鉄道国物語(駅員のひとりごと)
見難い火傷の子361
鉄道国物語(駅員のひとりごと)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
駅員という仕事は、列車を動かす仕事だと思われている。
それも間違いではない。
だが実際には、動かすために止まり続ける仕事だ。
ホームに立ち、旗を持ち、荷を数え、扉を見て、人の流れを整える。
列車そのものは自分では動かせない。
それでも、こちらが一つ見落とせば、列車は簡単に止まる。
駅員というのは、そういう半端な場所に立つ仕事だ。
その朝、私は東方国境駅の第二ホームで、まだ開けきらない空を見ながら封鎖柵の脚を拭いていた。
夜のあいだに付いた泥を落としておけと助役に言われたのだが、
正直、こんなものを朝から磨かされる理由はわからなかった。
封鎖柵なんて、使わない日がいちばんいい。
使うときは、たいていろくでもない。
給水塔の影は長く、構内の石畳には夜露がまだ残っていた。
売店は半分だけ戸を開け、荷担ぎたちは眠そうな顔で荷車を押している。
通関待ちの貨車は一番奥で黙って並び、審査局の窓だけが先に灯りをつけていた。
国境駅の朝は早い。
早いくせに、何か起きる日は、いつも本当に起きる少し前まで静かだ。
「おい、そっちはもういい。第二線へ持ってこい」
助役に呼ばれて、私は柵を引きずっていった。
第二線、と聞いて少し嫌な気がした。
あそこは普段、特別列車か、問題を抱えた列車しか入れない。
しかも今日は、警備隊まで出てきている。
青灰色の制服が詰所からぞろぞろ出てくるのを見ると、朝の空気まで固くなる気がする。
「何かあるんですか」と私は聞いた。
助役は歩きながら言った。
「第九東方連絡。緊急対応三」
「三?」
「保護対象の未成年。切符がどうこうだ」
「切符で三まで行くんですか」
「ここは国境駅だぞ」
それでだいたいわかった。
いや、わかった気になっただけかもしれない。
国境駅では、切符はただの切符じゃない。
旅券で、通行証で、身元証明で、時にはその人間がここにいていい理由そのものだ。
だから切符がなくなったとか、焼けたとか、印が読めないとか、そういう話はすぐに列車一本を止める。
新人のころは大げさだと思っていた。
今は、大げさなくらいでちょうどいいのだと知っている。
第二線の前に柵を据え、縄を張り、見物人が寄らないよう導線を変える。
こういう仕事は地味だが、あとで必ず効いてくる。
人は空いているところへ流れる。
流れた先に騒ぎがあれば、勝手に覗く。
覗く者が増えれば、誰かが押し、誰かが怒鳴り、誰かが転ぶ。
駅の混乱というのは、たいてい悪意より先に好奇心で始まる。
審査官が書類箱を抱えて来て、保護局員が小声で何か確認し合い、
警備隊の分隊長がホームの端から端まで視線を走らせる。
駅長は腕を組んだまま、第二線の停止位置をじっと見ていた。
あの人は普段あまり怒鳴らない。
怒鳴らない人が静かなときほど、現場はよく回る。
逆に、よくない朝でもある。
遠くで汽笛が鳴った。
第九東方連絡だ。
蒸気の白い尾が平野の向こうに見え、やがて機関車の黒い腹が朝の光を受けて近づいてくる。
定刻に近い。
緊急対応三を抱えた列車が定刻で来るというのは、運転士も車掌もまだ崩れていないということだ。
それだけで少し安心する。
現場が崩れるときは、たいてい時刻から先に崩れる。
列車が第二線へ入ると、私は停止位置の標を見ながら旗を上げた。
機関車がきしみ、客車がひとつずつ揺れを収めて止まる。
蒸気が吐き出され、鉄の匂いが朝の冷気に混じった。
窓の向こうには、事情を知らない顔と、知ってしまった顔が並んでいる。
国境前の列車の客は、だいたい二種類に分かれる。
自分には関係ないと思っている者と、次は自分かもしれないと思っている者だ。
「扉、開きます!」
車掌の合図で、私は三号車の脇へ回った。
順番は決まっている。
まず審査官、次に保護局、そのあと警備隊。
駅員はその外側で、人の流れが崩れないように見ている。
中へ入る権限はない。
だが外で崩れたら、中の権限も意味がなくなる。
最初に降りてきたのは車掌だった。
帽子の位置も声も乱れていない。
ああいう人を見ると、車掌という仕事は顔で半分やっているのだと思う。
次に、商人風の男が警備隊に挟まれて降りてきた。
縛られてはいないが、自由でもない歩き方だった。
顔つきだけは腹を立てたままで、少しも困っているように見えない。
そういう客はたまにいる。
止められたことより、止めた相手のほうを恨む顔だ。
それから、保護局員に挟まれて、少女が降りてきた。
小さな鞄を胸の前で抱えていた。
泣いてはいなかった。
足元もふらついていない。
ただ、ホームへ降りたとき、一度だけ板の継ぎ目を見た。
それから顔を上げた。
助けを求める顔ではなかった。
怒っている顔でもない。
何かが起きるたびに、まず自分のほうが黙る癖のついた顔だった。
私はそのとき、妙なことを思った。
この子は、駅に着いたのではなく、手続きの中へ降ろされたのだ、と。
駅というのは本来、着く場所だ。
降りる場所で、待つ場所で、別れる場所だ。
だが国境駅では、ときどきそうじゃなくなる。
ここへ来た人間は、ホームに降りた瞬間から、客ではなく照合対象になり、
通行資格になり、書類の束の一部になる。
それが必要なことなのはわかっている。
わかっているが、見ていて気持ちのいいものではない。
「おい、ぼさっとするな」
助役に言われて、私は我に返った。
見物人が縄の近くまで寄ってきている。
私は手を広げて下がらせた。
「下がってください。確認作業中です」
「何があったんだ」
「列車事故か」
「密航者か」
好き勝手に言う声が飛ぶ。
誰も本当のことは知らない。
知らないくせに、騒ぎだけは自分のものにしたがる。
私はそういうとき、駅員でよかったと思う。
説明する権限がないから、黙って押し返せる。
三号車の窓から、まだ中の客たちがこちらを見ていた。
切符を握ったままの手、半分だけ開いたカーテン、席を立ちかけてやめた影。
列車の中で起きたことは、列車の外へ出た瞬間に別の形になる。
中では不安だったものが、外では噂になる。
中では沈黙だったものが、外では記録になる。
駅員はその境目に立っている。
しばらくして、駅長が助役に何か指示を出した。
写しを三部、という言葉だけが聞こえた。
たぶん記録のことだろう。
あの人はそういうところを抜かない。
あとで紙が減ることを、最初から知っている人の動きだった。
私は第二線の端に立ち、封鎖柵の向こうで進むやり取りを見ていた。
審査官が書類を開き、保護局員が少女に何かを尋ね、警備隊が商人の男を少し離れた位置に立たせる。
誰も大声は出さない。
大声を出さないほうが、かえって事の重さがわかる朝というものがある。
そのとき、ふと思い出した。
新人のころ、先輩に言われたことがある。
国境駅では、列車より先に人が止まる、と。
意味がわからなかった。
今なら少しわかる。
列車は時刻表どおりに来る。
だが人間のほうは、紙一枚、印ひとつ、誰かの一言で、そこで先へ行けなくなる。
切符をなくしただけ。
そう言うのは簡単だ。
だが鉄道国では、切符をなくすというのは、道をなくすことに近い。
どこから来たか、どこへ行けるか、そのあいだをどう証明するか。
その全部が、あの小さな札にぶら下がっている。
私は柵の脚を靴先で軽く押した。
朝のうちに泥を落としておいたせいで、ぐらつきはない。
こんなものでも、ちゃんと立っていれば、人の流れを止められる。
止められれば、守れる順番がある。
守れる順番があれば、誰かが勝手に“いなかったこと”にされるのを、少しは遅らせられる。
駅員という仕事は、列車を動かす仕事だと思われている。
それも間違いではない。
だが本当は、誰かの行き先が勝手に切り落とされないように、
ホームの端で、柵一本ぶんの時間を稼ぐ仕事なのだ。




