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見難い火傷の子  作者: 清風
651/656

おかわりめいた災難(一難去ってまた一難)

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子651


おかわりめいた災難(一難去ってまた一難)


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


帝都に、絶え間なくサイレンが鳴り響いていた。


最初の一音が何を告げたのかを、もう誰も正確には覚えていない。

南市場の屋根裏で人が消えたからだったか。

倉庫街の高窓から血のついた巣材が垂れたからだったか。

見張り塔の交代兵が、交代の時刻になっても降りてこなかったからだったか。


ただ、気がつけばその音は止まらなくなっていた。


石造りの街路に反響し、橋廊の下面を震わせ、広場の噴水音を押し潰し、

荷車の軋みも人声も飲み込んで、帝都じゅうに「いまは日常ではない」と叩きつけ続けている。

遠くで一つ鳴りやんだと思えば、別の区画でまた立ち上がる。

まるで都市そのものが休むことを許されていないようだった。


爆炎クランの詰所でも、その音は壁越しに低く脈打っていた。


ポンとニールを救助して戻ってきてから、まだどれほど経っていただろう。

まともに寝た者はいない。

血を拭い、傷を巻き直し、装備を壁に立てかけたまま、ようやく椅子へ腰を落とした者もいる。

助かったという実感すら、身体の方へ追いついていなかった。


そこへサイレンだった。


ノクスはすでに机を立ち上げていた。

救助時に使った地図板、記録札、伝令線の整理台が片づく前に、

今度は帝都全域の区画図がその上へ広げられていく。

香蘭は持ち込まれる報告書を両腕に抱え、

郭羽は冒険者側の招集可能人数を怒鳴るように確認し、

張良は錯綜する証言を一つずつ切り分けていた。


「南倉庫区、屋根裏で失踪三。確認一、未確認二!」


「北橋廊、通行人転落四。刺傷あり、上部からの急襲と証言!」


「第三見張り塔、交代兵との通信途絶!」


「西水路沿い、荷獣暴走! 原因不明、だが羽音を聞いた者がいる!」


報告は途切れない。

そしてそのどれもが、ただの偶発事故では片づかない匂いを持っていた。


匠ーは、壁に立てかけていた剣を取り上げながら地図を見た。

点が散っているようで、散っていない。

市場。倉庫。橋廊。塔。高窓。回廊。

どれも生活の上を走る線だ。

人の目線より少し高い位置、

けれど都市機能そのものに直結している場所ばかりが噛まれている。


「匠ー」


ノクスの声は短かった。

「見るか」


「見えてる」


匠ーは地図の上へ手を伸ばし、いくつかの報告地点を指先で結んだ。

線は自然と上層導線へ集まる。

荷の出入り、見張り、連絡、避難、回廊移動。

都市の上側の血管だ。


「巣が増えてるんじゃない」


その声は低く、だが詰所の空気を一度で変えた。


「都市の上側を取られてる」


一瞬、誰も口を挟まなかった。

サイレンだけが、壁の向こうで長く鳴っている。


香蘭が抱えていた報告書の束から一枚を抜き取る。

「刺傷の位置が高いです。首、肩、顔面。あと、二階窓際での被害が多い。地上の獣害じゃない」


郭羽が別の札を叩きつけた。

「冒険者も二組やられてる。片方は倉庫の上を見に行って戻ってない。

もう片方は、回収に入ったやつが途中で散った」


張良が静かに言う。

「流言も悪い。“蜂に攫われる”“屋根裏に人が詰められている”

“巣に肉を運んでいる”……誇張も混じっているが、件数が多すぎる」


ノクスが顔を上げる。

「誇張でない可能性は」


「高い」


その一言で、詰所の温度がさらに下がった。


そのとき、外の廊下を荒々しい足音が走った。

扉が叩き開けられ、血の気を失った伝令兵が半ば転がるように飛び込んでくる。


「対策本部設置! ギルドと帝宮の合同だ! 南市場、倉庫街、貴族街回廊で……っ」


息が切れる。

喉が震える。

それでも兵は言った。


「遺体が、巣に使われてる」


誰もすぐには動かなかった。

動けなかったのではない。

その情報が、頭の中で意味を結ぶ一瞬が必要だった。


ポンが壁際で拳を握る音がした。

ニールが息を呑む。

助け出されたばかりの二人の顔には、まだ疲労の色が濃い。

それでも目だけは、もう現場へ向いてしまっていた。


「駄目だ」


匠ーは振り返りもせずに言った。

「お前らは動くな」


「けど――」


「動くな」


短く、硬い声音だった。

助けたばかりだ。

帰ってきたばかりだ。

ここでまた失わせるわけにはいかない。


だが人手が足りないことは、その場の全員が分かっていた。

サイレンは止まらない。

外ではまだ被害が増えている。

休ませたい者を休ませる余裕すら、帝都から消えつつある。


ノクスが一枚の札を匠ーへ滑らせた。

「帝宮は宮城周辺と官庁街の防衛を優先。

ギルドは市場と倉庫街の回収班を編成中。

爆炎には“導線確保”の要請だ」


匠ーは札を見た。

導線確保。


討伐ではない。

殲滅でもない。

まず通せ、ということだ。


それでいい、と匠ーは思った。

むしろそちらが本質だ。

蜂を何匹殺したかでは追いつかない。

取られた上側の線を、どこまで奪い返せるか。

生きている者をどこから下ろし、どこを通し、どこを捨て、どこを守るか。

都市を殺さないための戦いだ。


彼の目に、ヴェーバーアマイゼの巣域が一瞬よぎった。

群れで退路を潰す構造。

ならば群れで帰路を通す構造を作ればいい。

地下だけじゃない。

高所でも、火災でも、都市でも。

今はまだ形がなくても、思想だけはもう手の中にある。


匠ーは剣を腰に差し直した。


「ノクス。地図を三層に分けろ。地上、回廊、屋根際。混ぜるな」

「もう分けてる」

「香蘭、被害文言から“運ばれた”“消えた”“上から来た”を抜け」

「やってます」

「郭羽、土地勘ある連中だけ先に寄越せ。強いだけのやつはいらん」

「選別済みだ」

「張良、流言でもいい。巣材化と肉塊化の目撃を全部固定しろ。誇張込みで捨てるな」

「了解」


返答が早い。

全員、もう立ち上がっている。


ダンは壁から得物を引き抜き、キールは包帯を締め直しながら舌打ちした。

「休めると思ったんだがな」


「思うだけなら自由だ」


匠ーが言うと、キールが薄く笑う。

その笑いも長くは続かなかった。

また新しいサイレンが、今度はもっと近くで鳴り始めたからだ。

石壁が震える。

窓枠がかすかに鳴る。

誰かの悲鳴が、外の通りのさらに向こうで短く途切れた。


ポンが一歩前へ出た。

「匠ー」


制止する声が飛ぶ前に、彼は言葉を継いだ。


「戦わせろ、とは言わない。

けど、知ってることは全部出す。

戻れなくなる感じなら、俺たちはもう知ってる」


ニールも頷いた。

顔色は悪い。

それでも、その目には帰ってきた者にしか持てない種類の実感があった。


匠ーは数秒だけ黙った。

そして頷く。


「……座ってやれ。現場には出すな。けど、見たものは全部吐け」


ノクスがすぐに席を空け、張良が記録札を寄せる。

救助されたばかりの二人までが、今度は帝都を助ける側へ回る。

爆炎クランは、もはやただの討伐集団ではなかった。


外ではサイレンが止まらない。

帝都はまだ鳴っている。

市場も、橋廊も、塔も、倉庫も、人の営みの上側すべてが脅かされている。

ギルドと帝宮は急ごしらえの対策本部を回し始め、

兵と冒険者と記録官が走り回り、

都市全体がかろうじて崩れずにいるだけの綱渡りに入っていた。


その綱を、いまから掴みに行く。


匠ーは扉へ向かって歩き出した。

ダンとキールが続き、郭羽は外へ走り、香蘭は報告束を抱えたまま振り返る。

ノクスの机上では帝都の地図が広がり、赤い札が増え続けていた。


扉を開けると、夜気の中へ警報音が真っ直ぐ突き刺さってきた。


帝都に、絶え間なくサイレンが鳴り響いている。


その下で爆炎クランは、ようやく帰ってきたばかりの身体にもう一度火を入れ、

今度は仲間ではなく、都市そのものを帰還させるために動き出した。

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