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見難い火傷の子  作者: 清風
534/645

ホーネット幕府編 裏組織 第十四話 断ち切る

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子534


ホーネット幕府編 裏組織 第十四話 断ち切る


倉を出た時、夜気は川の匂いを濃くしていた。


湿った風が頬を撫でる。

遠くで水が杭を打つ音がする。

町はもう半ば眠っているはずなのに、匠一にはどこも静かに思えなかった。

静かな場所ほど、隠すには都合がいい。

寺も、問屋も、役所の裏口も、そういう顔をしている。


継ぎ役は縛って倉の奥へ戻した。

助け出した二人には水を飲ませ、口止めより先に息を整えさせた。

ニールは帳面と図を油紙に包み、火の気から遠ざけて抱えている。

ダンはもう歩幅が速い。

次へ行くと決まった時の足だ。


「寺までどれくらいだ」


匠一が問うと、継ぎ役から場所を聞き出していたニールが答えた。


「町外れです。川沿いを外れて、北へ少し。歩いて二刻はかかりません」

「見張りは」

「常駐は多くないはずです。

ただ、移し先として使っているなら、今夜のうちに動かす可能性があります」

「動かす前に入る」

「おう」


ダンの返事は短い。

それで十分だった。


夜道はぬかるんでいた。

昼に降った雨がまだ土の底に残っている。

足音を吸うには都合がいいが、急げば滑る。

匠一は先を見ながら歩いた。

頭の中では、継ぎ役が書いた三つの丸がまだ消えていない。


人の線。

金の線。

記録の線。


全部を一度に断てれば理想だ。

だが手が足りない。

なら、最初に切るべきは人の線だ。

生きた人間は荷のように燃やして消せない。

移すにも、隠すにも、口を塞ぐにも時間がいる。

そこが一番遅い。

遅いものから断つ。


「匠一」


横を歩くニールが低く言った。


「寺を押さえた後、どうします」

「中を見て決める」

「問屋と役所は」

「今夜は触れない」

「逃げられるかもしれません」

「逃げるなら、逃げた跡を追う」

「……はい」


ニールはそれ以上言わなかった。

反対ではない。

ただ、同時に切れないことの危うさを分かった上で飲み込んでいる声だった。


匠一も分かっている。

だが、分かっていても順番は変えない。

全部を欲張って一つも押さえられないのが一番悪い。

まず人を止める。

次に金。

最後に記録。

燃やされる前に奪えればいいが、燃えたなら燃えたで、燃やした側が動く。

どちらにせよ線は残る。


「寺ってのは、どんな寺だ」


ダンが前を見たまま聞いた。


「潰れかけだとよ」

「そうじゃねえ。中身だ」

「中身?」

「坊主が本当に坊主かって話だ」


匠一は少しだけ口元を動かした。

ダンにしてはいいところを突いている。


「坊主じゃないだろうな」

「だろうな」

「なら遠慮はいらねえ」

「最初から遠慮する気はない」


道が細くなる。

町家の灯りが途切れ、代わりに畑と低い林が増えた。

虫の音が濃くなる。

夜の湿り気の中に、古い木と土壁の匂いが混じり始めた。


寺が近い。


やがて、黒い屋根が木立の向こうに浮かんだ。

大きくはない。

山門も傾き、塀の一部は崩れている。

表から見れば、寄進も絶えた古寺にしか見えない。

だが、門前の轍が新しい。

しかも一筋ではない。

荷車が何度も出入りした跡だ。


「潰れ寺の道じゃねえな」


ダンが鼻を鳴らす。


「ええ」


ニールがしゃがみ込み、土を指でなぞった。


「重い荷を運んでいます。しかも最近です」

「人か」

「人だけではないかもしれませんが、少なくとも空ではない」


匠一は門を見た。

閉じている。

だが閂は外から見えない。

内側に人がいる。

しかも、ただ寝ているだけの寺なら、こんな時間に門をきっちり閉ざす必要はない。


「裏は」

「回れます」


ニールが塀の崩れた方角を示す。


「庫裏へ続く細道があります。継ぎ役の話だと、使うのはそちらです」

「正面は囮にするか」

「俺が鳴らすか?」


ダンの声が少し楽しそうになる。


「まだだ」

「ちっ」

「騒げば中が動く」

「動いたところを噛めばいい」

「人質がいるかもしれない」

「……分かったよ」


不満そうではあるが、引く時は引く。

そこがダンの使いやすいところだった。


三人は塀沿いに回った。

崩れた土壁の先に、細い裏道がある。

草が踏まれている。

最近、人が通った跡だ。

さらに進むと、庫裏の裏手へ出た。

小さな勝手口。

戸は閉まっているが、鍵の位置に新しい金具が打たれている。

古寺には似合わない。


匠一は耳を寄せた。


中で、何かが擦れる音。

低い話し声。

そして、咳。

一人ではない。複数いる。


「当たりだ」


囁くと、ダンの気配が一段沈んだ。

飛び込む前の静けさだ。


匠一は指で合図する。

ダンは右。

ニールは後ろ。

自分が先に入る。


戸の金具に手をかける。

古い木だが、補強が新しい。

蹴れば大きく鳴る。

なら鳴る前に外す。


匠一は短刀の先を差し込み、留め具の癖を探った。

一つ。

二つ。

三つ目で金具がわずかに浮く。


その瞬間、中で女の声がした。


「水を……」


かすれている。

弱い。

だが生きている声だ。


匠一の目が細くなる。

やはり人の線だ。

移す前の留め置き場。

あるいは選別前の溜め場。


「開くぞ」


息だけで言う。

ダンが頷く。

ニールが灯りを伏せる。


匠一は金具を外し、戸を一気に引いた。


冷えた空気が流れ出る。

中は暗い。

だが真っ暗ではない。

奥に小さな灯りがある。

土間には桶と縄。

壁際には粗末な寝台。

そして、その向こうに、格子ではなく布で仕切られた一角が三つ。


人影が動いた。


「誰だ!」


男の声。

次の瞬間にはダンが入っていた。

床を蹴る音が一つ。

鈍い衝突音。

短い呻き。

最初の見張りが壁へ叩きつけられる。

二人目が立ち上がるより早く、匠一が喉元へ刃を当てた。


「騒ぐな」

「っ……」

「声を出せば切る」


男は僧衣を着ていた。

だが手は荒れている。

数珠より縄を扱う手だ。

坊主ではない。


奥では、布の仕切りの向こうから怯えた息遣いが重なっている。

一つではない。

二つ、三つ、もっとだ。


ニールが戸を閉め、素早く中を見回した。


「匠一、奥にいます」

「分かってる」


喉元に刃を当てられた男が、目だけで左奥を見た。

そこにもう一枚、板戸がある。

庫裏のさらに奥。

隠し部屋か、移送前のまとめ場か。


「鍵は」

「知らねえ」

「嘘だな」

「本当に――」


言い終わる前に、ダンが倒した見張りの懐から鍵束を抜いた。


「これか?」

「……あるじゃねえか」


匠一は男を床へ押し倒し、ニールに言う。


「こいつらを縛れ。口も塞げ」

「はい」

「殺さないのか」


ダンが少しだけ不満そうに言う。


「まだだ」

「今日はずいぶん優しいな」

「口が要る」

「分かったよ」


匠一は鍵束を受け取り、奥の板戸へ向かった。

戸の前だけ床が擦れている。

頻繁に開け閉めしている跡だ。

しかも、戸の下から流れてくる空気が重い。

人が多い場所の空気だ。


鍵を差す。

一つ目は違う。

二つ目で回る。


戸を開けた瞬間、匂いが押し寄せた。

汗、湿気、古い布、恐怖。

倉の檻と同じだ。

だがもっと濃い。

もっと多い。


中には人がいた。


狭い部屋に、十人近く。

女が多い。

子どももいる。

男も二人。

皆、壁際へ寄せられ、灯りに目を細めている。

縄で繋がれてはいないが、逃げられないよう外から閉じられていたのだろう。

顔色は悪い。

だが、まだ生きている。


匠一は一瞬だけ目を閉じた。

間に合った。


「……出せるか」


ニールが後ろから覗き込み、息を呑む。


「こんなに」

「出す」

「今すぐ?」

「今すぐだ」


ダンが背後で笑う。

低く、獣みたいな笑いだ。


「いいな。やっと切る感じがしてきた」

「まだ半分だ」

「半分でこれなら十分だろ」

「十分じゃない」


匠一は部屋の中の人々を見た。

怯え、乾き、諦めかけた目。

ここを押さえても、問屋は残る。

役所も残る。

だが少なくとも、人の線はここで断てる。


それが大きい。


「聞け」


匠一が中へ声を向けると、全員がびくりと肩を震わせた。


「今からここを出す。

走れるやつは走れ。

走れないやつは支える。

声は抑えろ。

外に出るまで騒ぐな」

「……あんた、誰」

「流れを断ちに来た」


前にも言った言葉だった。

だが今度は、前より少しだけ形になっている。


ニールがすぐに縄や布の有無を確かめ、歩けない者を見分け始める。

ダンは入口に立ち、見張りの気配を探っている。

匠一は部屋の中を一巡し、最後に奥の壁へ目を止めた。


壁際に、帳面が一冊落ちている。

寺の名簿ではない。

受け入れと引き渡しの控えだ。

人の線の記録。


「ニール、それも持て」

「はい」

「燃やさせるな」

「分かっています」


匠一は帳面を拾い、懐へ入れた。

人を止めた。

記録の一部も押さえた。

これで一本、確かに断てる。


だがまだ終わりではない。

問屋の金が動けば、別の寺が立つ。

役所の記録が残れば、口を塞ぐ手が回る。

だからこれは始まりだ。

切断の最初の一手にすぎない。


外で風が鳴った。

古寺の屋根が軋む。

その音の向こうで、遠く犬が吠える。


誰かが気づいたかもしれない。

もう時間は長くない。


「出るぞ」


匠一が言うと、部屋の中の人々がゆっくりと動き始めた。

足元はふらつき、息は浅い。

だが、生きている。

流される前に、ここで止められる。


匠一は戸口に立ち、外の闇を見た。


根の先に触れた。

なら次は、その線を一つずつ断つだけだ。

寺で人を止めた。

次は問屋だ。

その次は役所。


臭いものは元から絶つ。

そのための刃は、

もう振り下ろし始めている。

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