クラゲ仙人の里
見難い火傷の子265
クラゲ仙人の里
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
サンゴ人の都市《枝冠》を後にした《ソラ》は、さらに深い海域へと進んでいた。
タリアの資料には、こう記されていた。
――クラゲ仙人の里。
――時間の流れが薄い場所。
――老いない民。
「老いないって何だよ」
ダンが眉をひそめる。
「そのままの意味じゃない?」
マリーが軽く言った。
「深淵だし」
「深淵だし、で全部説明するな」
ダンが即座に返す。
キールは海図を見ながら、低く呟いた。
「この先は潮流が不規則だ。観測値が安定しない」
ニールが頷く。
「時間の流れが揺らいでる。計測がズレる」
「時間がズレるって何」
ハナが首を傾げる。
「わかんないけど……ちょっと怖い」
ショータは黙って海を見ていた。
水の色が、また変わっていく。
青でもない。
緑でもない。
桃色でもない。
薄い色だった。
色そのものが、どこか抜け落ちているような。
海が海であることを、少しだけ忘れているみたいな色だった。
「……なんか、静かすぎる」
ポンが小声で言う。
その時だった。
海中に、淡い光が揺れた。
ゆらり。
ゆらり。
光の帯が、海流に逆らうように漂っている。
「……クラゲ?」
ハナが呟く。
だが、それはただのクラゲではなかった。
巨大だった。
八倍どころではない。
《ソラ》と同じくらいの大きさの個体が、ゆっくりと浮かんでいる。
触手は糸のように細く、無数に分かれ、
その一本一本が淡い光を放っていた。
そして、声がした。
「……ようこそ」
誰の声でもない。
海そのものが喋ったみたいな、薄い響きだった。
「訪問者よ。あなた方は、急いでいますか」
匠一が短く答える。
「急いではいない」
「よかった。急ぐ者は、ここでは迷います」
光がやわらかく揺れた。
「私たちはクラゲ人。
老いず、急がず、忘れず、流れ続ける民です」
ダンが小声で言う。
「……やべぇの来たな」
マリーが少し笑う。
「深淵だし」
「だからそれで済ませるなって」
ショータは、その巨大な光のクラゲを見つめていた。
怖くはなかった。
ただ、胸の奥が静かになっていくような感覚があった。
クラゲ人は続ける。
「あなた方は、時間の民。
私たちは、時間の外側を漂う民。
互いに理解するには、少しだけ“間”が必要です」
光が、やわらかく揺れた。
「どうか、ゆっくり来て下さい。
急ぐと、あなた方の時間がほどけてしまいます」
匠一が短く言う。
「……行くぞ」
「行くんすね」
ダンが呆れた声を出す。
「招待されてる」
「理由が軽い」
「十分だ」
《ソラ》は、光のクラゲたちが漂う海へと進んでいった。
そこは、“時間が薄い海”だった。
◇
光の帯の中を進むにつれ、海はますます静かになっていった。
音が薄い。
色が薄い。
時間そのものが薄い。
「……ここ、ちゃんと息してる?」
ポンが小声で言う。
「してるよ。たぶん」
マリーが笑う。
「たぶんって言うな」
ダンが眉をひそめた。
クラゲ人の案内は、どこまでもゆっくりだった。
街と呼べるものはない。
建物もない。
道もない。
ただ、光の帯と、ゆっくり揺れる透明な柱のような構造体があるだけだった。
それでも、そこが“里”であることはわかった。
漂う光の配置に秩序があり、触手の揺れに意味があり、静けさそのものが生活の形になっていたからだ。
「……これ、どうやって暮らしてるの?」
ショータが呟く。
クラゲ人が答える。
「生活という概念は、私たちには薄いのです」
「薄いんだ……」
「私たちは漂い、学び、忘れず、老いません。
必要なものは、必要な時に流れてきます」
「便利すぎない?」
マリーが笑う。
「便利ではありません。
ただ、急がないだけです」
その言葉は、どこか眠気を誘うような響きだった。
◇
最初に案内されたのは、光の回廊だった。
巨大なクラゲたちの触手が、ゆるやかに交差し、海中に淡い道を作っている。
その下を《ソラ》が進むたび、光の色が少しずつ変わった。
「きれい……」
ハナが見上げる。
「これは“記憶の色”です」
クラゲ人が言った。
「あなた方が通ったことを、海が覚えます」
「海が覚えるのか」
キールが低く呟く。
「忘れないために?」
「はい。忘れないために」
ショータはその光を見ていた。
自分が通ったことを、どこかが覚えていてくれる。
それは少しだけ、救いに似ていた。
◇
次に見せられたのは、“時間の泉”と呼ばれる場所だった。
海中にぽっかりと空いた空洞。
そこだけ、水の流れが止まっている。
いや、止まっているように見えるだけではない。
近づくと、本当に何かが止まっている感じがした。
ニールが計測器を見て、珍しく少しだけ眉を動かした。
「……計測値がゼロだ」
「ゼロ?」
ユキが聞き返す。
「時間変位、観測不能。流れがない」
ダンが顔をしかめる。
「だから何なんだよ」
クラゲ人は穏やかに答えた。
「ここは“休む場所”。
時間を置いていく場所です」
「置いていくって何だよ」
「あなた方には難しいでしょう。
私たちは、時間を持ちすぎると重くなるのです」
ポンが小声で言う。
「何か、わかりそうで全然わかんないな」
「でも、ちょっとわかる気もする」
マリーが静かに言った。
匠一は何も言わず、その空洞を見ていた。
理解したのか、していないのかはわからない。
ただ、目は逸らさなかった。
◇
最後に案内されたのは、“記憶の触手”だった。
巨大なクラゲの一本の触手が、他よりもゆっくりと揺れている。
光は弱い。
だが、近づくと不思議と目が離せなかった。
「触れても構いません」
クラゲ人が言う。
「あなた方の記憶を奪いません。
ただ、少し覗くだけです」
「覗く?」
ショータが小さく聞き返す。
「あなたが忘れたくないものを、私たちは忘れません」
ショータはしばらく迷ってから、そっと触れた。
触手は冷たくも温かくもなかった。
ただ静かだった。
その静けさの中に、何かがあった。
言葉にはならない。
けれど、確かに“見られた”感じがした。
クラゲ人の声が、すぐ近くで響く。
「あなたは優しい」
ショータは目を伏せる。
「あなたの“痛み”は、まだ形になっていません」
その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れた。
痛みはある。
でも、まだうまく言えない。
まだ、自分でも形がわからない。
クラゲ人は、それ以上は何も言わなかった。
◇
観光の終わりに、光のクラゲたちは《ソラ》の周囲をゆっくりと漂った。
「あなた方は、急ぐ民。
私たちは、急がない民」
海そのものが囁くみたいな声だった。
「ですが――あなた方の“今”は、とても美しい。
老いるからこそ、輝くのです」
マリーが少し首を傾げる。
「……なんか、褒められてる?」
「たぶん」
ダンが答える。
匠一が短く言った。
「帰るぞ」
クラゲ人が静かに問う。
「急ぐのですか?」
「急ぐ必要はない」
匠一は前を見たまま答える。
「ただ、進むだけだ」
光が、やわらかく揺れた。
「それで十分です。
あなた方の時間は、あなた方のものですから」
《ソラ》はゆっくりとクラゲ仙人の里を離れた。
海は静かだった。
時間も静かだった。
ショータは振り返る。
光のクラゲたちが、まるで手を振るように揺れていた。
忘れない場所がある。
急がなくてもいい時間がある。
それでも、自分たちは進んでいく。
《ソラ》は、薄い海の色を抜けていった。




