↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見難い火傷の子  作者: 清風
655/656

第一幕:違和感

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子655


第一幕:違和感


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


外苑路線の朝は、いつも通りのようでいて、どこか一つずつ噛み合っていなかった。


荷を積んだ荷車が駅舎の横を軋みながら抜け、早駆けの伝令が朝靄を裂いて馬を走らせ、

宿場の炊き出し場からは粥の湯気が上がる。

線路脇では保守員が犬釘を確かめ、売り子はまだ温かい包みを棚に並べていた。

人も物も、外苑路線に沿って流れている。

鉄道国にとって、それはもう日常の音だった。


だが、その日ばかりは、香蘭の前に運ばれてくる話が妙に落ち着かなかった。


「今日の護衛依頼、降りてもいいか」


朝一番に受付台の前へ来たのは、顔色の悪い若い冒険者だった。

肩から下げた革袋も、剣帯も整っているのに、本人だけがひどく草臥れて見える。


「怪我ですか?」

「いや……腹が、変なんだ。昨夜からずっと差し込むみたいに痛くてな。熱もある気がする」


香蘭は反射的に手元の記録板へ目を落とした。

季節の変わり目には腹を下す者もいる。

無理に出て倒れられても困るから、休ませて医務所へ回せばそれで済む。

普段なら、そういう話だ。


「食あたりの心当たりは?」

「宿で煮込みを食った。

皆も同じもん食ってたはずだが……俺だけじゃなく、荷役の連中も二、三人寝込んだらしい」


香蘭の筆先が、そこでわずかに止まった。


「荷役の人も?」

「ああ。駅裏の荷捌き場で聞いた」


男はそう言って、額を押さえた。

大げさに騒いでいるふうではない。

ただ、無理を押して来た者の顔だった。

香蘭は依頼の降板を記し、医務所行きの札を書いて渡す。


「今日は休んでください。傷や吐き気が増したら、すぐ戻って」

「悪いな」

「悪くありません。隠して倒れられる方が困ります」


男は苦く笑って去っていった。


その背を見送りながら、香蘭は小さく息をついた。

腹痛、発熱。

珍しくはない。

珍しくはないのだが――。


次に来たのは、冒険者ではなく解体場の手伝いをしている中年の男だった。

こちらは依頼ではなく、妻に引きずられて来たというふうで、

ひどく不機嫌そうに腕を組んでいる。


「だから大げさなんだ、こいつは。少し熱があるだけで」

「少しどころじゃありませんよ!」と妻が言った。

「夜通しうなされて、今朝は水まで戻したんです!」


香蘭は男の顔を見る。

日に焼けた頬に赤みが差し、目の下が妙に落ちくぼんでいた。

仕事焼けの疲れとも違う、内側から熱を持った顔色だった。


「どちらのお仕事を?」

「南の解体場だ。昨日、大物をばらしたばかりでな。人手が足りねえんだよ」


解体場。

香蘭はまた記録板に目を落とす。


「怪我は」

「ちょいと包丁が滑っただけだ。もう塞がってる」


そう言って見せられた手の甲の傷は、塞がっているというには妙に湿っていた。

赤く、縁が白くふやけ、嫌な光り方をしている。


「医務所へ行ってください」

「大げさだな」

「行ってください。今日は仕事も休みです」


男は露骨に渋ったが、妻に睨まれてしぶしぶ医務所へ向かった。

妻が何度も頭を下げて去っていく。

その背中を見ながら、香蘭はさっきの冒険者の話を思い出していた。


腹痛。

発熱。

荷役。

解体場。


別々に聞けば、どれもありふれている。

だが、今朝だけで二つ重なった。


昼前になると、駅舎はさらに騒がしくなった。

到着便に合わせて旅人がどっと入り、売り子の声が飛び、

窓口には荷札の書き換えや遅延確認が並ぶ。

香蘭は次々と応対しながら、意識のどこかで朝の二件を引っかけたままにしていた。


そこへ、見慣れた顔が片腕を押さえながらやって来た。

路線沿いの見回りを受け持っている古参の冒険者で、無茶はするが弱音は吐かない男だ。


「どうしました」

「大したことじゃねえ」


大したことではない、と言う者ほど厄介だと香蘭は知っている。


男は渋々、押さえていた腕を見せた。

肘の下に巻かれた布が湿っている。


「一昨日、藪で小型魔物に引っかかれた。浅かったんだが、治りが妙でな」

「見せてください」


布をほどくと、傷口の周りが不自然に腫れていた。

膿んでいるというだけではない。

熱を持ち、赤みの筋がじわりと上へ伸びている。


「医務所です」

「またかよ。今、そんなに混んでんのか?」

「混んでいるんですか」

「今朝、解体場の連中が何人か流れてったって聞いたぜ。吐く、熱い、腹が痛いって」


香蘭の目が上がる。


「どこの解体場です」

「南だろ。あと駅裏の荷役小屋でも倒れたのがいるって話だ」


男は言ってから、香蘭の顔つきに気づいたらしい。


「……何だよ」

「いえ。あなたもすぐ医務所へ」

「おう」


男が去ると、香蘭は一度だけ窓口の外を見た。


昼の日差しが線路を白く照らしている。

荷車が行き、客が笑い、子どもが駅前を走っていく。

見た目には何も崩れていない。

だが、その流れの底で、何かが同じ方向に傾き始めている気がした。


午後、宿場から使いの娘が駆け込んできたのは、その感覚をさらに強くした。


「すみません、相談を――」

「どうしました」

「うちの宿で、昨夜の煮込みを食べた人のうち何人かが、

朝から寝込んでて……でも全員じゃないんです。

元気な人もいて……」


娘は不安そうに言葉を継ぎ足す。


「旅人より、荷運びの人たちの方がひどくて。

あと、裏で残りを食べた犬までぐったりしてて……」


香蘭は記録板に新しい札を挟みながら、静かに問い返した。


「その煮込みに使った肉は、どこから」

「駅裏の仲買から入れたって」

「いつ」

「昨日の朝です」


昨日。

南の解体場。

駅裏の荷役。

腹痛。

発熱。

傷の悪化。

獣の衰弱。


ばらばらだった点が、まだ線にはならないまでも、同じ板の上に載り始めていた。


香蘭は娘に宿の名と人数を書かせ、医務所と宿場役へ回すための札を二枚書いた。

それから一度、筆を置く。


周りは相変わらず騒がしい。

次の客がもう窓口の前に立ちかけている。

ここで顔に出すべきではない。

怯えは流れる。けれど、見落としてよい散らばり方でもなかった。


彼女は帳面を閉じると、横の補助係に短く言った。


「この列、少しだけ見て」

「はい?」

「すぐ戻ります」


補助係が目を丸くするのも待たず、香蘭は帳面と数枚の札を抱えて奥へ下がった。


郭羽のいる詰所は、駅舎の裏手、伝令の出入りが多い小部屋だった。

戸を叩くと、すぐに低い声が返る。


「入れ」


中では郭羽が、路線図と報告札を前に腕を組んでいた。

忙しさのただ中にいる顔だったが、香蘭が帳面を抱えて来たのを見ると、眉を少しだけ上げる。


「窓口を空けてまで来るとは珍しいな」

「急ぎで上げたい話があります」

「討伐依頼の揉め事か」

「それなら後回しにできます」


香蘭は帳面を机に開いた。朝から拾った名と症状と場所が、まだ少ないながら並んでいる。


郭羽は一瞥し、すぐには口を開かなかった。


「腹痛、発熱、傷の悪化、解体場、荷役、宿……」と、彼は札を追うように言う。

「ただの季節病にも見えます」と香蘭は言った。

「でも、散り方が変です」

「変?」

「討伐帰りの怪我人だけではありません。

宿の客だけでもない。荷役、解体、見回り、宿場の食事、それに運搬獣まで混じっています」

「食あたりかもしれん」

「かもしれません。でも、同じ宿でも全員ではない。逆に、別々の場所で似た訴えが出ています」


郭羽は黙ったまま、机を指で二度叩いた。


香蘭は言葉を選んだ。

断定はできない。

だが、何も言わずに流すには引っかかりすぎる。


「いつもの『具合が悪い者が数人いる』の散らばり方ではありません」

「……続けろ」

「何か一つの病が広がっているのか、何か別の共通原因があるのかは分かりません。

ただ、討伐、解体、荷、宿、このあたりがどこかでつながっている気がします」


部屋の外では、また伝令が走る足音がした。

外苑路線は今日も動いている。

止まってはいない。

だからこそ、もし何かが流れに乗っているのなら、早い。


郭羽は帳面を閉じず、そのまま香蘭を見た。


「お前がそこまで言うなら、ただの風邪扱いはやめる」

その声は低く、もう迷っていなかった。

「医務所に照会をかける。

南の解体場と駅裏の荷役小屋、それから宿場役にも人を出す。

報告の形をそろえろ」

「はい」

「まだ騒ぐな。だが、隠すな」


香蘭は深くうなずいた。


「熱、腹痛、傷の悪化。似た訴えは全部拾います」

「獣の衰弱も入れろ」

「分かりました」


帳面を抱え直し、香蘭は詰所を出る。

戸を閉めた向こうで、郭羽が早くも別の伝令を呼ぶ声がした。


窓口へ戻ると、駅舎の喧騒は少しも変わっていない。

客は並び、荷は積まれ、列車は定刻で着く。

鉄道国の日常は、まだ何一つ崩れていないように見えた。


けれど香蘭にはもう分かっていた。


崩れ始める時というのは、たいてい、最初から大きな音は立てない。


最初に来るのは、こういう違和感だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。