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2.介護職員の目撃談(Nov. 25, 2024, at 2 p.m.)

 M市にある「グループホーム アニモ!」はアットホームが売りの高齢者介護施設だ。認知症の進行を緩和させることを目的に、少人数での共同生活を送る介護サービス付きのシェアハウスといったところか。認知症の程度は様々だが、元気なお年寄りが多い。元気というのは専門的な医療ケアを必要としないという意味だ。なまじ動けるからこそ目が離せず、自宅での介護も大変だ。僕は事務方ではないので、その苦労を直接聞くことはそんなにない。ハードだが、必要な仕事だと誇りをもってケアを行っている。

 スタッフとしての僕の勝手な意見だが、認知症は忘れてしまうことよりわからないことが怖くて問題が起こりやすいように思う。自分がわからないから混乱している。そんなふうに見える。自分がなぜ自由に外に出られないのか、ここがどこなのか、自分が何をしているのかがわからないという怖さ。理解できない状況が続くのだから、怒りや悲しみが沸き上がっても仕方がない。感情の振れ幅も大きくなって歯止めが利かなくなる。攻撃的になることも、塞ぎ込むこともある。もちろん、誰にだって機嫌の悪い日はある。でも、僕は体の調子が悪かったり、嫌なものを見たりして機嫌が悪いと理解できる。理由がわかればいくらか納得できて、心に折り合いをつけられる。

 認知症は目が覚めたら異世界にいるような感覚なのではないかと僕は思う。日が経てば順応するとしても、毎日が違う世界だったら。逃げ出したくもなる。弱音も暴言も吐きたくなる。入居者の皆さんは新しい世界に一喜一憂し、ときには戦って日々を過ごされている。表現はあまりよくないが、僕は皆さんと一緒に戦っている。異世界で最初に仲間になるお助けキャラが僕たちだ。僕はどうしてもお風呂に入ってほしくて風呂の気持ちよさを説くところから始めてみたり、もう夜であるとカーテンを開けて伝えてみたり、可愛いタオルが自分のものではないことを滲んだ油性ペンの文字から訴えてみたりする。相手は一人の人間で、僕よりうんと大人だ。明日も同じように対応ができるとは限らない。臨機応変に、ちょっとでも心強い仲間だと思ってもらえるように接している。

 この業界でやっていく覚悟はなかったが、適正はあったのだと思う。嫌われない愛嬌と、仕事と割り切ったら寛容になれる性格だ。正直、やりたくて始めた仕事ではなかったのだが、次々と人が辞めていくなかで僕は「まだいける」という感覚があって、事実まだやれている。「そんなバカな」の連続で理不尽さもあるけれど、飽きない世界だと思う。生きているかぎり人は老いていく。いつか訪れる困難を先に予習しているのだから、学びがないとは決して言えない。これから認知症になったら、今考えていることをすっかり忘れているかもしれない。わからない恐怖が僕を待っている、けれど、たくさんの老いを知っているなら、立ち向かえるかもしれない。逆にもっと怖くなるかもしれない。僕はまだ24歳で、この先どうなるかなんてわからない。

 その日、僕は3階で暮らしている橋本さんというおじいさんと公園を散歩していた。

 橋本さんはおでかけが好きで、風呂はあまり好きではない。普段は座りながら昼でも眠っているので、できるだけ起こすようにしつつも、人員不足のためそのまま寝ていてもらうこともある。時々、かっと目を見開き「うるさい!」と言う。すると強気な入居者の山口さんと言い合いになる。お互いが何を言っているのかわからないこともあるけれど、なぜか言い合いはできて、引くに引けないじいさんとばあさんの罵りあいを聞くことになる。どちらかの拳が出ないように他のスタッフと一緒に二人を遠ざけ、隅で縮こまっている怖がりの夏川さんにもう大丈夫ですよとフォローを入れる。それが昼食後の出来事だ。

 頭に血が上った橋本さんを落ち着かせる魔法の言葉のひとつを今日は行使できる。「ちょっと気分転換にお散歩しましょうか」だ。男同士の約束は守らねばならないという大義名分と、事前におでかけする曜日であったことと、僕もお日様に当たりたかったからだ。利用者の外出は認知症の程度や性格によってまちまちだが、橋本さんはおでかけで調子が戻ることが多い。お助けキャラにもサボりは必要だ。この仕事に着いて長い僕はわりと施設で融通が利くようになっている。

 エレベーターで下に降りて、橋本さんはゆっくりと外履きに履き替える。スロープもゆっくり下っていく。もどかしいような。急に走られるよりはいいような。できるだけプライドを傷付けずに、僕は寄り添って歩く。僕は杖であり、ナビであり、橋本さんの良き友人である。11月後半、肌寒いかと思われたが日差しはまだ暖かい。橋本さんに薄いジャケットを羽織らせたものの、暑くはないかと不安になる。つんとする垢のにおいが風に乗っていて、明日こそはお風呂だ。一大イベントであり、叶わないこともある。

「いいお天気ですねぇ」

 ふんと橋本さんは頷いた。あれだけキレキレになっていた先とはうってかわって、外に出ると穏やかな空気をまとっている。ダイニングで目を閉じて椅子に座ったままの橋本さんは近寄りがたい修行僧のようにも見えるから不思議だ。キレているときは火山のようで、そのギャップに驚く。どちらが橋本さんの素なのかわからない。僕は認知症になる前の若い橋本さんを知らない。自分のことを語ってくれる入居者の方もいるが、橋本さんは語りたがらない。

「秋なので、柿とか食べたいですね。おやつで出るかも」

 今度のふんは鼻息のみだ。イエスかノーかもわからないが、僕は「ですね」と返事をする。便利な言葉だと思う。施設から徒歩6分、橋本さんの足で15分かけて、広い公園に出る。幼児を連れたお母さんや、同じように日に当たりたいお年寄りたちがぽつぽつと木製のベンチに腰を下ろしていた。

「とりあえず、ぐるっと一周しましょう」

 歩幅を合わせながら聞くと、今度はしっかり首を振り、藤棚を指差した。何も覚えていないようで、そうでもないことに安心する。藤棚の下にある石造りのベンチは今日も薄暗いせいか空いている。そこが僕と橋本さんの憩いの場だ。僕の膝掛けエプロンのポケットには残り4本となった煙草がある。

「1本だけですからね」

 そうお決まりの台詞を言い、僕と橋本さんは静かに一服する。

 僕が橋本さんの風呂キャンセル4日目のにおいに敏感なように、橋本さんは僕の煙草のにおいに敏感だった。休憩時間に必ず一服しているのだが、消臭剤のスプレーでは誤魔化しきれていない。ゆるやかな坂を上り、藤棚の下にたどり着いて、初めて「わかば」と口にしたときはなんのことだかさっぱりわからなかった。わかばは古いたばこの銘柄だ。あまり喋らない橋本さんの「1本くれ」という言葉で、僕はつい吹き出したことを覚えている。

 ちなみに、入居者の方の施設内での喫煙も、この公園でも喫煙は禁止されている。でも、ようやく心の端っこを見せてくれた気がして1本だけこっそり渡している。男の子だもの。不良にならないと……みたいな言い訳を煙で吐き出す。煙はおそらく藤のパワーで浄化されるので大丈夫だと思う。この時間が一番ゆっくりと流れている気がして、僕は橋本さんと散歩するのが好きだ。

 橋本さんが灰を地面に落とすと、そのまま指の隙間から煙草が1本落ちた。

「あちゃー。残念っすね」

 僕が橋本さんの落とした煙草を拾い上げようとすると、橋本さんが急に立ち上がり駆けだした。完全に気を抜いていた。橋本さんが家に帰りたがっていることを十分把握していたつもりなのに。

 いつも亀のような足取りの橋本さんのどこにそんな力があったのか。しかし、火事場の馬鹿力がお年寄りにもある。勢いをつけると誰でも力が出てしまう。しかし、橋本さんの身体は気持ちに追い付いていない。また橋本さんの靴は走る用にもできていない。足はもつれ、坂からずるっと倒れそうになるのがスローモーションのように見えて、僕も転びそうになりながら追いかけた。間に合え。下敷きになってでも。必死に手を伸ばしたとき、斜め前から全速力で何かが駆けてきた。馬だ。そして、馬に乗った誰かが手を伸ばし、倒れる前の橋本さんを捕まえた。橋本さんを担いだまま、馬は僕のそばを通りすぎていく。馬も急には止まれないのだ。急いで振り返ると、宙に浮かんだ橋本さんの目が点になっている。なんと橋本さんは馬に乗った男ではなく、白い馬の身体をした人間の男に抱えられていたのだ。

「大丈夫ですか? どこか痛みは?」

 駆け寄ると、白馬の人はにこりと微笑み橋本さんをそっと地面に立たせてくれた。驚いてよろめく橋本さんの身体を支え、先のベンチに腰掛けさせた。見たところケガはなさそうだが、施設に戻って報告しなければならない。事故報告書、娘さんへの連絡、今後の身の振り方を頭で一気に考えつつも、まず言わなければいけないと白馬の人に頭を下げた。

「ありがとうございます! マジで助かりました!」

「いえいえ。今朝うっかり人を殺しかけたので、おじいさんを助けてチャラにならないかと頑張ってしまっただけです」

 白馬の人が何を言っているのかわからないが、僕は何を言っているのかわからない人との対話に慣れているため、すかさず返事ができる。

「死んでないなら、きっと大丈夫っす」

 これは所長の受け売りである。よくはないが、最悪ではない。「後悔のない介護はない」と研修の先生が言っていた。後悔するほど入居者の皆さんと向き合いなさいという意味だ。本当に数えられないほど後悔して、必死に相手と向き合っていると思う。それが免罪符にはならなくても、そう思わなければやっていられない。二人で罪を許し合うような不思議な時間が流れるなかで、橋本さんはようやく声を発した。

「あんた、神さまか?」

 白馬の人はとんでもないと首をふった。

「そんなに大それたものではありません」

「なあ、あんた。乗せてってくれ。俺を家に帰してくれ」

 こんなに切実に頼む橋本さんの姿を見るのは初めてだ。どんなに僕らが仕事をしても橋本さんの本当のホームにはなれない。当たり前のことがいつも少しだけ寂しい。橋本さんの異世界は苦痛の連続で、真に安らげる場所は多分ここではない。

「すみません。先約がいまして」

 しかし、白馬の人はあっさり断ってしまう。どこか浮ついた言い方で、デートの予定のようにも聞こえる。

「そうか……」

 橋本さんの肩が震えているので、僕はそっと肩に手を添えた。橋本さんは僕の手を振り払うことなく、乾いた手でぎゅっと握った。血管の浮き出た大人の手でも、守らねばと思ってしまう。

「疲れた。帰る」

 橋本さんはゆっくりと立ち上がる。向いているのはグループホームの方角だ。たとえ偶然だとしても、それだけで僕はまた橋本さんのとなりを歩ける。助けになりたい。そんなチョロい僕だから、「まだいける」のだろう。


白馬の人は僕らと反対の方を向いている。僕はその広い背中、引き締まった僧帽筋に向けて声をかけた。

「白馬のお兄さん! デートなら、髪切って、オシャレしたほうがいいっす!」

 メッセージが届いたかはわからない。風のような速さで消えてしまったからだ。

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