アラクネ共和国編 開通の声
見難い火傷の子562
アラクネ共和国編 開通の声
アラクネ共和国の空は、よく晴れていた。
山肌を渡る風は高く、陽光は白く、見上げれば新たに張られた索道が空を横切っている。
支柱から支柱へ、たしかな張力をもって伸びるその線は、ただの構造物ではなかった。
長く分断されていた場所と場所、人と人、荷と暮らしを結び直す、新しい流れそのものだった。
その足元には、開通式のために多くの人が集まっていた。
共和国の役人、工事に関わった者たち、近隣から集まった住民たち。
晴れの日にふさわしい衣服と、仕事帰りのままの実用的な装いとが入り混じり、
ざわめきは高揚を含みながら広がっている。
匠一は、その前に立っていた。
派手な顔はしていない。
胸を張りすぎるでもなく、ことさらに誇るでもなく、ただそこにいる。
だが彼がそこに立っているという事実だけで、
この場に至るまでの長い時間を知る者には十分だった。
裏組織を滅ぼし、共和国へ戻り、止まっていたものを動かし直した。
壊すべきものを壊し、残すべきものを残し、そして最後には、未来へ続く形をひとつ完成させた。
ロープウェイ。
その名を口にするだけで、ここまでに費やされた労力の重みが伝わる。
設計、調整、資材、現場、交渉、保守。
どれひとつ欠けても、この索道は空にかからなかっただろう。
だが、この場にまだ足りない者がいた。
匠一は空を見上げ、それから短く息を吐いた。
完成した。
ならば見せるべき相手がいる。
ここまでの道のりを知り、待ち、支え、そして完成の意味を誰より分かる相手が。
「パーピー」 と彼は呼んだ。
ほどなくして、翼の音が高く響いた。
ハーピークイーン、パーピーが軽やかに、しかし王らしい堂々たる気配をまとって降り立つ。
「呼んだ?」
「ああ」
「何?」
「ロープウェイが完成した」
「見れば分かる」
「テレースを呼んでこい」
「……は?」
「開通式に間に合わせる」
「今から?」
「今からだ」
「無茶言うねえ」
「できるだろ」
「できるけどさあ」
パーピーは呆れたように肩をすくめた。
だが、その目には面白がる光もある。
こういう無茶を本当に通そうとするのが匠一だと、よく知っていた。
「連れてくればいいの?」
「いや」 匠一は短く言った。
「掴んでこい」
「雑!」
「時間がない」
「まあ、そうだけど」
「掴んだら知らせろ」
「……ああ、そっち使うんだ」
「ああ」
「了解。確保した瞬間に飛ばす」
「こっちで引く」
「テレースごと?」
「当然だ」
パーピーは一瞬だけ黙り、それから吹き出した。
あまりにも匠一らしい。
完成したから見せる。
間に合わせたいから呼ぶ。
距離や手間は、そのために潰すべき障害でしかない。
だが無茶を通す時ほど、こいつは必要な段取りを外さない。
テイムの主従間なら、距離があっても精神の回線は通る。
掴んだ瞬間を知らせれば、召喚の間は狂わない。
「分かった分かった。行ってくる」
「頼む」
「あとで文句言われても知らないよ」
「その時は受ける」
「言ったね」
次の瞬間、パーピーは大きく翼を広げ、空へ舞い上がった。
祝祭のざわめきの上を越え、風を裂いて、まっすぐゴーレムヨンドへ向かう。
ゴーレムヨンドでは、その頃。
テレースがいつものように落ち着いた顔で用事を片づけていた。
旅から戻ってしばらく、ようやく腰を落ち着けたところでもある。
匠一がアラクネ共和国で最後の仕上げに入っていることは知っていたが、
今日この瞬間に何かが起きるとは思っていなかった。
そこへ、影が落ちる。
「テレース!」 と、上からよく通る声がした。
見上げれば、パーピーが降りてくる。
翼の風圧が周囲の布や髪を揺らし、通りの者たちが思わず足を止めた。
「パーピー?」
「見つけた!」
「見つけた、じゃないわよ。どうしたの」
「ロープウェイが完成した!」
「……え?」
「匠一が呼んでる!」
「今?」
「今!」
「ちょっと待ちなさい、今って何よ」
「今は今!開通式!」
「開通式って、そんな急に――」
言い終えるより早く、パーピーはがっしりとテレースを掴んだ。
「ちょっ」
「はい確保!」
「確保じゃない!」
「大丈夫大丈夫、落とさない!」
「そういう問題じゃ――」
その瞬間、パーピーの内から主へ向けて、鋭く思念が飛ぶ。
――掴んだよ、今!
テイムの主従間にだけ通る、遠距離の精神的な連絡だった。
言葉より早く、合図だけを正確に届けるための回線。
距離がどれほど離れていても、主が受け取れるよう繋がれた感覚がある。
アラクネ共和国で、匠一の意識がそれを捉える。
確保完了。
位置、対象、接触状態、すべて十分。
引ける。
次の瞬間、空気が変わった。
引かれる。
そうとしか言いようのない感覚が、テレースの身体を包む。
遠く離れた場所から、強く、正確に、自分を指定して引き寄せる力。
だがそれは偶然合ったものではない。
パーピーが掴んだことを知らせ、その合図を受けて匠一が即座に発動した召喚だった。
だから間は一切狂わない。
「ちょっと、あの馬鹿……!」 とテレースが言った時には、もう遅い。
パーピーごと、テレースの姿がふっと掻き消える。
次の瞬間、アラクネ共和国の風が二人を迎えていた。
ざわめきの中、空気が揺らぎ、パーピーとテレースが現れる。
周囲からどよめきが上がった。
突然の来訪に驚く者もいたが、匠一はまるで予定通りだと言わんばかりの顔でそこに立っている。
テレースは着地した途端、まず匠一を見た。
その視線には呆れと抗議がたっぷり含まれている。
「説明なさい」 と彼女は言う。
「完成した」 と匠一は答えた。
「それは聞いたわ」
「だから呼んだ」
「だからって召喚で!?」
「間に合っただろ」
「そういう話じゃないのよ!」
「見せたかった」
その一言で、テレースの言葉が一瞬止まる。
匠一は飾らない顔のまま、ただ事実を述べるように続けた。
「ここまで来たのを、お前に見せたかった」
大げさな言い方ではない。
甘い声でもない。
だが、それが匠一の本音なのだと分かるには十分だった。
テレースは小さく息を吐いた。
怒りきれない。
呆れるし、強引すぎるし、あとで文句は言う。
だが、それでもこの場に呼ばれた意味は分かってしまう。
「……ほんとに、無茶するわね」
「間に合わせた」
「威張るところじゃない」
「でも来ただろ」
「来させられたのよ」
「同じだ」
「違うわよ」
パーピーが横でけらけら笑う。
「いやあ、でも連絡ぴったりだったでしょ」
「あなたね……」
「ちゃんと掴んだ瞬間に知らせたし」
「そこは分かるけど」
「でしょ?」
そうしているうちに、式の進行役が前へ出て、開通の宣言を告げる。
人々のざわめきが少しずつ収まり、視線が上へ、そして前へ集まっていく。
張られた索道が陽を受けて光り、その下で匠一が短く一礼した。
拍手が起こった。
最初は控えめだったそれが、やがて大きな波になる。
工事に関わった者たちの顔には安堵があり、住民たちの顔には期待があった。
これからこの道が運ぶのは荷だけではない。
暮らしそのものだと、誰もが分かっていた。
少し離れた場所で、テレースはその姿を見ていた。
隣には、招かれた客人たちがいる。
その中でもひときわ目を引くのは、セイレーン三姉妹だった。
彼女たちは晴れの場にふさわしく、よく通る声と華やかな気配をまとっていた。
ただ立っているだけでも人目を引く。
けれど、それはただの美しさではない。
声を持つ者の存在感だった。
場の空気を変え、耳を向けさせ、記憶に残す力。
ヒカルへと繋がっていく血の気配を、テレースはそこに見ていた。
「いよいよね」 と、三姉妹のひとりが言った。
「ええ」 とテレースは頷く。
「長かったでしょう」
「長かったわ」
「でも、ここまで来た」
「そうね」
その返答は静かだった。
だが、その静けさの下には、言葉にしきれない時間が沈んでいた。
待った時間。
耐えた時間。
信じた時間。
匠一が戻るまで、戻ってからも、形になるまで積み重ねてきた日々。
その時だった。
セイレーン三姉妹が、すっと一歩前へ出た。
誰かに促されたわけではない。
けれど、その動きはあまりに自然で、場の誰もが彼女たちへ目を向けた。
声を持つ者が、祝うべき瞬間に前へ出る。
それだけで十分な意味がある。
三人は顔を見合わせ、そして空へ向かうように胸を開いた。
「開通おめでとう!」
声は高く、明るく、よく響いた。
ただ大きいだけではない。
晴れた空気を震わせ、山肌に跳ね返り、集まった人々の胸へまっすぐ届く声だった。
祝福の言葉は一瞬で場を満たし、拍手とは違う形で、この日の喜びをひとつにした。
人々の間から笑みがこぼれる。
誰かがまた拍手し、誰かが口笛を吹き、子どもたちがはしゃぐ。
開通式という少し堅い場に、祝祭の色が一気に差した。
匠一もそちらを見た。
ほんのわずか、口元が緩む。大げさではない。
だが、彼なりにその祝福を受け取っているのが分かった。
そして、そのにぎわいの陰で。
三姉妹のひとりが、ほんの少しだけ顔を横へ向けた。
視線の先にいたのは、テレースだった。
さっきまでの晴れやかな声とは違う、ごく小さな、風に紛れそうな声で、彼女は呟いた。
「姉さん、長い間お疲れ様」
その声は、近くにいた者にしか届かなかった。
周囲の人々はまだ祝福の余韻の中にいる。
誰も気づかない。
気づかなくていい言葉だった。
けれどテレースには、はっきり届いた。
一瞬、息が止まる。
開通おめでとう。
それはこの場にいる全員へ向けられた言葉だ。
共和国へ、工事に関わった者たちへ、匠一へ、未来へ向けられた祝福だ。
だが今の小さな一言は違う。
それは、誰にも見えないところで積み重ねてきた時間へ向けられていた。
待っていたこと。
支えていたこと。
不安を飲み込んだこと。
戻ってきたあとも、完成の日まで隣で立ち続けたこと。
その全部を、たった一言で掬い上げられた気がした。
テレースはすぐには何も言えなかった。
ただ、少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。
泣くほどではない。
けれど、胸の奥に長く張っていたものが、そっと緩むのを感じた。
「……ありがとう」 と、彼女もまた小さく返す。
三姉妹はそれ以上何も言わなかった。
もう十分だった。
公の場で交わすには、それで足りる。
祝うべきものは大きく祝われ、労うべきものは静かに労われた。
再び拍手が広がる。
索道の上では、試験運行のための搬器がゆっくりと動き始めていた。
滑車の回る音、張られた索の低い唸り、見上げる人々の歓声。
それらすべてが、新しい時代の始まりを告げているようだった。
匠一はその音を聞きながら、空を見上げた。
自分が作ったものが、ようやく動き出す。
壊すためではなく、運ぶために。
奪うためではなく、繋ぐために。
その姿を見つめながら、テレースは胸の内で静かに思う。
ここまで来たのだ、と。
長かった。
けれど、長かったからこそ、この日の意味は深い。
空を渡る搬器の向こうで、セイレーン三姉妹の祝福の余韻がまだ風に残っている。
大きな声は共和国のために。
小さな声は、ひとりの姉のために。
そのどちらもが、この開通の日にはふさわしかった。




