賢い帝の呼び出し
見難い火傷の子639
賢い帝の呼び出し
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
呼び出しは、ひどくあっさりしていた。
第一線開通の熱気がまだ都に残っている頃だった。
駅前では地下へ降りる人の列が珍しくもなくなり、雨の日には役人も商人も当然のように使い始めている。
都の者たちは新しい便利さに目を輝かせていたが、匠ーはその浮ついた空気の中にいなかった。
次を考えていた。
一本通しただけでは足りない。
都を巡らせるには遅い。
今のやり方をそのまま何度も繰り返すには、手間も危うさも大きすぎる。
頭のどこかでずっと、その引っかかりが離れなかった。
そんな折に、帝から声がかかった。
といっても、大仰な使者が来たわけではない。
宮中の近習がひとり、匠ーのもとへ来て、短く告げただけだった。
「帝がお呼びだ」
それだけだった。
褒賞の沙汰か、と周りはざわついた。
第一線を通したのだ、金でも位でも何かあるのではないかと、勝手な憶測まで飛ぶ。
だが匠ーは、その短さを聞いた時点で違うと思った。
褒めるだけなら、もっと形を整える。
人前に出し、言葉を飾り、功を数える。
そういう呼び方ではない。
これは、聞くための呼び出しだ。
匠ーは返事だけして、余計なことは言わなかった。
手元にあった紙片をまとめ、炭のついた指を布でぬぐう。
まだ図面になる前の線が何枚か、その中に混じっていた。
丸い胴。
前へ突き出た探り孔。
閉じるための隔壁。
自分でもまだ、考えが形になりきっていないのは分かっている。
だが帝は、たぶんそこを聞く。
通されたのは大広間ではなかった。
奥へ入った、小さめの広間とも執務室ともつかぬ部屋。
飾りは少ない。
記録役の官がひとり、工事を預かる重臣がふたり。
あとは帝だけだった。
その時点で、匠ーは確信した。
やはり祝う場ではない。
帝は机上の書板から目を上げた。
匠ーが礼を取るのを待ち、すぐに言った。
「第一線、見た」
それだけだった。
見事であった、とも、功である、とも言わない。
ただ見た、と言う。
その一言に、褒めるだけで終える気のなさが出ていた。
帝は続けた。
「民は喜んでおる。役人も商人も使い始めた。雨の日は特にな」
匠ーは黙って聞いていた。
「便利だ。珍しさだけでもない。都の足になる」
そこで帝は言葉を切った。
「だが」
匠ーは顔を上げた。
帝の目は静かだった。
喜びもある。
だが、それより先を見ている目だった。
「お前は、あれで足りる顔をしておらぬな」
匠ーは少しだけ息を止めた。
図星だった。
第一線は通った。
人は喜んだ。
成功と言っていい。
だが匠ーの中では、あれは完成ではなかった。
むしろ、今のやり方の限界をはっきり見せつけられた気さえしていた。
帝はその沈黙を見て、わずかに口元を動かした。
笑ったわけではない。
ただ、答えを引き出せると見た顔だった。
「で」
その一音だけで、部屋の空気が締まる。
「都を巡らせるには、何が足りぬ」
匠ーはしばらく黙っていた。
言葉を選んでいるというより、頭の中にある引っかかりを、そのまま掴み直していた。
それから口を開く。
「今のままじゃ遅い」
記録役の筆が、そこで初めて走った。
重臣のひとりがわずかに眉を動かしたが、帝は何も言わない。
ただ先を促すように見ている。
匠ーは続けた。
「第一線は通せた。
でも、あれを何本も通すのはきつい。
人を足せば散る。
工区を増やせば目が薄くなる。
支保を削るのは論外だ。
安全を落とさず、同じ手順をもっと速く回せないと、都は巡らない」
帝はすぐには返さなかった。
その沈黙は、否定ではない。
測っている沈黙だった。
匠ーが勢いで言っているのか、見たうえで言っているのかを。
やがて帝が言う。
「なら、あるんだな」
短い言葉だった。
だがそれは、ただの問いではなかった。
お前はもう次を考えているのだろう、と見抜いたうえでの言葉だった。
匠ーは脇に抱えていた紙束へ目を落とした。
炭で汚れた端が、少し折れている。
「ひとつ、ある」
帝の目が細くなる。
「持ってきたか」
「まだ図面だ。模型も粗い」
「構わぬ。完成品を見たいんじゃない。お前の頭の中を見たい」
その言葉で、匠ーはようやく少しだけ口元を動かした。
笑いに近いものだったが、すぐ消えた。
帝は最初からそこを狙っていたのだ。
第一線の成功を褒めるためではない。
成功の先で、匠ーが何に引っかかり、何を変えようとしているのかを見るために呼んだのだ。
「出せ」
匠ーは抱えてきた図面束を前へ置いた。
部屋の空気が、もう一段深く静まる。
第一線の報告は、そこで終わった。
次の時代の話が、そこから始まる。




