あんなふうに
真っ暗な画面に「桜水歌劇団鯨組公演『ハプスブルクの鷲』」と白い文字が浮かんだ。
「桜水には現在五つの組がある。鯨、海月、海豚、鮫、海胆の五つだ」
「全部、海の動物ですね」
「那美さんはずっと鯨組だった。鯨組と言えば青架那美。引退して十年以上経った今でもそう言われてる」
「ちなみに凛さんは何組だったんですか?」
「私は五つの組すべてを経験した。あ、でも、鯨組に所属していた期間が一番長いな」
ブザー音と共に幕が上がる。
暗いステージに硬い足音が響く。スポットライトが照らした場所に男の人が立っていた。背が高い。凛さんと同じぐらい。紅の軍服を着ていて、腰にはサーベルを装着している。鷹のように鋭い目を客席へ向け、言った。
「今日もあの人は窓を開けて、あの美しい横顔を月の光にさらしてくれるだろうか。それともついに俺を見捨てて、カーテンさえも閉め切ってしまうだろうか。どちらにしても俺は行くしかない。行くしかないのだ」
よく響く低音の声だ。そうか。後ろの方の客席にいる人にもセリフが伝わるように喋ってるんだ。
ナレーションが入った。
「時代は十八世紀、ウィーンにてハプスブルク家は全盛期を迎えていた」
「たしか、貧しい家の出の兵士とハプスブルク家王女の恋物語だったと思う。詳しいことはDVDのジャケットに書いてあるあらすじでも見てくれ」
凛さんがけっこうテキトーな解説を入れてくれた。
「お母さんはヒロインの王女役ですか?」
「何言ってるんだ。那美さんならもう出てる」
画面には、開幕一番セリフを言い放った主役の兵士ロトしか映っていない。
「出てるって、あ、もしかしてナレーションの声の人ですか?」
「那美さんはトップスターだ。即ち、公演の主役を務める。この歌劇の主役は?」
「兵士ロト」
「つまり?」
「私のお母さんは、男だった?」
凛さんの肩が片方だけ急激に下がった。
「何でそうなる? 那美さんは女で、男の役をやっているだけだ。桜水歌劇団の役者は女性だけだから、男の役をやる女の役者はたくさんいる」
「なるほど。って女だけ? 困りません? 女の人が男になりきるって大変だと思うんですけど。胸とか腰つきとか肩幅とか違うじゃないですか? 声だって」
しかし、テレビから聞こえてくる声は、下手したら現実の男より男らしい。気をつけて聴けば、かすかに艶があるけど、違和感を感じるほどじゃない。
桜水では、男を演じる役者を男役、女を演じる役者を娘役と呼ぶらしい。
「ま、女が男になるってのは、並大抵のことじゃない。でも、不可能じゃない。実際、お前は兵士ロトが那美さんだと気づかなかっただろう?」
私はつばを飲み込みながら頷く。
「この人が、私のお母さん」
今一度、兵士ロトの顔を見つめる。やっぱり目力が強い。でも、威圧するような感じじゃない。力強い眼差しでちゃんと自分を見てくれている。そんな気持ちになるのだ。真っ黒な瞳の中に吸い込まれそう。他の役者が視界に入らなくなる。流石、トップオブトップスターだ。
でも、この人は私を捨てたんだ。
心の奥底に沈めておいたはずの感情が、浮き上がって来た。手が震える。震えが止まらない。これ以上、凛さんに気を遣わせてはいけない。震える両手を背中に回す。でも、震えは手から腕、背中へと伝わっていった。止まって。お願い。
「恐いか?」
兵士ロトと凛さんが同じ言葉を発した。お母さんは決闘のシーンを演じている。
凛さんは座ったまま私の方へにじり寄り、私の手を両手で包み込んだ。
「恐いか?」
もう一度、さっきよりゆっくり言った。私は、凛さんからもテレビからも視線を逸らして、畳のへりを見つめたまま頷く。
「でも、恐いだけじゃなくて、舞台に立つお母さんをかっこいいな、すごいなって単純に思う私もいて、あと、自分の親だって言われても未だに信じられないって気持ちもあるし、それ以外にも胸に収まりきらないほどの感情が湧いて、溢れて、自分が分かりません」
結果、自分の体の震えすらコントロールできないで、凛さんに迷惑をかけてる。
「そうだよな。分からないよな」
凛さんは私の手をほぐすように揉んでくれた。温かくなった指先から震えが止まっていく。
「もう見たくないか? 知りたくないか? 今なら引き返せるぞ」
「見ます。知りたいです」
「お前、やっぱ根性あるよ」
違います。凛さん。根性なんてありません。凛さんがいなかったら、私は、ただ震えるだけしか能のない、悲劇のヒロイン気取りのずるい女の子でしかない。自分一人じゃ何もできない。その証拠に、産まれてから今日まで、私はお母さんのことを知ろうとしなかった。彦おじさんや雛ばあに質問しなかった。
「私のお母さんはどんな人でした?」
「私生活はだらしなかったな。一時期、同棲してんだ。那美さんと。で、部屋とかすぐ散らかすんだよ。服は脱ぎっぱなしだし、化粧品の入ってた箱は数えきれないほど放置するし、漫画雑誌は溜まっていくしで大変だった。皿洗いはしない。洗濯もしない。風呂掃除もするわけない」
家事全般は凛さんがこなしていたと言う。
「そんなだらしのない人が舞台ではああだ」
テレビの画面に肩から上がアップになっている兵士ロトは、まぶたを閉じた。代わりに開いたのは唇だった。ブレスが聞こえてきたので、私は身構える。予感がした。来る。
アー。
あなたに次、会えるのはいつだろうか。
単純な歌詞が旋律となって、私の胸を通過していく。痛いのと温かいのが一緒くたになって届いている。歌は止まらない。休符すら歌になっている。視野が狭まる。兵士ロト、桜水鯨組トップスター青架那美以外が見えなくなる。駄目だ。もってかれる。
アー。
別の声が加わった。女性の高音域、ソプラノだ。この公演のヒロイン、王女アンキルティアだ。裾の長いドレスを擦りながら、歌いながら、兵士ロトへ一歩一歩近づいて行く。
「鯨組トップ娘役紅森真姫。別名、紅姫」
凛さんの解説は続く。
「トップスターとトップ娘役は互いを支え合うパートナーだ。阿吽の呼吸以上のコンビネーションが求められる」
王女の歌声はまっすぐというより、螺旋を描きながら伸びて行く感じだった。広がりがある。耳触りが柔らかくて、私は体の緊張を解いていく。でも、緩み切って眠気が訪れるなんてことはない。兵士ロトの声がそれをさせない。芯のある、決して折れない歌声が、私を戦慄させる。鳥肌が立ち、背筋が痺れる。
まだ二人の歌声は溶け合っていない。敢えてそうしているのが、歌の端々から伝わって来る。
兵士が王女の手を握ろうとした刹那、アイコンタクトが交わされた。私は二人との間に線を引かれたような心地になった。一瞬とも呼べないような短い時間だったが、この二人は全観客を無視して、二人だけの世界を構築した。絶対そうだ。だって目が違った。相手の嘘をすべて見通せるぐらいに澄み切った瞳だった。
どうして私は、王女アンキルティアじゃないのだろう?
もし私が王女だったら、あの場にいたら、お母さんの瞳を見ることができたら、自分が存在している理由を見つけ出せる。きっと。
鯨組のトップスターとトップ娘役がそろって息を吸った。そして、歌う。デュエットだ。これが、二人で歌うということなんだ。さっきまでは、それぞれが自身の個性を見せつけていた。兵士ロトの声と王女アンキルティアの声を聴き分けることができた。でも、今は違う。聴き分けられない。楽譜が手元にあっても無理だと思う。だって、今聴いているこれは、歌じゃない。切り分けることのできない世界だ。二人が構築した世界の片隅に私は立っている。けれど、何もできないでいる。
それでいいの?
よくない。私だって歌える。凛さんに教えてもらったんだ。
息を吸って声を出す。
「ッ」
空気をひっかくような極小の音が漏れただけだった。喉が痛いほど乾燥していて、声が出なかった。
「凪?」
凛さんが背中をさすってくれる。私はお茶を一口飲んで、でも、もう歌う気にはなれなかった。
「私もお母さんや紅森さんみたいに歌えるかなって思ったんですけど、ダメでした。二人の歌声に緊張して委縮して、口の中も喉も乾き切って、一音たりとも発せない」
「無理もない。この二人の歌声を聴くと、私ですらビビるんだ。だから自分を恥じなくていい。むしろ褒めてやりたいぐらいだ。この二人と一緒に歌おうと思うなんて、大馬鹿か天才のどっちかだからな」
「多分、私は大馬鹿の方ですよ」
「大馬鹿だとしても褒めてやる。よくやった」
兵士と王女の歌が終わった。舞台が暗転する。歌の余韻もなくなって、緊張し切っていた体が弛緩すると、つい言ってしまった。
「私もあんなふうに歌えたらなあ」
「歌えるよ」
即答だった。私はまばたきをして、凛さんの言葉がどういう意味かを考える。ああ。冗談か。あり得ないことを、突拍子もなくあり得ると言って笑わせる手法だ。
凛さんの視線がテレビから私へと移る。
「お前なら歌える」
「面白いです。けど、笑わせないでくださいよ」
「凪。お前さ、桜水に来いよ」
「え?」
待って待って待って。どういうこと? 桜水歌劇団を見に来いってこと?
「無理強いはしない。でも私は、舞台に立って歌うお前を見てみたい」
「ぶぶぶ舞台に立つって何言ってるんですか? あ。観客も舞台に立てるようなサービスがあるってことですか? 今どきの劇場は進んでるんですね」
「何を勘違いしている? お前は桜水音楽学校に入学して、学び、卒業して、役者として舞台に立つんだよ」
「そんなこといつ決まったんですか? 私、初耳ですよ」
「今決まったんだよ。今。あんなふうに歌いたいって、お前言っただろうが」
私も凛さんも声が大きくなっていて、歌劇鑑賞どころではなくなっていた。互いの両手を押したり引いたりしながら話し続ける。
「無理に決まってます。私の歌を下手くそって言ったの、凛さんじゃないですか」
「馬鹿。見込みがあるからそう言ったんだ。下手くそなんてのは、最上級の褒め言葉だろうが」
すごく褒めてくれていたんだと知って、私は頬が熱くなる。顔の表面が溶けちゃうんじゃないかってぐらい熱い。
そのとき、
「そこにいるのは誰だ? 凪、大丈夫か?」
男の声と共に襖が勢いよく開いた。