消える遺体
見難い火傷の子679
消える遺体
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
山裾を削る音は、雨の気配とよく似ていた。
乾いた岩盤に鑿が入り、土が崩れ、湿った根が引きちぎられる。
そのたびに、工区の空気は少しずつ濁っていった。
新設されたばかりの玄州境界案件対策ギルドには、まだ看板らしい看板もなく、
仮の詰所に積まれた帳面と測量杭のあいだを、人もオートマタもせわしなく行き来している。
帝国執政官である張良は、株式国家玄州では臨時の執政官役も兼ねていた。
だが今この場では、肩書きより先に泥と報告書が積み上がる。
本来ならこうした切り分けは白珠の役目だったが、
彼女は北側宿舎で発熱者の様子を見ており、まだ詰所へ戻っていなかった。
張良は、泥のついた地図板を机に叩きつけるように置いた。
「第七切通しでまた崩れた。
今度は足場だけじゃない。
人足が二人、熱で倒れてる。
ひとりはさっきまで歩いていたはずなのに、急に水を吐いたそうだ」
報告に来た若い書記は、濡れた袖を押さえながら言いよどんだ。
「それと……安置していた遺体が、ひとつ」
「なくなったのか」
「はい」
詰所の隅で、記録用の筆記補助機が一瞬だけ筆を止めた。
からくりの指が紙面に触れたまま静止し、次の言葉を待っているように見える。
張良は舌打ちを呑み込み、壁際に立つ実務機へ目をやった。
玄州CFOたる匠ーから回されてきた刑事パッチ入りオートマタたちだ。
鉄皮の関節は細身で、戦うためというより、
運び、測り、見張り、書き留めるために組まれている。
見映えのする代物ではないが、初日から休みなく動いていた。
そのさらに向こう、開け放たれた出入口の近くに、旅装のまま立つ二人がいる。
カナタとレイラ――そう紹介された。
海底都市アプスーから来た、という以外、張良の手元にある情報は驚くほど少ない。
匠ーの書きつけにはただ、
「使える。層越えに慣れている。現場で邪魔はしない」とあっただけだ。
乱暴にもほどがある。
張良は今でも、あの文面を思い出すと眉間が痛くなった。
オートマタだけ送るという話ではなかったのか、と問い返したとき、
匠ーから返ってきたのは短い一文だけだった。
――人形だけじゃ足りない。そっちは境目に立つ仕事だ。
それで今、見知らぬ二人が詰所にいる。
歓迎する暇も、不審をあらわにする余裕もないまま、現場が先に破綻を始めていた。
レイラが帳面の上の地図に目を落とした。
「倒れた人たちは、同じ宿舎ですか」
若い書記が張良の顔色をうかがってから答える。
「いえ。ひとりは南の仮小屋、もうひとりは井戸場の近くです」
「熱の前に、咳は」
「……あったそうです」
「うわごとは?」
書記は目を瞬いた。
「なぜそれを」
レイラは肩をすくめた。
「熱が出るだけなら疲れや風土でも説明できます。うわごとが揃うなら別です」
張良はそこで初めて、女がただの見学者ではないらしいと知った。
カナタは地図板を寄せ、切通しの印と仮設井戸の位置を見比べていた。
「遺体を置いていたのはどこだ」
「北の幕舎だ。詰所から百歩ほど」
「見張りは?」
「いた。目を離したのは、薬と灯を替えるあいだだけだ」
「ひとりで?」
「……そうだ」
短い問いに答えるたび、自分の采配の脆さを指摘されている気がして、
張良はわずかに唇を噛んだ。
だがカナタの声色に責める響きはない。
ただ、事実を並べているだけだ。
そのとき、入口に駆け込んできた工夫頭が叫んだ。
「見つかりました!」
詰所の空気が一斉に張る。
「どこだ」
「第七切通しの水抜き溝です。消えた遺体が、……立っていた、と」
一瞬、誰も言葉を継げなかった。
雨が降り始めていた。
屋根板を打つ細かな音が、遠くの掘削音と混じる。
張良は机上の木札を掴み、命令を切る。
「北幕舎を封鎖。井戸を使うな。熱の出た者は分けろ。白珠に報せろ。工区は――」
「止めた方がいい」
言ったのはカナタだった。
あまりに即断で、書記も工夫頭も息を呑む。
張良は睨むように彼を見た。
「まだ事故と病の線が消えたわけじゃない」
「だからです。事故と病で説明できるうちは、人は作業を続けたがる。
遺体が消えて、別の場所に出たなら、もう現場の判断だけで押し切る段階じゃない」
詰所の隅で、監視補助用のオートマタが静かに発声した。
「記録照合。
安置時刻、午前九時十二分。
発見報告、午後二時四分。
水抜き溝までの最短搬送には成人二名を要します。
現在の泥濘条件では、運搬痕が残る可能性が高いです」
「人が運んだということか?」と工夫頭が青ざめる。
「断定不能」とオートマタは答えた。
「ただし、自律歩行であれば別種の痕跡が必要です」
その無機質な声が、かえって詰所の背筋を冷やした。
レイラが窓の外を見た。
雨脚はまだ弱い。
だが山から下りてくる水の匂いが、もう変わり始めている。
「濁りが来ます」と彼女は言った。
「井戸だけじゃない。切通しの下も」
工夫頭が顔をしかめた。
「さっきから、あんたたちは何者なんだ」
張良はその問いに答えられなかった。
自分も知らないからだ。
代わりにカナタが簡潔に言う。
「今は後でいい。遺体の発見場所まで案内してくれ」
「見学の客に歩かせる場所じゃ――」
「見学で来たつもりなら、たぶん今ここに立っていない」
その言い方には、妙な重みがあった。
張良は一拍だけ考え、それから決める。
「……俺も行く。記録機一体、監視機一体を同行。レイラ、だったな」
「はい」
「病人の宿舎を見てくれ。
白珠と合流して、うわごとがあるなら言葉を一つも漏らさず拾え。
共通するものがあればすぐ報せろ」
レイラは短くうなずいた。
「分かりました」
張良は最後に、詰所の全員へ向き直った。
「工区第七切通しは閉鎖だ。
異論はあとで聞く。
今は封鎖線を張れ。
井戸に触るな。
遺体にも触るな。
単独行動を禁ずる」
そこで一度、言葉を切った。
まだ新設の看板すら湿った板切れに過ぎないこの組織が、
最初からこんな判断を強いられるとは思っていなかった。
だが、ためらっている時間はない。
「これはもう、土木事故でも流行り病でも済まん。境界案件として扱う」
命令が走り、帳面が閉じられ、灯具が取られ、人と機体がばらけていく。
張良は外へ踏み出したところで、ふと山裾の方を見た。
雨の帳の向こう、掘りかけの切通しの上に、細い人影が立っていた。
若い。
道服めいた濡れた衣を着ている。
こちらを見ているようで、見ていない。
次の瞬間には木立にまぎれたのか、雨脚に溶けたのか、もういなかった。
背後で、監視機が淡々と告げる。
「視認対象、一。記録しました」
張良は返事をしなかった。
ただ、胸の奥でひとつだけはっきりしたことがある。
匠ーが寄越したこの二人は、たしかに厄介だ。
そしてたぶん、必要でもある。
第七切通しへ向かう泥道は、もう靴の形を残さぬほどぬかるみ始めていた。




