鉄道国物語(商人のひとりごと)
見難い火傷の子365
鉄道国物語(商人のひとりごと)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
商人というものは、物の値段を知っている人間だと思われている。
それは間違いではない。
だが本当に商いで食っている者が見ているのは、物そのものより、
それがどこを通り、誰の手を渡り、どこで止められ、どこで値が跳ねるかだ。
塩も布も香料も鉄釘も、値札は市場で決まるように見えて、
実際には道の上で決まる。
道が細れば高くなり、道が閉じれば消える。
だから商人は、品物だけでなく、道にも値段をつけて考える。
その朝、私は第九東方連絡の三号車にいた。
東方国境駅を越えた先で、乾燥果実と薬草の束を引き取る約束があった。
表向きはそれだけだ。
表向きでない荷も、商人にはある。
それは別に珍しいことじゃない。
税を軽くしたい者、検分を避けたい者、正規の帳簿に載せたくない者。
そういう連中の都合を、商人は昔から運んできた。
運ぶのが物であるうちは、まだ話は簡単だ。
厄介なのは、紙を運ぶときだ。
切符、通行証、照会札、保護局の封印、審査印。
鉄道国では、人間ひとりを向こう側へ通すにも、物より紙のほうが重い。
紙が揃っていれば、子どもでも国境を越える。
紙が欠ければ、大人でも止まる。
だから紙には値がつく。
表では誰も口にしないが、裏ではちゃんと相場がある。
通行資格のある切符、照会の遅い旅券、焼いて印を潰した札、
誰かの名を一時だけ借りるための紙片。
私はそういう相場を知っている。
知っているだけで、いつも手を出すわけじゃない。
だが、知っているということは、いざというときに声をかけられるということでもある。
今回の話も、最初は大したことではなかった。
前の晩、宿で黒い手袋の男に声をかけられた。
顔はよく覚えていない。
覚えないようにしていたとも言える。
商売には、顔を覚えないほうが長生きする相手がいる。
「明朝の第九東方連絡に乗れ」
男はそう言った。
「三号車に保護局の子がいる。切符入れを一度こちらへ回せ」
「盗れというのか」
「拾え」
「同じことだ」
「違う。お前は拾うだけでいい」
「そのあとどうする」
「返す」
「返すなら、なぜ私が要る」
男はそこで少し笑った。
笑い方だけ覚えている。
「お前の鞄から出れば、話が散る」
その言い方で、ろくでもない仕事だとわかった。
だが、断るには遅かった。
こちらの名前も、いつもの宿も、扱っている荷も、向こうは知っている顔だった。
こういうとき、商人は勇ましいことを言わない。
言っても得にならないからだ。
私は値段を聞いた。
男は相場より少し上を出した。
それで受けた。
受けた時点で、もう半分は終わっていた。
私は自分を悪人だと思っていない。
そう言うと、たいていの人間は鼻で笑うだろう。
だが本当にそうなのだ。
私は人を刺したことはない。
家に火をつけたこともない。
戦で儲けたことはあるが、戦を起こしたことはない。
商人の罪というのは、だいたいそういう形をしている。
自分では何も始めていない顔で、始まったことの上を歩く。
発車前、私は三号車の様子を見た。
保護対象の子どもは窓側に座っていた。
痩せた肩に少し大きい外套。
小さな鞄。
こちらを見る目だけが妙に静かだった。
ああいう目の子どもは嫌いだ。
泣く子どものほうがまだましだ。
泣くなら、こちらも“困った客だ”という顔ができる。
黙って見てくる子どもは、こちらの言い訳の置き場をなくす。
車掌が最初の確認に来たとき、私はまだ別の席にいた。
切符も見せた。
形式上は問題のないものだ。
浅い審査印のことまで気にする車掌は少ない。
だが、あの男は少し目が細かった。
嫌な相手だと思った。
列車が動き出してしばらくしてから、私は三号車の席を移った。
空いていたから、というのは半分本当だ。
もう半分は、仕事のためだ。
黒い手袋の男は、二号車との境あたりを一度通った。
こちらを見もしなかった。
見ないことが合図だった。
私は子どもの向かいに座った。
「ここ、よろしいかな」
返事はなかった。
断られなかったので座った。
子どもは鞄を膝に抱えたまま、窓の外を見ていた。
私は商人らしく、何も急がない顔をしていた。
急ぐ顔をすると、相手も身構える。
商いでも盗みでも、それは同じだ。
機会はすぐ来た。
車掌が一号車側へ抜け、乗務補助も別の客に呼ばれた。
そのほんの短いあいだに、黒い手袋の男が子どもの席の背に手をかけた。
私は視線を窓の外へ向けたまま、手だけを少し動かした。
切符入れがこちらの鞄の口へ滑り込む。
見事な手際だった。
私の仕事は、そこから先だ。
本当なら、そのまま次の停車まで持っていき、
どこかで“拾った”形にするはずだった。
だが、予定が少し変わった。
黒い手袋の男が、連結部の陰で短く言った。
「印を潰せ」
私は顔をしかめた。
「聞いてない」
「今聞いた」
「焦がせば話が大きくなる」
「大きくしていい」
「子どもはどうなる」
「知るか」
私はそのとき、降りるべきだったのかもしれない。
だが列車はもう走っていたし、私はもう切符入れを持っていた。
途中で怖じ気づいたところで、きれいな側には戻れない。
だから私は、荷物用の小さな油灯の火を借りて、切符の端だけをあぶった。
ほんの少しのつもりだった。
審査印の端が潰れれば十分だと思った。
だが紙は思ったより早く焦げる。
火を離したときには、黒い跡が予想より広がっていた。
その瞬間、私はひどく嫌な気分になった。
金のためにやった。
脅しもあった。
だが、そういう言い訳が全部、焦げ跡の前では薄く見えた。
紙を焼くというのは、ただの細工じゃない。
その紙にぶら下がっている人間の行き先まで、一緒に焦がすことだ。
私はそれを知っていた。
知っていてやった。
それでも、まだ引き返せると思っていた。
適当なところで「床に落ちていた」と言って返せば、
車掌が嫌な顔をして終わるかもしれない。
国境前で少し揉めるだけで済むかもしれない。
商人というのは、悪い見込みでも、自分に都合のいいほうへ勘定したがる。
だが、子どもが先に言った。
「切符が、ない」
小さな声だった。
それで全部が決まった。
車掌が戻り、席の周りを見て、こちらへ来る。
私はその時点で、もう負けていた。
負けたとわかっていても、人間は最後まで見苦しい。
私は鞄を閉じた。
留め具が少しずれた。
それで終わりだった。
「鞄を確認させていただけますか」
「なぜ私のを」
「近くにおられたので」
「失礼だな」
そう言いながら、私はもう切符入れが見つかることを知っていた。
知っていて、なお“拾っただけだ”と言う準備をしていた。
商人は、損を確定させる瞬間まで、言い訳の値段を計る。
切符入れが引き抜かれたとき、車内の空気が変わった。
私はすぐに言った。
「床に落ちていた」
車掌は「そうですか」とだけ返した。
あの言い方でわかった。
信じていない。
だが、まだ全部は見せていない顔だ。
切符の焦げ跡を見られたとき、私はもう一度嘘をついた。
「拾ったときからそうだった」
自分でもひどい嘘だと思った。
だが、他に言いようがなかった。
黒い手袋の男のことを言えば、こちらが先に消される。
黙っていれば、少なくとも今すぐには終わらない。
そういう計算を、私はまだしていた。
車掌は低い声でいくつか聞いた。
私は拾った、知らない、最初からだ、と繰り返した。
証拠は、とも言った。
あれは半分は強がりで、半分は本音だった。
現場で証拠が揃うことは少ない。
揃わないからこそ、私のような人間が間に入る余地がある。
だが、その朝は違った。
子どもが何かを見ていた。
黒い手袋のことまで口にしたらしい。
それで私は、自分が末端の運び手ですらなく、
ただ話を濁すための泥除けに使われただけだと知った。
国境駅が近づくにつれ、私は腹が立ってきた。
怖かったのもある。
だがそれ以上に、使い捨てにされたことが腹立たしかった。
金は受けた。
仕事もした。
それでも最後に残る役は、全部こちらが被る。
裏の仕事というのは、いつもそうだ。
上にいる者ほど手を汚さず、下にいる者ほど“自分で選んだ”ことにされる。
列車が減速し、窓の外に給水塔と警備隊が見えた。
封鎖柵まで出ている。
緊急対応三。
そこまで行ったか、と私は思った。
子ども一人の切符で。
いや、違う。
子ども一人の切符だから、そこまで行ったのだ。
あの国では、保護対象の紙は、下手な貴族の紹介状より重い。
ホームへ降ろされるとき、私はまだ拘束具をつけられていなかった。
それがかえって惨めだった。
逃げる気がないと見られているのか、
逃げてもどうせ無駄だと思われているのか。
たぶん両方だろう。
警備兵に挟まれて歩きながら、私は一度だけ子どものほうを見た。
泣いていなかった。
こちらを睨みもしなかった。
ただ、もう何かが遅いと知っている目で前を見ていた。
ああいう目は嫌いだ。
自分の言い訳が、最初から届かないとわかるからだ。
商人というものは、物の値段を知っている人間だと思われている。
それは間違いではない。
だが本当は、値段のつくものと、つけてはいけないものの境目を、
知っていながら踏み越える人間でもある。
あの朝、私は切符一枚の値段を受け取った。
だが実際に売ったのは、紙ではなかった。
子ども一人が国境で“誰でもない者”にされるまでの、
ほんの短い手間と時間だった。
そして、そういう商いは、たいてい割に合わない。




