湖の主
見難い火傷の子435
湖の主
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
オケアヌス線の運行がようやく落ち着きを見せ始めた頃、
匠一はブリタニア側北西部の湖沼地帯へ来ていた。
海峡連絡線の次に見据えているのは、内陸側への支線延伸である。
港と門だけでは流れは片手落ちだ。
人も荷も、奥へ通してこそ線路になる。
その候補地のひとつが、古代湖群に沿って点在する集落だった。
湖は広かった。
海のように荒れはしないが、底知れぬ深さを思わせる色をしている。
岸辺には葦が群れ、ところどころに黒い岩棚が突き出し、
朝夕には霧が低く水面を這う。
遠く、白亜の崖が鈍い光を返していた。
「景色はいいっすね」
ダンが言った。
「客は呼べそうだ」
「景色だけで線は引かん」
匠一は答えた。
「乗る理由がいる」
「怪物とか?」
「なおさらいらん」
そう言いながらも、匠一は湖畔の道と集落の位置、
荷車の通れる幅、岸の勾配、船着き場の有無を見ていた。
観光客の目ではなく、運ぶ側の目で土地を測っている。
案内役の地元役人が、苦笑しながら肩をすくめた。
「ですが、このあたりで旅人を呼ぶ話となると、
どうしても“あれ”の話になりますな」
「あれ?」
ダンが食いつく。
役人は湖の沖を顎で示した。
「レッシーですよ」
ダンがにやりとした。
「出た」
匠一は眉一つ動かさない。
「何だ、それは」
「古代湖の主です。
学のある者はレシプオサウルスだの何だのと申しますが、
地元では昔からレッシーと」
「観光向けの作り話か」
「そう言う者もおります」
役人は曖昧に笑った。
「ですが、漁師や舟乗りで、まるきり信じておらん者も少ないですな」
「つまり、いることにした方が商売になる」
「身も蓋もありませんなあ」
ダンはもう半分その気になっていた。
「いいじゃないですか。
古代湖の怪物見物。湖畔駅。土産物。臨時便」
「まず足場と導線だ」
匠一は切って捨てた。
「客を呼ぶなら落とすな」
役人に案内され、一行は湖畔の小さな集落へ入った。
石と木で組まれた家々は風を避けるように寄り集まり、
舟小屋と網干し場が岸沿いに並んでいる。
昼だというのに、酒場兼寄合所の中には何人かの老人がいた。
漁に出るには風向きが悪いらしい。
その中のひとりが、役人を見るなり鼻を鳴らした。
「また線路屋か」
「線路屋ではありません。お偉い方です」
役人が言う。
「線路を引くなら線路屋だろうが」
もっともだった。
老人は深い皺の刻まれた顔で匠一たちを見た。
片目が少し白く濁っている。
だが、湖を見る目だけは妙に澄んでいた。
「で、何を聞きたい」
ダンが即答した。
「レッシー」
匠一が横目で睨む。
だがもう遅い。
老人はしばらく黙っていたが、やがて火酒の入った木杯を持ち上げ、
喉を湿らせてから言った。
「老人の語り部によると――」
その言い回しに、寄合所の空気が少しだけ変わった。
からかうように笑っていた他の老人たちも、口を閉じる。
「あの湖には、昔から主がおる。
晴れた日には見えん。
風の強い日にも出ん。
だが、朝靄が水面を這い、葦がひとつも鳴らんような朝にだけ、
沖の方から長い首がすうと立つことがある」
老人の声は大きくない。
だが、妙に耳に残る響きがあった。
「魚を追う獣の首じゃない。
舟を襲う竜の首でもない。
もっと古いものだ。
人がこの地に道を引く前、
王が王冠を戴くより前、
列石がいまより白く、
湖の水がもっと深く冷たかった頃から、
あれはあそこにおる」
ダンが身を乗り出す。
役人は苦笑しながらも止めない。
匠一は黙って聞いていた。
「学のある者は、古代湖に残った生き残りだの、
大蜥蜴の末だの、もっともらしい名を付けた。
レシプオサウルス。
そんな長ったらしい呼び名もあるらしい。
だが、湖畔の者はそんなふうには呼ばん。
ただ、レッシーと呼ぶ」
老人はそこで一度、窓の外の湖を見た。
「レッシーは人を好かん。
だが、むやみに害するものでもない。
舟を返したことはある。
網を引き裂いたこともある。
けれどそれは、人が湖の底を荒らしすぎた時だけだ」
「底を荒らす?」
ダンが聞く。
「昔、欲の深い領主がいた」
老人は答えた。
「湖の底には古王の財が沈んでいると聞きつけてな。
潜りを何人も入れ、鎖と鉤で底をさらわせた。
その晩、湖はひどく静かだった。
鳥も鳴かず、波も立たず、
まるで水そのものが息を潜めたようだった」
寄合所の中はしんとしていた。
薪の爆ぜる音だけが小さく響く。
「翌朝、領主の舟は沖でひっくり返っていた。
櫂は折れ、鎖は千切れ、
引き上げたはずの鉤だけが、
何か巨大なものに噛み潰されたように曲がっていた。
それ以来、湖畔の者は知っておる。
あれはただの獣じゃない。
湖の古さそのものだ」
老人は木杯を傾け、最後の一口を飲んだ。
「見たいと思って見えるもんじゃない。
だが、向こうがこっちを見ることはある」
ダンが、ほう、と息を吐いた。
完全に飲まれている。
「いいっすねえ……」
「よくない」
匠一は言った。
「線路予定地の近くにそういう話があるなら、
工事人足が勝手に騒ぐ」
老人が片眉を上げた。
「信じとるのか、信じとらんのか、どっちだ」
「騒ぎになる方を気にしてる」
「それがいちばん現実的だな」
役人が苦笑した。
老人は鼻を鳴らした。
「なら覚えとけ。
湖に杭を打つなら、岸を選べ。
底を騒がせるな。
昔からそうしてきた」
匠一はそこで初めて、少しだけ老人を正面から見た。
「根拠は」
「沈まんからだ」
簡潔だった。
だが、土地の者の言葉としては十分だった。
その日の視察は、湖畔の地盤確認と舟運の聞き取りで終わった。
匠一は役人とともに岸の勾配を測り、
集落から街道までの荷車道を歩き、
駅を置くならどこが最も人と荷を拾えるかを見て回った。
ダンは半分仕事、半分上の空で、何度も湖の方を振り返っていた。
夕方、帰りの馬車を出す前に、
ダンが岸辺で足を止めた。
「ちょっとだけ見ていきません?」
「何をだ」
「レッシー」
「見たいと思って見えるもんじゃないらしいぞ」
「じゃあ、向こうに見られるかもしれない」
「なお悪い」
そう言いながらも、匠一は完全には急かさなかった。
湖は夕霧をまとい始めていた。
水面は鉛のように重く、遠くの葦原は輪郭を失いかけている。
風は弱い。
鳥の声も、いつの間にか遠のいていた。
役人が小声で言う。
「……こういう時なんですよ」
「何がだ」
「出ると言われるのは」
ダンが目を細める。
「ほら、あそこ」
湖の沖合に、何かがあった。
最初は流木かと思った。
黒く、細長い影。
だが、それは水面に浮いているというより、
水の下から押し上げられているように見えた。
ひとつ、ふたつ、ゆっくりと波紋が広がる。
次の瞬間、影の先がすうと持ち上がった。
長い。
異様なほどに長い。
蛇のようでも、鳥のようでもない。
濡れた黒い柱のようなものが、霧の向こうで一度だけ水面から抜けた。
誰も声を出さなかった。
それはほんの数息のことだった。
影はまた静かに沈み、
残った波紋だけが、遅れて岸へ届く。
ダンがようやく呟く。
「……見ました?」
役人は青い顔で頷いた。
「い、いまのは……」
匠一は答えなかった。
目はまだ湖面を見ている。
やがて彼は短く言った。
「杭打ちは西岸に寄せる」
「えっ、信じるんですか」
ダンが振り向く。
「違う」
匠一は言った。
「東側は水深の落ち方が急すぎる。
さっきの波紋で分かった」
役人が目を瞬かせる。
「……本当にそれだけですか」
「それだけで十分だ」
だが、ダンはにやにやしていた。
絶対に信じていない顔だ。
帰り際、寄合所の前を通ると、あの老人が外に出ていた。
最初から知っていたような顔で、湖を背に立っている。
「見えたか」
と、老人は言った。
ダンが勢いよく頷く。
「見えました!」
老人は匠一を見る。
匠一は少し間を置いてから答えた。
「波を見た」
「そうかい」
老人はそれ以上は言わなかった。
ただ、皺だらけの口元をわずかに緩める。
「なら、それでいい。
見た者は見たように持って帰ればいい」
馬車が動き出す。
湖はもう霧の向こうに沈みかけていた。
ダンは何度も後ろを振り返りながら、
興奮を抑えきれない声で言う。
「これ、客呼べますよ。絶対」
「まず落下防止柵だ」
匠一は即答した。
「見物客が増えるなら足場も組む。
勝手道は封じる。
舟を出すなら許可制だ」
「夢がないなあ」
「夢だけ見せて落としたら終わりだ」
だが、その声はいつもより少しだけ遅かった。
古代湖の主。
レシプオサウルス。
レッシー。
本当にいたのかもしれないし、
霧と波が見せた錯覚だったのかもしれない。
匠一は最後まで断定しなかった。
ダンは最後まで信じた。
役人はたぶん、明日には半分ほど話を盛る。
それでよかった。
土地には土地の古さがある。
人が後から道を引き、駅を置き、客を呼んでも、
その前からそこにあるものまでは支配できない。
せいぜい、踏み荒らさずに横を通らせてもらうだけだ。
老人の語り部によると、
見たいと思って見えるもんじゃない。
だが、向こうがこっちを見ることはある。
その夜、湖畔の集落では、
漁に出る舟が最初の網を投げる前に、
ほんの少しだけ火酒を水面へ垂らしたという。
主の眠りを妨げぬように。
今日も湖を通らせてもらうために。




