見難い火傷の子510 ホーネット幕府編 現行犯逮捕
見難い火傷の子509
見難い火傷の子510 ホーネット幕府編 現行犯逮捕
「待ってました」
ダンの声と同時に、最初の兵が槍を突き出した。
速い。
酔っていても、訓練を受けた兵の踏み込みだった。喉を狙った、ためらいのない一撃。普通の旅人なら、それで終わっていた。
だがダンは避けなかった。
半歩だけ踏み込み、槍の柄を横から叩く。
穂先が逸れ、兵の体勢が前へ流れる。そのまま空いた胸ぐらを掴み、腰を落とし、地面ごとひっくり返した。
鈍い音がした。
兵は息を詰まらせ、槍を手放す。そこへダンの膝が落ちる。胸骨を砕かないぎりぎりの重さで押さえ込み、腕を背へねじり上げた。
「一本」
軽く言ったが、目は笑っていない。
同時に、右から回り込んだ二人目の兵の手首が跳ね上がった。
キールだ。抜きかけた刀の鍔を指先で弾き、鞘ごと腰から外させる。兵が反射的に掴み直そうとした瞬間、肘を取って身体を入れ替え、そのまま肩から地面へ落とした。
受け身を取る暇もない。
背中を打った兵の喉元に、いつの間にか奪われた自分の鞘が突きつけられている。
「動くな」
低い一言。
兵は凍りついた。
正面では、副官の怒声が飛ぶ。
「何をしている! 囲め!」
三人がいっせいに前へ出る。
だがその足が揃った瞬間、マリーが横から滑り込んだ。低い姿勢のまま一人の足首を払う。崩れた兵が隣を巻き込み、槍列が半端に乱れる。
そこへダンが突っ込んだ。
「おらっ」
肩からぶつかる。
鎧ごと弾き飛ばされた兵が二人まとめて転がり、槍が宙を舞う。ダンはその一本を空中で掴み、穂先ではなく柄の方を使って三人目の膝裏を払った。兵が膝をついたところへ、首筋すれすれで柄を止める。
「寝てろ」
兵は青ざめた顔で固まった。
一方、倉の前に残っていた見張りの兵が、村長の方へ走ろうとした。人質にでもするつもりだったのだろう。
だが二歩目で、その足が止まる。
ハナがいた。
いつ動いたのか分からないほど自然に進路へ入り、兵の手首を外へ流す。掴もうとした腕は空を切り、逆に肩口を押されて重心が浮く。そこへ膝裏を軽く蹴られ、兵は前のめりに地面へ落ちた。
起き上がろうとした後頭部の横へ、短刀の峰がぴたりと添えられる。
「次は気絶では済みません」
声は静かだった。
兵は顔を土に押しつけたまま動かなくなる。
広場の端では、まだ迷っていた末端兵が二人、槍を構えたまま立ち尽くしていた。
前へ出るべきか、捨てるべきか決められない顔だ。
匠ーはその二人だけを見て言う。
「伏せなさい」
声は大きくない。
だが、戦場の真ん中とは思えないほどはっきり届いた。
「今なら問わない」
二人は顔を見合わせた。
次の瞬間、片方が槍を落とす。もう片方も遅れてそれに倣い、膝をついた。
副官が怒鳴る。
「貴様ら!」
その怒声の途中で、匠ーはもう動いていた。
速い、というより短い。
無駄な距離が一切ない。副官が刀を抜き切る前に懐へ入り、鞘走りした刃の角度を手の甲で逸らす。切っ先は匠ーの肩をかすめもせず空を切り、そのまま副官の手首に指がかかった。
捻る。
骨を折る寸前で止めた力加減だった。
刀が落ちる。副官が呻く。そこへ匠ーの足が相手の踵を払った。重心を失った身体が崩れ、膝をつく。喉元へ、拾い上げた刀の峰が静かに当てられた。
「終わりです」
副官の顔が引きつる。
まだ終わっていない、と叫ぼうとしたのかもしれない。だが声になる前に、背後から別の兵が匠ーへ斬りかかった。
それを止めたのはニールだった。
「危ない!」
叫びながら投げたのは、道端に転がっていた木桶だった。
狙ってやったわけではないだろう。だが桶は見事に兵の腕へぶつかり、刃筋がぶれる。その一瞬で匠ーは身を開き、逆手で兵の手首を取る。勢いのまま前へ引き、肩から地面へ落とした。
兵の手から刀が離れる。
匠ーはその刀を蹴って遠ざけた。
「助かりました、ニール」
「う、うん!」
声は上ずっていたが、ニールは逃げなかった。
その後ろで、村人たちが戸の隙間から目を見開いている。
残る兵は、もう半分も立っていなかった。
ダンに押さえ込まれた者。
キールに関節を極められた者。
マリーに足を払われて転がったまま起き上がれない者。
ハナに喉元を制され、顔色を失っている者。
そして、自分から槍を捨てて伏せた者。
それでも一人、酒臭い息を吐きながら突っ込んでくる兵がいた。
目が据わっている。恐怖より先に意地が出たのだろう。
「舐めるなあっ!」
振り下ろされた槍を、ダンが片手で受け止めた。
正確には、穂先の下、柄の中ほどを掴んだ。
そのまま引く。兵の身体が前へ泳ぐ。ダンは逆の拳で鳩尾を打ち抜いた。鎧の上からでも呼吸が止まる一撃だったが、骨は折っていない。兵は白目を剥いて崩れ落ちる。
ダンは槍を放り捨て、周囲を見回した。
「まだやるやつ、いるか?」
返事はない。
あるのは荒い息と、土の上で身じろぎする音だけだった。
さっきまで広場に満ちていた下卑た笑いは、もうどこにもない。
キールが副官の腕を後ろへ回し、膝で背を押さえつける。
抵抗しようとしたところへ、さらに角度を増した。
「っ、ああっ!」
「静かに」
キールの声は冷たい。
「折っていないだけ、温情だと思え」
副官は歯を食いしばり、それ以上は動かなかった。
匠ーは周囲を見渡した。
立っている兵は、もういない。
伏せている者、うずくまる者、気絶している者。武器は地面に散らばり、陣の形は完全に崩れていた。
死んだ者はいない。
だが、誰一人として戦える状態でもなかった。
「縄を」
匠ーが言うと、村長がはっとしたように顔を上げた。
すぐには動けない。何が起きたのか、まだ理解が追いついていないのだろう。
代わりにハナが近くの荷から縄を引き出し、マリーへ放る。
ダンは押さえ込んでいた兵の腕を器用にまとめ上げ、キールは副官の手首を縛る。抵抗しそうな者から先に、無駄のない手つきで拘束していく。
「武器を捨てて伏せた者は後回しでいい」
匠ーが言う。
「主犯格と、命令を飛ばした者を先に」
その言葉に、伏せていた末端兵の一人が顔を上げた。
信じられないものを見る目だった。全員まとめて叩き潰されると思っていたのだろう。
「お、おれは……」
「動かないでください」
ハナが言う。
「従うなら、扱いは分けます」
兵は唇を噛み、再び額を土につけた。
村の家々の戸が、少しずつ開き始める。
ほんの指一本分だった隙間が、やがて人の顔を覗かせるほどになる。
誰も声は出さない。だが、その目はさっきまでと違っていた。
怯えだけではない。
まだ信じきれないまま、それでも確かに見ている目だ。
軍が止められた、その瞬間を。
母親に抱かれていた娘は、なおも何も言わなかった。
けれど、広場から兵の怒声が消えたことだけは分かったのか、わずかに肩の震えが弱まっていた。
村長が、ようやく一歩前へ出る。
「……終わった、のですか」
「まだです」
匠ーは答えた。
「終わらせるために、ここから分けます」
その声に、村長は深く息を吸った。
長いあいだ止めていた呼吸を、やっと思い出したように。
広場には、倒れた兵と散らばった武器と、拘束されていく指揮役たちがいる。
だがそれ以上に目立っていたのは、血の少なさだった。
斬り伏せたのではない。
壊したのでもない。
止めたのだ。
それがかえって、匠ーたちの異様さを際立たせていた。
ダンが縛り終えた兵を転がしながら、肩を鳴らす。
「いやあ、ワイバーンよりは楽っすね」
「比べる相手が間違ってる」
マリーが呆れたように言う。
「でも、まあ」
ダンは広場を見回し、口の端だけで笑った。
「これでようやく、話ができる」
キールが副官を立たせる。
腕を取られたままの副官は、さっきまでの威勢が嘘のように青ざめていた。
匠ーはその前に立つ。
「これより、実行犯、命令者、黙認者を分けて拘束します」
副官は何か言い返そうとした。
だが匠ーの目を見て、言葉を失う。
「軍の裁きは軍で受けてもらいます」
匠ーは静かに続けた。
「ですが、その前に逃がしません」
広場の空気が、そこでようやく完全に変わった。
兵が支配していた村ではない。
兵が縛られ、村人が見ている広場だ。
モンシロ村は、遅れてきた静けさの中で、初めて自分たちの息を取り戻し始めていた。




