十五年
現れたのは、彦おじさんだった。彦おじさんはこの寺のお坊さんだから、黒い袈裟を着ている。まだ中年だが、頭には髪の毛が一本もない。月一で島の床屋へ行き、丸坊主にしてもらっている。
「あなたは」
「お邪魔してまーす」
凛さんが笑顔を作る。
「陸井さん、凪になんてものを見せているんですかっ」
「違うの。私が凛さんに頼んだの」
彦おじさんは顔だけのけぞらせて私を見た。
「凪が? どうしてだい? もしかして姉さんのことを知りたかったのかい?」
私はうなずけなかった。彦おじさんも雛ばあも、私の為を思い、私が辛い思いをしなくていいように、お母さんの話題を避けてこれまで生活してきたのだ。今さら、本当は知りたかったなんて言えるはずがない。
「そうですよ。凪は知りたかったんです。ずっと」
凛さん、空気読んでよ。
「いや、えっと。そうだけど、そうじゃないっていうか。色々複雑で」
私は顔の周りで手を振ってごまかす。彦おじさんは、私と凛さんのどちらを見たらいいのか迷っている様子で、首を忙しなく動かしている。
「とりあえず止めさしてもらいます」
机上のリモコンを取って停止ボタンを押した。彦おじさんの指先ひとつで、劇は、時が止まったかのように静止した。
物語はまだ終っていないのに。兵士ロトと王女アンキルティアの恋が実るか否か、ハッピーエンドで終わるのか、それとも悲恋で締めるのか、最後まで見ないと分からない。分からないんだよ、彦おじさん。お母さんがどんな人なのか。
「凪。見たいのかい?」
彦おじさんが一度は置いたリモコンをまた手に取った。私が見たいと言えば、彦おじさんは再生ボタンを押してくれるだろう。でも、それじゃあ駄目だ。私が押さないと、駄目なんだ。
押せるわけがない。彦おじさんは十五年間も私を育ててくれた。参観日や運動会などの学校行事にも必ず出席してくれた。テストでいい点数を取ると褒めてくれたし、悪い点数を取っても、責めたりしなかった。だから私は、本当のお母さんなんてどうでもいいよって顔をしなくちゃいけないんだ。十二分に幸せなんだから。
「見たいに決まってるでしょう。何止めているんですか。リモコン貸してください」
さっきから凛さんが、私じゃ言えないことを的確に発言していく。地雷を踏み抜いていく。
「あなたは黙っててください。私と凪の問題だ」
「違います。凪と那美さん、母娘の問題です」
「なら陸井さん、あなただって関係ないじゃないですか」
「那美さんがどういう役者だったか。私が伝えないで、誰が伝えるんですか? というか、どうして凪に話してないんですか? 桜水の基礎知識ぐらいなら、あなたでも教えられるでしょう?」
「なっ。ふざけたことを言わないでください。凪はまだ子供だ。大人になりきっていない、繊細な時期に、目の前にいない母親のことを話して聞かせても、傷つくだけだと思いませんか?」
「もうやめて」
私は声を絞り出した。
二人ともすぐ口論をやめて、私の方を見てくれる。どんなに小さい声でも気づいてくれる。ありがとう。ごめんなさい。
「彦おじさん、お昼になったからこっちに帰って来たんだよね? 昼ごはんにしよう。凛さんも食べていってください」
「え? いいのか? いいんですか?」
凛さんは私と彦おじさん両方へ尋ねた。彦おじさんがため息をつきながらも、返答する。
「島だと飲食店も限られますから、どうぞ食べていってください。なぜあなたがウチを訪ねて来たのかなど、詳しい話は食事の席で聞くことにします」
「じゃ、ご厚意に甘えさせていただきます」
よかった。何だかんだ言っても二人とも大人だ。議論が白熱しても、いったん冷静になれば、大人の対応を取ることができる。
DVDは止めたままにして、私は台所へ行った。和室に隣接しているので出入りはしやすく、食事を運ぶのも容易いのだ。
冷蔵庫を開けて食材を確認する。
オムレツにしよう。
まな板を出して、玉ねぎを薄く切っていく。包丁はできるだけリズミカルに。そう雛ばあに教えられた。次、人参を細かいブロック状に切る。
凛さんが近寄って来た。
「お前、料理もできるのか」
「いえ。得意なわけじゃないんですよ」
「凪は料理得意ですよ」
彦おじさんが私と凛さんの間に割って入って来た。
「今、私が凪と話してるんで、引っ込んでもらってても結構ですよ?」
「いやいや陸井さんこそ、お客様なんですから、あちらで座っておくつろぎください」
駄目だこりゃ。私は無視してひき肉を炒める。
「凪、手伝おうか? 私、那美さんと同棲してたときは、家事全般をやってたって言ったろ。料理もそれなりにできるぞ」
「結構です。凪の料理アシスタントはずっと私だったんだ。凪を一番上手くサポートできるのは私だ」
「どうしてあなたは私の邪魔ばかりするんですか?」
「あなたが凪の邪魔をしているからでしょうが」
大の大人がまた口論している。
「あの、手伝いは大丈夫だから、二人とも座って静かに待っていてもらえると、すごくありがたい、かな」
「でも」
同時に同じ言葉を発した二人に、私は無言の笑みを向ける。顔の薄皮一枚めくったところに真意を潜ませて。それを嗅ぎ取ったのか、二人もまた無言で台所を出て行った。
卵を割ってからはすぐだった。
完成したオムレツをレタスやミニトマトと一緒にお皿に盛って、和室へ運ぶ。野菜スープもつけた。インスタントだけど。
一畳よりも大きな長方形の座卓に、お皿やマグカップを並べて行く。凛さんと彦おじさんは向かい合って座っていて、私はどこへ座ればいいか、考えなくてはならなかった。どちらかの隣に座ったら、二対一の構図ができ上がる。どっちの味方もしたくないというより、どっちの敵にもなりたくなかったから、二人の横顔が見える位置に座った。
手を合わせ、声をそろえて「いただきます」と言い、食べ始める。まるで家族みたい。
凛さんは一口食べると、すぐ二口目を口へ運んだ。
「うまい。何だこれ。レストランで食べるのよりうまいぞ、凪」
「ありがとうございます。でも、褒め過ぎです」
「凪の料理は世界一ですから。当然おいしい。地球上にこのオムレツ以上においしいものなど存在しませんよ」
彦おじさんの親バカならぬ姪バカが炸裂した。状況が悪化する前に、多少強引でも話題を変えてしまおう。
「ところで、凛さんはなぜ青架島に来たんですか?」
「那美さんを探しに来たんだよ」
「いませんよ。十年以上、島には帰ってません。先日電話で話したでしょう?」
知らなかった。この二人、電話で話してたんだ。彦おじさんのことだから、お母さんの関係者と電話してることを私に悟られないよう、色々工夫したんだろうな。単に、私が家にいない平日の昼間に電話がかかってきただけのことかもしれないけど。
「いないのは承知しています。ですから、正確に申し上げると、那美さんを探す手がかりを探しに来たのです」
「この家に手がかりなんてありませんよ。姉さんの私物は全て処分してあります」
「あの、そもそもなぜお母さんを探してるんですか?」
「桜水へ呼び戻すためだ」
凛さんの答えを聞いて、彦おじさんが額に手をつく。
「あの人をまた舞台に立たせる気ですか?」
「違います。今度は教える側に立ってもらいます。次の世代が育たないと桜水に未来はありませんから」
「向いてませんよ。天才は指導に向かない。分かるでしょう?」
凛さんは反論しなかった。
「すみません。私が意見することではなかったですね。とにかく、島まで足を運んでいただき恐縮ですが、手がかりなんてありませんし、姉さんを探すのに協力する気もありませんから。とんだ無駄足でしたね」
「いいえ。無駄足になるどころか、とんでもない収穫がありました」
凛さんが私を見る。そのまま視線を離してくれない。
「どういう意味です?」
「桜水の未来が楽しみだという意味です」
「私も馬鹿じゃありません。あなたの考えなんてお見通しですよ。あなたは凪を桜水に入れる気だ。姉さんの血を引く凪が欲しいんだ」
彦おじさんの言葉を咀嚼した途端、私はオムレツの味が分からなくなった。舌が麻痺した代わりに、頭は冴えてきた。凛さんが私を桜水へ誘ったのは、私がトップスター青架那美の娘だから、か。そりゃあそうか。結局、私そのものを求めてくれる人なんていない。
「おい」
空気が変わった。
凛さんはたった二音、発しただけだ。なのに、空気が痛い。肌の表面に静電気が走っているみたい。凛さんに睨まれた彦おじさんは、
「な、なんですか?」と声を震わせた。
「失礼。あまりにあなたが誤解しているので、つい」
「誤解? な、凪を桜水へ連れて行く気はないと、お、仰るつもりですか?」
彦おじさんはまだビビっている。無理もない。さっきの凛さん、本気だった。だから怒気が外へにじみ出たんだ。
「連れて行きます。将来的には、桜水の舞台に立ってもらいたい」
「ほら、私の言う通りじゃないか。姉さんの血を引く凪を利用して」
「違います」
声を被せて否定した。
「青架那美の娘が欲しいんじゃない。水野凪が欲しいんだ」
凛さんはもう彦おじさんに話していなかった。それは、私に向けられた言葉だった。
どうしよう。面と向かって欲しいとか言われたの、初めてだ。体温が上がっていく。
「お前、今中学生なんだろ。何年だ?」
「三年ですけど」
「ちょうどいい。今年の冬、桜水音楽学校を受験しろ。合格すれば、来年の春から楽しい楽しい修行時代だ。二年後卒業し、晴れて桜水歌劇団の仲間入り。簡単だろ?」
彦おじさんが机を叩いた。食器が一、二ミリ浮き上がった。
「騙されるな、凪。桜水はそんな甘いところじゃない。まず、桜水音楽学校に入るのすら難しいんだ。バレエと声楽を何年も学び、それでも受かるかどうか分からない、倍率三十倍オーバーの難関校なんだぞ。定員はたったの四十名。合格しても――」
「数字だけ見てると難関だが、受かる奴は受かる。バレエと声楽を習ったことのない奴が初受験で合格し、トップスターやトップ娘役にまで登りつめた例だってある」
「そんな極々(ごくごく)一部の、何十年に一人の話をされても困ります」
凛さんと彦おじさんが意見をぶつけ合っている中、私はというと、うつむいてオムレツを食べていた。私はどうしたいか、なんて言うつもりはない。言いたくない。
「おい、凪。お前はどう思っているんだ? 桜水を受験する気はあるのか?」
「凪を急かさないでください。この件に関しては、私と凪でよく話し合って結論を出します」
「私は凪に今の気持ちを訊いているんです。迷っているなら、迷ってるでもいい。すぐ決められなくてもいい。今どう思ってるか、話せ」
命令口調なのに、なぜか凛さんの声は温かい。
私は顔を上げる。でも、いざ言おうとすると、唇が震える。
「私や陸井さんに気を遣うことはない。正直な気持ちを言えばいい」
「凪、お前はどうしたい?」
桜水の舞台で歌い踊っている自分を、想像してみる。フリルの多いドレスを着て、ソプラノをホールに響かせる。共演する役者の顔は真っ黒だ。客席には誰もいない。いや、一人いる。お母さんだ。
私が桜水の舞台に立ったら、お母さん、見に来てくれるかな?
「私は」
彦おじさんと目が合う。目じりの皺が優しく歪んだ。
十五年。
この人は、自分の子でもない、ただの姪である私を十五年間育ててくれた。小言一つ言わずに。
「歌いたいです。歌はどこでだって歌えます。だから私、桜水に行く気はありません」
最後の方は声が掠れちゃったけど、言えた。
凛さんが深いため息をついた。
「そうか。分かった。お前の言うことも正しいな」
「すみません」
「謝る必要はない。お前が決めたなら、それでいいんだ。あと、桜水に来る気がなくても、私とお前はもう友人だ。困ったことがあったら連絡しろ」
凛さんはジャケットのポケットをまさぐって名刺を取り出し、指で弾いて私の方へ飛ばした。電話番号とメールアドレスが書いてあるけれど、私がここへ連絡することはまずない。できないよ。申し訳なくて。私を必要としてくれたのに、期待に応えられなくてごめんなさい。




