第二幕:報告が一本につながる
見難い火傷の子656
第二幕:報告が一本につながる
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
郭羽が動くと、詰所の空気はすぐ変わった。
香蘭が窓口へ戻って間もなく、伝令が三方へ走った。
ひとつは医務所へ、ひとつは南の解体場へ、もうひとつは駅裏の荷役小屋と宿場役の詰め所へ。
まだ「異変」と呼ぶには早い。
だが、だからこそ早く拾わねばならない段階だった。
午後の光が傾き始めるころには、最初の返しが戻ってきた。
医務所から来た若い書記は、額に汗を浮かべながら札を差し出した。
「今朝から同様の訴えが八件です」
「同様、とは?」
「腹痛、発熱、嘔吐。
加えて傷の治りが悪い者が三件。
解体場関係が二、荷役関係が三、冒険者二、宿場の使用人一」
「家族内でまとまって倒れている例は?」
「まだ薄いです。食卓を共にした全員が倒れる形ではありません」
郭羽は札を受け取り、机に広げた仮の見取り図へ印を置いていく。
南の解体場。
駅裏荷役小屋。
外苑路線沿いの宿場。
見回り班の休憩所。
点はまだ少ないが、完全に無関係とも言い切れない位置に散っていた。
「医師は何と?」
「風邪とも食あたりとも断じきれないと。
腹の症状が強い者と、傷が悪化する者が混じっていて、
ひとつの病と見てよいか迷っているそうです」
「迷うなら、迷っていると書け。それで十分だ」
「はっ」
書記が下がるのと入れ違いに、南の解体場から戻った男が戸口で靴の泥を鳴らした。
作業着のまま駆けてきたらしく、血と脂の臭いがわずかに混じっている。
「場長の言い分は?」 と郭羽が問う。
「最初は隠そうとしてました」と男は苦い顔で答えた。
「人手が減るのを嫌がってます。
ですが、ここ二日で作業者四人が熱、二人が腹を下し、一人は手の傷が化膿して動けないと」
「扱った獲物は」
「山側から入った大物が一頭。
腹を開いた時に内臓の臭いがおかしかったと、若いのがぼやいてました」
「捨てたか」
「一部は廃棄、一部は処理が甘いまま仲買へ流れた可能性があるそうです」
「可能性、か」
郭羽の声が低くなる。
「隠したな」
「……はい」
「誰が仲買へ回した」
「そこが曖昧で。帳面も、いつものより書き込みが雑です」
郭羽は短く舌打ちした。
証拠隠しまで行っているのか、単に雑なだけかはまだ分からない。
だが、少なくとも「偶然重なった不調」で片づけるには臭いが強くなっていた。
さらに駅裏の荷役小屋からも報告が来た。
荷役頭は最初こそ「疲れが出ただけ」と言い張ったが、詰めれば詰めるほど話が増えた。
二日前、南側の解体場から回ってきた樽や布包みを扱った者の中に、
腹痛と発熱を訴える者が続いていること。
桶洗い場の水が妙に濁っていたこと。
運搬獣のうち二頭が餌を食わず、腹を膨らませてうずくまっていること。
宿場役からの札には、もっと嫌な一文があった。
「同宿同食で無事の者あり。別宿別食で発症の者あり。食事のみを共通因子と断定し難し」
郭羽はその札を裏返し、また表へ返した。
食中毒なら、同じ鍋から食って倒れる数がもっと揃う。
風邪なら、解体場や荷役や傷口の悪化がこんな混ざり方はしにくい。
だが一方で、ひとつの病だと断じるには症状の並びがまだ整っていない。
窓口から呼び戻した香蘭が、夕刻前にもう一度帳面を持って詰所へ来た時、
郭羽の机の上には札が扇のように広がっていた。
「増えました」 と香蘭は言う。
「今度は何だ」
「駅西の安宿で、今朝寝込んだ荷運び人の連れが、夕方になって高熱。
別の宿では湯屋の下働きが吐いています。
あと、見回り班の一人が“傷の縁が白くふやける”と」
「……傷の縁、か」
郭羽は香蘭から帳面を受け取り、先の報告と照らした。
言葉の端々は違っても、似た描写がいくつかある。
腹の刺すような痛み。
熱。
嘔吐。
異様に治りの悪い切り傷。
獣の衰弱。
汚れた桶。
解体場から流れた荷。
「お前はどう見る」 と彼は聞いた。
香蘭は少しだけ考えてから、答えた。
「まだ一つとは言い切れません。
けれど、別々の小さな不調が、同じ路線沿いで重なりすぎています」
「路線沿い、か」
「はい。
完全に同じ場所ではありません。
でも、外苑路線に乗って動く人と荷の範囲の中で散っています」
郭羽はそこで初めて、壁に掛けられた路線図へ視線を上げた。
外苑路線は、ただの線ではない。
人が行き、荷が行き、駅ごとに受け渡され、宿場へ散り、また集まる。
その流れの上で何かが起きているのだとしたら、同じ村で一斉に倒れる必要はない。
むしろ、流れに沿って症状がにじむはずだ。
「医務所はこれを上へ回せるか」
「町内の流行り病としてなら」と香蘭は言った。
「でも、解体場や荷役とのつながりまでは、まだ向こうも掴み切れていません」
「ならこちらで束ねる」
郭羽は立ち上がった。
椅子の脚が床を短く鳴らす。
「香蘭、窓口で拾う症状を統一しろ。
熱、腹痛、吐き気、傷の悪化、それに獣の衰弱。
仕事場と立ち寄り先も必ず添えさせろ」
「はい」
「記録は時刻順じゃなく、場所ごとにも写せ」
「分かりました」
「隠そうとする者がいたら、休ませてでも名を残せ。今は数がいる」
香蘭が頷くのを見てから、郭羽は別の伝令を呼んだ。
「景国側へ上げる。張良殿のところへ、書式を整えた報告が必要だ」 伝令が目を瞬く。
「官へ、ですか」
「今のうちだ。病か、汚れか、荷の問題か、どれに転んでも遅いよりましだ」
その判断は早かった。
自分の手の内だけで何とかしようとしない。
郭羽のそういうところを、香蘭は頼もしいと思う。
夜に入る前、景国側の役所へ持ち込まれた最初の取りまとめは、思った以上にすぐ反応を呼んだ。
張良は報告を受けると、その場で数枚の札を見比べたという。
噂ではなく、どの駅で、いつ、誰が、どう倒れたか。
その粒を揃えて初めて、官は動ける。
返ってきたのは短い指示だった。
「報告書式を統一せよ。
発症地、従事業務、負傷の有無、摂食内容、水場利用、同行者の異常、獣への影響を分けて記せ」
郭羽がその札を読み上げた時、詰所にいた者たちは顔を見合わせた。
「ずいぶん細かいですね」 と香蘭が言う。
「細かいということは、向こうも普通の風邪ではないと見てる」 と郭羽は答えた。
「少なくとも、同じ物差しで見なければ何も分からんということだ」
さらに韓鋭のところからは、工区と荷の流れを照会する旨が返ってきた。
どの荷がどの駅を通ったか、どの解体物がどこへ回ったか、ここ数日の流れを洗うという。
「工事側まで動くんですか」
「線路を通る荷は、向こうの帳面にも残る。人の口より、荷札の方が嘘をつかん」
香蘭はそこで、はっとした。
自分は窓口で人から話を拾う。
郭羽は現場から人を走らせる。
だが、官側は荷と路線の記録を照らせるのだ。
点が増えるごとに、それらは人の勘だけでなく帳面の線でも結ばれていく。
その頃、別口で匠一のところにも小さな違和感が積もり始めていた。
保存食の補充依頼が一部宿場だけ妙に多い。
薬湯の干し草を余分に欲しがる駅がある。
運搬獣の餌の消費が読めない区間が出てきた。
さらにワイバーン隊が拾った噂には、
「安く流れた肉」
「腹を壊す荷役」
「南の解体場で臭いが変だった」
という言葉が混じっていた。
個々には弱い。
だが、流れを見る者には、その弱い違和感が一番始末が悪い。
まだ匠一本人が前へ出る段階ではない。
だが補給係は首を傾げ、輸送表を見た者は「どこか偏っている」と感じ始めていた。
人が倒れれば、どこかで水が増え、薬が減り、食の注文が偏る。
病そのものより先に、流れの崩れが表に出る。
その夜、郭羽の詰所には再び香蘭がいた。
帳面の写しはすでに二冊目に入っている。
「見えてきましたか」 と香蘭が問う。
郭羽は机の上の札を一本の細い木片で押さえながら、ゆっくりと言った。
「まだ“これだ”とは言えん」
「はい」
「だが、ばらばらではない」
彼の指先が、南の解体場から駅裏の荷役小屋へ、
そこから宿場、見回り、医務所へと順に札をなぞった。
「肉か、水か、傷口か……媒介は断じきれん。
だが、人と荷の流れの中で起きている」
香蘭は息を呑んだ。
「一本に……」
「つながり始めた。だから、ここから先は勘で騒ぐな。証を拾う」
彼はそう言って、張良から返ってきた書式札を机の真ん中へ置いた。
「明日から報告を全部この形に揃える。
解体、荷役、宿、医務所、見回り、全部だ。
誰がどこで何を扱い、どんな症状を出したか。
欠けがあれば埋める」
「はい」
「それと、傷の悪化を軽く見るな。腹を壊した者と同列に並べておけ」
「同じ線の上にあるかもしれないから?」
「そうだ」
香蘭は帳面を抱え直した。
朝に感じた違和感は、もう気のせいでは済まないところまで来ていた。
まだ正体は見えない。
だが、散らばっていた報告は、確かに一本の流れへ寄り始めている。
詰所の外では、夜行便の汽笛が低く鳴った。
外苑路線は止まらない。
だからこそ、流れに乗るものがあるなら、次の日にはもっと遠くへ届く。
郭羽は最後の札を重ね、短く言った。
「明日には、もっとはっきりする」 その声は予感ではなく、半ば確信に近かった。
「そして、はっきりした時には、たぶん面倒なことになっている」
香蘭は無言で頷いた。
違和感はもう、違和感では終わらない。
報告はつながり始め、見えない何かが、外苑路線の上を確かに走っていた。




