鉄道国物語(匠一篇 鉄道国の沿岸警備隊と海軍)
見難い火傷の子374
鉄道国物語(匠一篇 鉄道国の沿岸警備隊と海軍)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
国はたいてい、船を持つ前に、まず船を持たずに済ませようとする。
そのほうが安い。
そのほうが穏当だ。
議会も通しやすいし、
役人も責任を薄くできる。
沿岸の見張りを増やす、
港の詰所を厚くする、
税関船を少し速くする、
灯台守に余計な報告まで書かせる。
最初はだいたい、その程度で済ませようとする。
そして大抵、しばらくは本当にそれで足りる。
足りるから困る。
足りているうちに、
次に足りなくなる時の準備をしない。
ジブラルタルゲート紛争が表に出てから、
鉄道国でもまず増えたのは沿岸警備だった。
海軍ではない。
そこまで大げさなものではない、
という顔を皆がしたがった。
工区周辺の見張りを増やし、
港湾詰所に人を足し、
夜間の小舟検分を厳しくし、
資材船に武装警備を乗せる。
名目はすべて治安維持と施設保全で、
誰もまだ“海軍”という言葉を使いたがらなかった。
言葉には値段がつく。
沿岸警備なら予算は通る。
海軍と言えば、
急に話が大きくなる。
艦を何隻持つのか、
誰の指揮下に置くのか、
どこまでを防衛と呼び、
どこからを威圧と呼ぶのか。
海軍という言葉は、
船の数より先に敵の数を増やす。
だから役人は、
最後まで別の名前で済ませたがる。
私はその頃、
北岸工区と南岸工区を行き来しながら、
沿岸警備の報告書もまとめて見せられていた。
本来の仕事ではない。
だが本来の仕事だけで済むなら、
紛争など起きていない。
工区外の入り江で見つかった焚火跡、
灯を消した小舟、
資材船への投石、
夜警の見間違いかもしれない影、
見間違いでは済まない切断索。
そういう細かい報告が、
土木の図面の横に積まれるようになると、
現場はもう半分、海に足を取られている。
沿岸警備隊の責任者として寄越されたのは、
鉄道国本土側の港湾監督官あがりの男だった。
名をハルヴァンという。
軍人ではない。
税関、港則、沿岸取締り、
そういう“戦争ではない海”を長く扱ってきた顔をしていた。
私はそういう人間を軽く見ない。
戦争の海しか知らない者は、
平時の密輸や小舟の癖を見落とす。
海は、撃ち合う前から面倒だ。
ハルヴァンは初対面で言った。
「私は艦隊を動かしたことはありません」
「今はまだ要らん」
と私は答えた。
「要るのは、
どこで船が嘘をつくか知っている人間だ」
彼は少し笑った。
「それなら多少は役に立ちます」
「多少で足りるうちに片づけば安い」
実際、最初の数週間は
沿岸警備の増強でどうにかなっていた。
小舟の検分を増やし、
工区近傍の夜間接近を禁じ、
資材船の航路を固定し、
港ごとに荷の照合を厳しくする。
それだけで、
露骨な嫌がらせはかなり減った。
人は取り締まりが増えると、
まず雑な悪さからやめる。
雑な悪さをやめたからといって、
悪さそのものをやめたとは限らないが。
海運で食ってきた者たちの反応は、
予想通り割れた。
港の顔役や中継商は露骨に嫌がった。
検分が増えれば荷は遅れる。
遅れれば銭が死ぬ。
しかも彼らにとって厄介なのは、
鉄道国の沿岸警備が
単に略奪者を締めるだけではなく、
海峡で値がついていた曖昧さそのものを削っていくことだった。
曖昧さは商売になる。
誰の荷か少し曖昧、
どこで積んだか少し曖昧、
何をどれだけ運んだか少し曖昧。
海で長く食ってきた者ほど、
その“少し”で冬を越す。
沿岸警備は、
まずそこから殺しにかかる。
一方で、
小さな船主や堅気の荷主は、
表向きの不満ほどには困っていなかった。
むしろ助かる者もいた。
略奪まがいの脅し、
顔役への上納、
夜の入り江で消える荷。
そういうものに怯えていた者にとって、
見張りが増え、
検分が厳しくなり、
護衛付きの資材船が通るようになるのは、
商売の自由を削られることでもあり、
同時に、
ようやく自由に近いものを買い戻すことでもあった。
秩序というものは、
だいたい誰かの自由を削って作る。
そして削られた自由の中には、
最初から無法と区別のつきにくいものが混じっている。
海では特にそうだ。
だから沿岸警備は嫌われる。
嫌われるが、
嫌われるだけで済むうちはまだ安い。
問題は、
沿岸警備で足りる範囲が思ったより短かったことだ。
最初にそれがはっきりしたのは、
南岸へ向かう資材船団の一隻が、
工区外の沖で進路妨害を受けた時だった。
拿捕というほど整ってはいない。
海賊というには人数が少ない。
だが、ただの漁船の揉め事で済ませるには
手際が良すぎた。
二艘の小舟が前へ出て、
一艘が後ろへ回る。
積荷を奪う気は薄い。
止めたいのだ。
止めて、遅らせて、
“海からでも工事は痩せる”と見せたい。
そういう手つきだった。
報告を読んだハルヴァンが言った。
「沿岸警備の船足では追いつきません」
「だろうな」
私は答えた。
「港の見張りは港までしか届かん」
彼は黙った。
その沈黙は、
自分でも同じ結論に着いている顔だった。
沿岸警備隊は、
本来、海を支配するための組織ではない。
港を見、
岸を見、
入ってくるものを確かめ、
出ていくものを数える。
海そのものを相手にするには、
船足も、武装も、
指揮の考え方も足りない。
沿岸警備は、
海の縁を整える仕事だ。
だが海峡紛争は、
その縁だけでは済まなくなっていた。
私はハルヴァンに聞いた。
「今ある船で、
工区外の沖まで継続して見張れるか」
「無理です」
「追えるか」
「相手が逃げる気なら難しい」
「止められるか」
「止めるだけなら、
こちらも最初から撃つ覚悟が要ります」
そこまで言って、
彼は少しだけ言葉を切った。
賢い。
その先にある言葉の値段を知っている。
「つまり」
と私が促すと、
ハルヴァンはまっすぐ言った。
「沿岸警備ではなく、
海上戦力が要ります」
ようやく誰かが、
帳面の外で本当の名前を言った。
海軍。
その言葉が出た瞬間、
話は急に汚くなる。
予算が増える。
敵も増える。
味方のふりをして口を出す者も増える。
軍は自分の指揮下に置きたがり、
役人は統制を失いたがらず、
商人は護衛だけ欲しがり、
港湾は検分権を手放したがらない。
海軍という言葉は、
必要性より先に縄張り争いを呼ぶ。
私はその手の揉め方を知らないわけではなかった。
昔、別の海でも、
最初は沿岸の見張りで済ませようとした。
次に港の取締りを厚くした。
それでも足りなくなって、
結局は輸送路そのものを守る船を持った。
国はたいてい、
必要に追われてからしか船を持たない。
そして持ったあとで、
最初から必要だったような顔をする。
あれはどこの海でもあまり変わらない。
鉄道国でも議論は長引いた。
海軍を持てば、
海運民はさらに反発する。
海峡で食ってきた者たちにとって、
それは死活問題だった。
鉄道が距離を殺し、
沿岸警備が曖昧さを殺し、
海軍が最後に逃げ道まで塞ぐ。
そう見えるのは無理もない。
実際、その通りの部分もある。
だが同時に、
海が痩せれば略奪に回る者が出る。
商いが死ねば、
昨日まで荷を運んでいた手が、
明日には荷を奪う手になる。
それもまた珍しい話ではない。
海運で生きる者たちにとって、
鉄道国の海軍は厄介だった。
商売を削り、
勝手を奪い、
海の作法を書き換える。
だが同時に、
事情が悪くなれば略奪に走る者たちから
航路を守る盾でもあった。
敵であり、
守り手でもある。
そういうものは、
だいたい長く嫌われる。
海軍創設の会議で、
連絡武官のエルナンは
最初から艦数の話をした。
何隻要るか、
どこに置くか、
有事にどう転用するか。
私はそういう話が嫌いだ。
船を持つ前に、
何を守るための船かを決めないと、
船はすぐに別の仕事を始める。
「艦の数を先に決めるな」
私は言った。
「先に決めるのは、
どの航路を守るか、
どの港までを守るか、
どこから先は守らないかだ」
エルナンは不満そうだった。
「守らない海域を先に決めるのですか」
「決める」
「弱腰に見えます」
「見えろ。
全部守ると言って守れないほうが高くつく」
ハルヴァンは黙って聞いていた。
彼は軍人ではないが、
海の縁を見てきた人間だ。
守れない約束が
どれだけ早く無法を呼ぶか知っている顔だった。
私は続けた。
「海軍は栄光のために持つな。
輸送路防衛のためだけに持て。
港湾、補給、修繕、沿岸詰所、
先にそこを整えろ。
艦だけあっても、
帰る岸が貧弱なら長持ちしない」
昔もそうだった。
船を増やすのは簡単だ。
維持する岸を作るほうが面倒で、
たいてい後回しにされる。
後回しにされた海軍は、
最初の数年だけ威勢がよくて、
そのあと急にみすぼらしくなる。
私はそういうのを何度か見た。
見たから嫌だった。
結局、鉄道国は
まず沿岸警備隊を正式組織として拡張し、
その上に、
工区防衛と海峡輸送路保全を主任務とする
小規模な常備海軍を置くことになった。
名目は最後まで慎重だった。
海上防衛隊だの、
海峡保全艦隊だの、
役人は色々な言い換えを考えた。
だが船に砲を載せ、
継続して沖を見張り、
必要なら武力で排除するなら、
それはもう海軍だった。
最初の艦は大きくなかった。
外洋制覇を夢見るような船ではない。
海峡と沿岸を走り、
資材船を護衛し、
小舟を追い、
工区外の沖で灯を消す船を見失わないための船だ。
速さと持久、
それに、
必要以上に大きな野心を積まないこと。
鉄道国の最初の海軍には、
そのくらいがちょうどよかった。
国はたいてい、船を持つ前に、まず船を持たずに済ませようとする。
だが輸送路を作れば、
次に要るのはその輸送路を守る手だ。
陸なら兵で済む。
海なら、
結局は船になる。
それは好戦の証ではない。
便利さが遠くまで届いた時、
その便利さを壊しに来る手もまた遠くから来る、
というだけの話だ。
鉄道国の沿岸警備隊と海軍。
帳面にはそう書ける。
だが私の頭の中では、別の言い方をしていた。
あれは軍備ではない。
海峡を短くした国が、
その短くした距離のぶんだけ増えた面倒を、
ようやく海の上でも引き受けると決めた日だった。




