた。
第一王子フロリアンに名指しで呼ばれ、不名誉な宣言を突きつけられたリュミエール・ノクタリア侯爵令嬢は、眉ひとつ動かさず、第一王子と伯爵令嬢を見据えていた。
その眼差しは鋭く、揺らぎがない。
その様子を合図にしたかのように、会場のいたるところでどよめきが広がっていく。
王太子と侯爵令嬢の婚約破棄――そのあまりにも衝撃的な内容が、人々のざわめきを一気に膨らませていった。
「王太子が、婚約者であるリュミエール侯爵令嬢に婚約破棄だと……」
「以前から、アデリーヌ伯爵令嬢と噂がありましたけど、本当だったのね」
囁きに近かった声が、次第に大きさを増し、やがてはっきりと耳に届いた。
間に合わなかった――。
そう思った瞬間、足が止まる。
駆け寄ろうとした足は、その場に縫い留められたように動かず、今にも崩れ落ちそうになる。
だが、止められなかったからこそ、頭が冷えていく。
そして、自分の置かれた状況を思い出した。
――これはどういうことだ。
さっきまで私は瀕死だったはずだ。
体中の血が流れ出て、ただ死を待つだけの身だったはずなのに。
出血していたはずの場所へ手をやる。傷も痛みもない。
衣服やマントさえ、破れても汚れてもいなかった。
私は、会場を警備する城の兵士たちの姿を凝視する。
――私だけではない。
王城にいた大半の者が、あの時確かに死んでいた。
兄上も例外ではない。
魔物の爪に引き裂かれ、絶命していた姿を、私はこの目で見たはずだ。
それなのに、人垣の隙間から見えたのは、令嬢に絶縁の言葉を放ち、上機嫌に浮かれている兄上の姿だった。
その光景に、身体がぞわりと震えた。
――兄上がいる。
兄上が生きて、確かに動いている。
信じがたい現実に、私は恐る恐る周囲を見渡す。
喉がひくつき、言葉が出てこない。
――やはりここは、兄上が婚約破棄を告げた舞踏会の会場だ。
なぜ、私はここにいる。
なぜ、時が戻っている?
自分の身に、いったい何が起こったのか理解できなかった。
震え出しそうになる手足に必死に力を込め、どうにかその場に立ち続ける。
――それに、また止められなかった。
せっかく戻ったというのに。
それなのに、また彼女を婚約破棄へ追い込むという、あの時と同じ過ちを繰り返してしまった。
このままでは、国が滅ぶかもしれないのに。
その結末を、私は知っているのに。
突然の出来事に、頭も身体も処理が追いつかず、足元がふらつく。
かろうじて視界に入った会場の隅のソファへ、よろけるように歩み寄り、そのまま崩れるように腰を下ろした。
両手で頭を抱え、混乱のまま目を閉じる。
そんな弟の様子には気づくこともなく、会場の中心にいるフロリアンが声を荒らげた。
「前々から、つまらぬほど澄ましている態度のお前が、気に入らなかったんだよ」
冷ややかな息を鼻から漏らしながら、これまで胸に溜めていた鬱憤をぶつける。
相手がショックを受けるだろうと想像しつつ、目の前にいる侯爵令嬢リュミエールを、上から見下ろすように睨みつける。
銀色の長い髪を背に流し、背筋を正して立つその令嬢の姿は、ひと目で分かるほどに洗練されていた。
鋭く澄んだ眼差しには軽薄さがなく、人を選ぶ静かな威圧感すら帯びている。
無駄のない姿勢と均整の取れた肢体は、単なる美しさにとどまらず、鍛えられた身体と理知的な頭脳の存在を感じさせる。
完璧という言葉を体現したように表情を崩さないリュミエールに、フロリアンは苦虫を噛み潰したような顔で声を荒らげた。
「無愛想だし、可愛げもないし、いつも何を考えているかわからない。その点、アデリーヌはこんなに俺を称えるし、甘えてくるし、とてつもなく可愛げがある。まぁ、お前も美人といえば美人だがな。けど、その見下したような眼は俺の好みじゃない」
一方的にまくしたてられても、リュミエールは気にも留めず、無表情のまま静かな瞳でフロリアンを見据える。
「そうですか。外見は、私ではどうにもなりませんので残念です。リュミエールも、悲しみますわ」
「自分のことを名前で言っても、お前は全然可愛くねぇんだよ」
「そうよそうよ。アデリーヌはかわいいからいいけど、あんたには似合わないわよ」
横からしゃしゃり出たアデリーヌを、リュミエールは凍てつくような瞳で一瞥する。
その視線を受け、アデリーヌは思わず息を詰まらせた。
フロリアンの背へ身を寄せながら必死に睨み返す。
「フロリアン殿下。あなたの言い分は分かりました。ですが、これはあなたの一存で決められることではありませんわ。わたくしは、婚約を破棄されるようなことは、何もしておりませんから」
リュミエールは、背筋を伸ばしたまま、微動だにせず立っていた。
その佇まいには、揺るがぬ自信と、理の通った者だけが持つ静かな凛然さがあった。
「はっ、よく言うぜ。アデリーヌを散々いじめてたくせによ」
「そうよそうよ。みんなも、アデリーヌがいじめられていた現場を見たって言ってるもの。言い逃れなんて、できないわよ」
アデリーヌの言葉に呼応するように、群衆から「そうだ」「見た」「聞いた」という声が、確証もないまま、面白がるようにリュミエールへと投げつけられていく。
その光景を、頭の回らないまま、会場の隅から私はただ見つめていた。
この日のためにフロリアンが招待状を送った令息令嬢は、例外なくすべて、兄上の影響下にある者たちだった。
兄上に命じられ、そう手配したのは、紛れもなく私だ。
ここには、彼女の味方など――最初から誰一人いなかった。
この状況を作り出したのは、紛れもなく自分自身だ。
「これからお前の顔を見なくてもいいと思うと清々するぜ」
ここには、兄上の暴挙を止められる父上もいない。
先ほどとは質の違う、冷たい汗が背中をつうっと伝った。
天に縋るように顔を上げ、瞼を閉じて、私は自分自身に問いかける。
――――私が、止めるのか?
今までも兄上は暴力を振るい、大声で場を制し、王位継承権第一位という立場を盾にして、すべてを思いのままにしてきた。
私も、そんな兄上に逆らうことで生じる軋轢が煩わしく、それを避けてきたのが現実だった。
その相手を、私の声ごときで止められるはずがない。
両手を力なく膝の上に置き、私は先ほどまでいた殺伐とした人生に思いを巡らせる。
――このままでは、私はまた死ぬかもしれない。
冷たくなっていった身体の感覚が、鮮明によみがえる。
喉の奥がきゅっと締め付けられ、背中には嫌な汗がにじんだ。
二度と味わいたくないはずの恐怖が、容赦なく私を追い立てる。
――ならば、私だけ逃げてしまうのは?
一瞬、その考えが甘い光のように胸を満たした。
だが、すぐに現実がその熱を奪っていく。
城には母上がいる。
長年仕えてくれた忠実な侍従や、誠実なメイドたちがいる。
城の外には、顔も知らぬ無数の民が、今日も変わらぬ日常を生きている。
仮にも王子である私が――守るべき者を残して、背を向けていいはずがない。
私にも、それくらいの矜持はある。
それでも、私は兄上には逆らえない。
力ずくで止める道は、最初から閉ざされている。
群衆の向こうで、兄上の高笑いが響き渡る。
その声を聞いた瞬間、死の間際に浮かんだ一つの思考が鋭く胸を貫いた。
――前の人生では、リュミエール侯爵令嬢がいなくなった後、王都は魔物に襲撃された。
それは――追放と無関係とは思えない。
確証はない。
だが――それでもいい。
彼女を失った先にある未来を、私は知っている。
ならば、賭けるしかない。
もう一度だけ。
今度こそ、自分の意思で。
私はソファから、勢いよく立ち上がった。
人混みをかき分け、彼女のいたはずの場所へと駆ける。
だが――いない。
会場のどこを見渡しても彼女の姿はなかった。
そこにいるのは、勝ち誇る兄上とアデリーヌ、そして彼らに媚びへつらう貴族たちだけ。
焦りが、冷たい汗となって額を伝う。
そこには、誰も彼女を気にかける者などいなかった。
――私を、含めて。
その事実が、胸の奥を鈍く締め付けた。




