古代湖線失踪事件編・第9話
見難い火傷の子450
古代湖線失踪事件編・第9話
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
導流弁閉鎖
封鎖観測室の空気は、下へ行くほど薄くなるようだった。
息が苦しいわけではない。
酸素が足りないわけでもない。
だが、ここに長くいると、自分が今どこに立っているのか、その輪郭だけが少しずつ曖昧になる。
硝子床の下には、湖底の暗がり。
そのさらに向こうに、青白い揺らぎ。
シーラが残した観測灯の残光か、あるいは空洞側から漏れてくる異常の反射か。
どちらにせよ、見ていて気分のいい光ではなかった。
管理官補佐が古い監視盤の横で言う。
「主導流弁へ降りる保守導路は、この先です」
「何人入れる」
匠一が聞く。
「本来は二名までです」
「じゃあ三人だな」
「増えています」
セレネが即座に言った。
「私、匠一様、ノクス。
最低でもこの三名は必要です」
「必要ですか」
管理官補佐がわずかに顔をしかめる。
「必要です」
セレネは一歩も引かなかった。
「記録、判断、感知。
どれが欠けても、この異常域では危険です」
ヘルムが口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
自分が行くべきではないと分かっている顔だった。
現場責任者としては同行したい。
だが今必要なのは、事情を知る者ではなく、異常に対処できる者だ。
ノクスが硝子床の下を見たまま言う。
「導路の先で認識阻害が強くなります」
「どの程度だ」
匠一が聞く。
「会話の前半を忘れる程度には」
「十分最悪だな」
「はい」
セレネはすでに準備を始めていた。
細い記録紐を三人の手首へ結ぶ。
互いの位置確認用だ。
さらに、短い確認語を決める。
「五歩ごとに確認します」
「何て言う」
匠一が聞く。
「“誰がいる”です」
「そのままだな」
「今はそれが一番いい」
ノクスが頷いた。
「名前より役割の方が残りやすいかもしれません」
「では、匠一様は“前”、私は“記録”、ノクスは“感知”で」
「雑だが分かりやすい」
「十分です」
保守導路の扉は、観測室のさらに奥にあった。
古い金属製。
開けた瞬間、湿った冷気が流れ出る。
湖底に近い空気だ。
中は狭かった。
人一人がやっと通れる幅。
壁面には古い導管と、ところどころ新しい補修痕。
床は金属格子で、その下から低い水音がする。
「嫌な音ですね」
セレネが言う。
「水が近い」
ノクスが答える。
「近すぎます」
三人は縦列で進んだ。
先頭が匠一。
中央にセレネ。
最後尾にノクス。
五歩。
匠一が言う。
「誰がいる」
「記録」
「感知」
さらに五歩。
「誰がいる」
「記録」
「感知」
最初のうちは、それでよかった。
だが導路が緩く下り始めたあたりから、空気が変わる。
音が遠い。
後ろの返答が、半拍遅れる。
足元の格子越しに見える暗さが、妙に近い。
「誰がいる」
「記録」
「……感知」
ノクスの返答が少し遅れた。
匠一は立ち止まらない。
止まる方が危ないと分かっているからだ。
「来てるか」
「はい」
ノクスが短く答える。
「縁です」
「空洞の?」
「導流の」
セレネが壁面の計器を見た。
針が揺れている。
読める数値ではない。
だが揺れ方だけで、正常ではないと分かる。
「導流がまだ生きています」
「だから引く」
匠一が言う。
「はい。
便の上で削った認識を、ここへ流している」
その言葉で、ようやく全部が一本に繋がった。
古代湖線の便が異常域を横切る。
湖底空洞の上で、人の輪郭が削られる。
削られた認識は、研究区画の旧式導流設備に引かれる。
だから“誰かがいた”という結びつきだけが薄れ、席だけが残る。
空席は、失踪の始まりではない。
削られた結果として、最後に見える痕跡だったのだ。
匠一が低く言う。
「つまり犯人は」
「人ではありません」
セレネが答える。
「ですが、原因の一端は研究区画側にあります」
「設備が異常を増幅した」
「はい」
ノクスが続ける。
「元からあった湖底異常域へ、導流が触れた。
その結果、人の認識と存在の結び目だけが引かれるようになった」
「最悪の事故だな」
「ええ」
「でも理屈は通る」
「はい」
導路の先で、ようやく空間が少し開けた。
半円形の保守室。
中央に太い導管。
その先に、古い弁輪。
主導流弁だ。
だが問題は、その向こうだった。
保守室の外壁の一部が、厚い硝子になっている。
その先はもう湖底空洞の縁だった。
暗い水。
帯状落差。
そして、空洞の口。
近い。
観測室から見た時より、ずっと近い。
空洞はただの穴ではなかった。
縁が滑らかすぎる。
自然地形にしては整いすぎている。
だが人工物にしては古すぎる。
何かが長い時間をかけて削り、磨いたような形だった。
セレネが息を呑む。
「……これが」
「湖底空洞です」
ノクスが答える。
「はい」
そして、その縁に、青白い薄い灯りがいくつも揺れていた。
七つ。
正確には、七つ前後。
近づくと数えにくくなる。
だが確かに複数ある。
「微弱反応群」
セレネが言う。
「見えるのか」
匠一が聞く。
「はい。
完全な姿ではありませんが」
それは人影ではなかった。
輪郭の薄い、灯りのようなもの。
だが灯りというには揺れ方が不自然で、時折、人が立ち止まって振り向く時のような間を見せる。
ヘルムたちがここにいなくてよかった、と匠一は思った。
これは現場職員が見ていいものではない。
「生きてるのか」
彼は低く問う。
ノクスはすぐには答えなかった。
しばらく見てから言う。
「“まだ切れていない”が近いです」
「曖昧だな」
「曖昧な状態です。
存在の結び目が薄く、完全に失われてもいない」
「戻せるか」
「導流を止めれば、可能性はあります」
その時、空洞の奥で何かが動いた。
長い影。
水の中を、ゆっくりと横切る。
前に見た大型遊泳反応だ。
レッシーめいた存在。
だが今は、前よりはっきり見えた。
頭部らしき膨らみ。
長い胴。
尾のような流れ。
それでも、見た直後から細部が崩れていく。
認識が固定しない。
セレネが小さく言う。
「番をしているようにも見えますね」
「食ってるようにも見える」
匠一が返す。
「どちらとも取れます」
ノクスが言った。
「異常域に寄ってきた生体か、異常そのものの一部か、まだ断定できません」
影は空洞の縁を一周するように動き、それからまた暗がりへ消えた。
七つの青白い灯りは、消えない。
ただ、流れに引かれるように少しずつ空洞側へ寄っている。
「時間がないな」
匠一が言う。
「はい」
セレネが弁輪へ近づく。
「閉鎖手順に入ります」
主導流弁は古かった。
手動閉鎖用の輪は重く、固着もある。
一人では回らない。
匠一が輪を掴み、セレネが補助具を差し込み、ノクスが流れを見ながら位置を指示する。
「右へ」
「固いな」
「長年動かしていないのでしょう」
「研究区画の怠慢だ」
「同感です」
輪が軋む。
金属音が保守室へ響く。
その音だけは、妙にはっきり残った。
一段。
二段。
少しずつ、導流が絞られていく。
その瞬間、保守室全体が揺れた。
硝子の向こうの水が、外から押されたように波打つ。
セレネがよろめき、匠一が肩で支える。
ノクスが即座に振り向いた。
「来ます」
「何が」
「大型遊泳反応です」
次の瞬間、硝子の向こうを巨大な影が横切った。
近い。
今までで一番近い。
頭部らしきものが、こちらを向いた気がした。
だが目があったかどうかは分からない。
分かったと思った瞬間に、その印象が崩れる。
保守室の壁が軋む。
外から体当たりされたわけではない。
だが異常域そのものが揺らいだような圧が来る。
「閉めろ!」
匠一が叫ぶ。
「閉めています!」
セレネも声を上げた。
「あと一段!」
「ノクス!」
「七つ、まだあります!
ただし流れが速い!」
匠一は輪をさらに回した。
固い。
腕に負荷がかかる。
だが止めない。
その時、七つの青白い灯りのうち、一つがふっと薄れた。
「まずい」
ノクスが言う。
「急げ!」
匠一が吠える。
最後の一段が、ようやく落ちた。
主導流弁が閉じる。
直後、保守室の空気が変わった。
音が戻る。
水音がはっきりする。
自分の立っている位置が、急に分かりやすくなる。
頭の奥にかかっていた薄い膜が、一枚剥がれたようだった。
セレネが息を整えながら言う。
「止まりました」
ノクスは硝子の向こうを見たまま、数秒黙る。
それから、はっきりと言った。
「流れが変わりました」
「七つは」
匠一が聞く。
「……戻っています」
「戻る?」
「空洞側ではなく、こちらへ」
「引けるか」
「はい。
今なら」
七つの青白い灯りが、ゆっくりと空洞の縁から離れ始めていた。
完全な人影ではない。
だが先ほどより、少しだけ輪郭が濃い。
人の形に近づいている。
セレネが記録紙を握りしめた。
「回収手順を」
「シーラを呼ぶ」
匠一が即答する。
「ここから直接は無理だ。
上で受ける」
「はい」
その時、硝子の向こうで、長い影がもう一度だけ現れた。
だが今度は、こちらへ寄ってこなかった。
空洞の縁をゆっくり巡り、それから深い方へ沈んでいく。
まるで、役目が終わったのを見届けるように。
「行ったな」
匠一が言う。
「はい」
ノクスが答える。
「少なくとも、今は」
保守室の揺れは収まっていた。
主導流弁は閉じた。
異常域の流れは変わった。
七つの微弱反応は、まだ完全ではないが、こちら側へ戻り始めている。
古代湖線失踪事件は、この瞬間にようやく“解決可能な事件”へ戻った。
人が消えたのではない。
人と人との結び目が削られ、湖底空洞へ引かれていた。
その流れを、研究区画の旧式導流設備が増幅していた。
だから空席が残った。
だから誰がいたか思い出せなかった。
だから記録はあるのに、人だけが抜けた。
アガサ・クリスティ風の失踪事件なら、ここが真相開示の場だ。
そしてこの事件でも、真相はちゃんとそこにあった。
ただし犯人が人間ではなく、湖底異常域と半端に生き残った設備だっただけだ。
匠一は弁輪から手を離し、短く言った。
「上がるぞ。
回収はこれからだ」
七つの灯りは、まだ消えていない。
ならば終わりではない。
ここから先は、取り戻す段階だ。
保守導路の向こう、観測室の上にはまだ研究区画があり、さらにその先には古代湖線がある。
空席の先にあったものは、ようやく言葉になった。




