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凪の歌  作者: 仙葉康大
第一章
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ありがとうございました

 オムレツを食べ終わると、凛さんが和室の掛け時計を見上げて言った。


「船の時間もあるので、すぐお(いとま)させていただきます」

「港まで送りますよ」と彦おじさん。


 寺の裏の道からなら車で下山できるのだ。

 玄関で、ボストンバックを肩に掛け直す凛さんに、私はDVDを返そうとした。


「やるよ」

「いいんですか?」

「別に貴重な品ってわけでもない」

「でも、私にとってはすごく貴重な品です。凛さんと出会えた記念の品だから。母のことを教えてくださり本当にありがとうございました」


 凛さんは何でもないと言うように手を振って出て行く。あ、振り返った。


「凪。お前、どこでだって歌は歌えるって言ったよな」


 言った。確かに言った。


「でもな、桜水じゃないと歌えない歌だってあるんだよ」


 そう言い残して、凛さんは行ってしまった。


 玄関の内側に一人残された私は、もらったDVDのケースを握り締めていた。そうだ。歌劇の続きを見よう。


 和室に行き、DVDをセットし、続きから再生する。


 舞踏会のシーンだ。役者さんたちがタイミングをそろえてターンを決める。誰一人として早すぎたり遅すぎたりしない。


 主役のお母さんは、当然、舞台の真ん中で踊っている。王女様と踊っている。素早い振り付けの最中、顔の角度を少しだけ変え、客席へ笑顔を見せたり片目を閉じてみたりと、動きが細かい。


 舞踏会を抜け出した兵士ロトと王女は、城の裏に広がる森へ行く。湖畔を見つけ、腰を下ろし休む。


「今頃、お父様が私達を探しているかも」

「捕まったら俺は死刑だな」

「そんなの嫌。こんなことなら、ずっと城の中に引きこもっていた方がよかったわ」

「本当に?」


 兵士ロトの訊き方は、人の心の奥底を打つ。私は、自身の心に波紋が起こるのを見つめていた。


「外へ出ないと、行ってみないと、分からないことはたくさんある。王女。あなたはその気になれば、どこへだって行ける」

「きれい言はよしてちょうだい」


 王女の言う通りだ。どこへでも行けるなんて嘘だ。与えられた場所で生きるしかない場合だってある。交通機関がどんなに発達しようと、行けない場所だってあるんだ。


「分からない人だな。結局、あなたは怖いんだ」


 違う。私は怖くなんかない。


「自分の本心に蓋をして、一生を棒に振るなんて、かわいそうな人だ」


 違う。違うったら違う。


「だって私一人じゃ、行きたい場所へなんて行けっこないわ」

「そのために俺がいる」


 手を差し伸べる兵士ロトの姿に、凛さんの姿が重なる。


 王女が手を伸ばす。でも、触れるか触れないかのところで手を取るのをためらう。兵士ロトが、いや、お母さんが言う。


「あなたはどうしたい?」


 私は。


 お母さんが息を吸う。歌う前のブレスだ。桜水じゃないと歌えない歌を、これから歌うんだ。


 歌いだしと同時に私は駆け出す。障子を開けっぱなしにして廊下を走る。手を振って走る。玄関で靴に足を突っ込んで、履きながら外へ出る。指を使ってかかとを靴に入れると、苔の生えた庭園の踏み石を二つ飛ばしで跳んで行く。長い長い石段を駆けおり、凛さんと歩いてきた道を逆走する。カーブの多い下りだ。普段は全力疾走なんてしないけど、今はする。凛さんに言わなきゃならないことがある。


 速く。もっと速く。

 急カーブ。

 自身のスピードを殺しきれず、けつまずき、肩から前のめりになって転ぶ。痛い。痛いよ。


 何やってるんだろ、私。


 何でこんなに急いでるんだろ。名刺をもらったじゃない。言いたいことがあるなら、電話をかければいい。


 首を振り、肩を押さえて立ち上がる。一歩、踏み出す。もう一歩。さらに一歩。


 電話じゃダメに決まってる。直接言わなきゃ。


 歯を食いしばり、走る。一回転んだんだから、あとは何回転んでも同じだ。そう思うと、視界が広くなって、その後は一度も転ばず下山できた。


 中学校の校門前を過ぎた頃には、息が切れていた。肺活量には自信あったのに。でも、港まであと少しだ。


 前から車が来た。彦おじさんの車だ。停まり、車窓が開いた。


「凪、どうした? 陸井さんが何か忘れものでもしてたかい?」


 私は足を止める。この人を無視して行くのは、間違っている。


「私」

「肩、汚れてるじゃないか。転んだのか? 怪我は? 念のため、このまま病院行って見てもらおう。乗りなさい」

「乗れない」

「ど、どうしてだい?」


 私は顔を上げて、彦おじさんの目を見据えて言う。


「凛さんに会いに行かなきゃいけないの。会って言うの。桜水に行きたいって。桜水で歌いたいって。だから、彦おじさん」


 一度言葉を切って、呼吸を整える。


「ごめんなさい」


 腰を折って謝る。車体に前髪の毛先が触れた。つまるところ私は、育ての親と桜水を秤にかけて、桜水を選んだんだ。会ったこともないお母さんに会える可能性や、何より、あの舞台でしか歌えない歌を選んだんだ。彦おじさんがどんな辛辣な言葉を吐いても受け止めよう。それがせめてもの償いだ。


「なんで謝るんだい?」


 穏やかな口調だった。私は顔を上げてしまう。彦おじさんは眉を下げて、口の端も下げて、でも、笑っているように見える、不思議な表情をしていた。


「船が出るまであと五分もない。送っていこう。乗りなさい」

「いいの?」

「いいから」


 私は、瞳に浮かぶ熱い液体を拭いながら、車の中へ滑り込む。シートベルトを締めるより先に車が発進した。


 私、彦おじさんに助けてもらってばっかりだ。


「彦おじさん、無理しなくてもいいんだよ。反対してもいいんだよ」

「凪こそ、僕の顔色をうかがわなくていいんだよ」彦おじさんは私と話すとき、自分のことを僕と言う。

「だって育ててもらった恩が」

「恩があるのは僕の方だ。十五年もこんな冴えないおじさんと暮らしてくれた。文句一つ言わずに」

「文句なんて、あるわけない」


 涙がぶり返してきて声が濁る。


「きっと凪も僕もお互いに気を遣い過ぎていたんだな。知らなかったよ。凪が姉さんのことを知りたかったなんて。知りたくないんだろうなって勝手に決めつけてた。ごめんな」

「ううん。ううん」


 視界がにじんでて、今、どこらへんを走っているのかも分からない。


「凪は凪のしたいようにすればいい。僕も応援するから」

「彦おじさん、優し過ぎるよ」

「姉さんもよくそう言ってた」


 車が停まった。涙を人さし指で払い、窓の外を見る。平らなコンクリートの先には海が広がっている。港だ。着いたんだ。


「時間がないぞ。凪」


 彦おじさんが腕時計を確認している。私はドアを蹴って外へ飛び出す。足が着いた瞬間、汽笛がなった。凛さんを乗せた船が港を離れて行く。


 待って。まだ言ってない。


 走る。けど、船は速度を上げていく。港の先の先まで来たときには、船は人の頭ぐらいの大きさになっていた。


 間に合わなかった。


 うなだれる私を慰めるように潮風が吹いた。風が抜けて行った方は、浜辺だった。凛さんに発声や歌い方を指導してもらった浜辺。


 要はブレスとイメージだ。

 凛さんの声が頭に響く。

 まだだ。まだ届く。


 港から突き出ている波止場の先へ走る。体を力の限り動かすと、出そうとも思わなくても声が出た。


 着いた。一歩先は海だ。船はまだ見える。瀬戸内海は島が多いから、早くしないと、他の島の陰に隠れてしまう。


 呼吸を整えている時間はない。体中の息を吐き切って、一瞬で吸う。

 イメージはまっすぐ。海面が、私の声の速さに凹むぐらい速く。


「凛さーーーーーーーーーん」


 デッキの人影が動いた気がする。気のせいかもしれない。聞こえてる確証なんてない。でも、言うんだ。


「私、桜水で歌いたいですっ」


 桜水でないと歌えない歌を。お母さんに負けない歌を。


「だから、待っててください。絶対、いつか、すぐっ、お母さんを追い越してみせます」


 最後のブレスをする。


「今日はご指導、ありがとうございましたーーーーーー」


 私の母、水野美咲は、青架那美という芸名で舞台に立ち、桜水歌劇団のトップオブトップスターと呼ばれるまでに至った。


 なら、私は?


 瀬戸内海の小島に生まれ、十五年間、周りの人の優しさに包まれて、甘えて生きてきた、どうしようもない私は、何者になれるのだろうか。


 もう船が見えなくなった海へ私は歌う。桜水の頂を目指す中三の女子って、私以外にもいるかも。そんなことを思いながら、今日凛さんに習った歌を独唱する。

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