001
青天の霹靂によって、瞬きの間に世界が一変した。
私立豊夕大学付属鹿子木高校の屋上から見えていた鹿子木市の町並みは一瞬の内に消え失せ、代わりに何処までも続くと知れない樹海が視界の全てに広がっている。鬱蒼と隙間なく繋がる樹木の大海原は、動物の鳴き声らしいもので騒々しいが、その声からは既知の動物の姿は全く想像ができない。
何か、悪い夢でも見ているんじゃあないだろうか?
北沢誠は昼飯の冷凍食品を適当に詰め込んだ余りにも男らしい巨大なおにぎりを取り落としそうになりながら、木製のベンチから腰を上げる。誠の身長は二か月前の健康診断の時点で約一九五センチ。体重は恥ずかしいので秘密にしておくが、その身体には筋肉が鎧のように身に付けられており、一〇〇キロを下回ると言うことはないだろう。手も足も首も太く、黒色の学生服を着たその姿は、遠目では熊にも見えるかもしれない。
「白昼夢って奴か?」
一番現実的なことを口にしてみるが、あまりにも現実感がない。誠は首を傾げておにぎりを大きな口で齧る。しっかりと冷凍食品の味がする。特別上手くはないが、自分が料理するよりも遥かにマシなその味は、昨日とも少しも変わらない。少なくとも味覚には異常はなさそうだ。ついでに臭いを嗅いでみると、やはりおにぎりの臭いは正常に感じることができた。口の中の触覚にも問題はなく、異常な光景は、特別誠の目がおかしくなってしまったから、と言うわけではなさそうだ。
ならば、疑うべきは自己ではなく景色の方となるのだが、地平線の彼方まで続く樹海を真実だと認めるのもまた抵抗がある。百歩譲って津波で全てが流されてしまったと言うのならわかる、千歩譲って隕石が落ちて来てクレーターが出来たと言うのなら仕方がない。が、突如として木々が生えて来るなんて言うことが有り得るだろうか? 成長の早い植物は目視でも成長がわかると言うが、幾らなんでも瞬きの間にこれは有り得ないだろう。
それにだ、元々あった寂れた街は何処へ行ってしまったのだろうか? あの見たこともない形をした樹の下に隠れているのだろうか? が、樹の密集具合から考えると、どうにもそうは思えない。
「限界状況だな……」
これ以上、一人で考えても仕方ないと呟き、誠は誰かに相談することを決める。昼休みに誠が居着くようになってから屋上に他の人間の姿はない。校舎に戻って誰かを捕まえる必要があるだろう。人殺しである誠と快く喋ってくれる同級生は数人しかいないが、そのうち一人の居場所はわかっている。生徒会長である友人は生徒会室を半ば私物化しているのだ。
そうと決まれば、誠はおにぎりを一気に片付けにかかる。明らかに高校生が必要とする一日のカロリーの量を超えているようなサイズだが、誠はその大口で当然の様にそれを平らげていく。
と、そんな誠に近づいて来る影が一つ。それは、変わることのない青い空からやって来た。最初は小鳥でも降りて来たのかと誠は思った。牢獄の様な鉄格子に囲われた屋上への来客者としてスズメは珍しい存在ではなく、誠の数少ない友人だ。向こうは、米粒をくれる都合の良い存在としか思っていないだろうが。
しかし誠の二.〇の視力が捉えたのは見慣れた友人ではなかった。
掌に乗るような可愛らしい大きさと、一対の翼までは一緒だ。しかしその顔にはつぶらな瞳がない。可愛らしい嘴がない。代わりに象の鼻のように伸びた謎の部位があり、その先にクワガタの顎のような歯が並ぶ口が付いている。全体を覆うのは羽毛ではなく黒色をした鱗。羽根が生えているのに、手と足らしきものが一対ずつ生えているのも不可思議だ。動物の翼と言うのは前足が進化した物であり、前足と翼を持つ生き物と言うのは昆虫を除いて存在しない。
それはつまり……どういう事だろうか? 首を傾げながら誠は手にしたおにぎりの具である安っぽい食べかけのウインナーを引き抜くと、小悪魔っぽい見た目の謎の生き物へと腕を伸ばす。それは差し出されたウインナーの周りをグルグルと飛び、様子を伺い始める。どうやら知性らしいものはあるらしい。
それは暫く警戒をしていたが、最終的には食欲が勝ったらしく、象の鼻のように伸びた口で誠の太い指からウインナーを奪い取った。一体どうやって食べるのかと興味を向けるが、小悪魔は恩知らずの礼儀知らずでもあったようで、グラウンドの方へと飛んで溶けるように消えて行ってしまった。
おにぎりをぱくつきながらグラウンドを見下していると、他の生徒達もこの異常事態に自分なりの解決策を見出そうとして動き始めているのが見えた。主に男子生徒達が校門を抜け、森の中へと走って行っている。
「クソ。俺が先陣を切りたかったのに!」
その姿に、誠は膝を叩いて真剣に悔しそうに嘆く。が、今更どうしようもない。残りのおにぎりを一気に食べ切って屋上の出入り口へと向かう。こうなったら、生徒会長云々を言っている場合ではないかもしれない。自分もグラウンドへと急ぐべきだろうか? 少しだけ考えて首を横に振る。取り敢えずは友人と合流する方が優先度を高くしておいた方が良い。状況がわからない以上、知恵の回る人間と一緒にいることはマイナスにはならないだろう。
錆の浮いた扉を開け、教室棟の屋上から遠く離れた特別棟の一回を目指す。
鹿子木高校は総生徒数一〇〇〇人程度の私立高校だ。生徒の大半は親学校である豊夕大学に進学するが、『特別進学科』の生徒は国内のもっと有名な大学に行ったり、『国際進学科』の連中は海外の大学に進学したりもする。スポーツにも結構な力を入れており、オリンピックの時期になると卒業生を応援する垂れ幕が校舎に下げられることも少なくない。
その校舎は巨大な『日』型をしていると言えばわかりやすいだろうか? 一年生から三年生の生徒達の教室が並ぶ四階建ての教室棟と、職員室や特殊教室が並ぶ同じく四階建ての特別棟、そしてそれらを繋ぐ渡り廊下が校舎の端と真中を繋ぐ。上からみればその形は感じの日になると言うわけだ。他にも高い塀に囲まれた敷地に内には広いグラウンド、全校生徒が入る体育館、室内水泳場に武道館や部室棟、二階建ての図書館等、流石私学と言いたくなる施設の充実ぶりである。
階段を殆ど落ちる様に下りながら誠が確認した所、それらの建物に異常はない。どうやら三メートル程のコンクリート塀を境界として森になっているらしい。敷地の外の野球部やサッカー部用のグラウンドは漏れなく森の中だ。
また、生徒の様子もチェックを入れる。四階は風紀委員長が統率を取っているようであったが、この異常事態を纏めるには至らない。二階や三階から下級生が押し寄せて来ているのがその原因だろう。主に男子生徒で、より高い場所からこの異常事態を見て見ようと言う物見高い連中が集まっているようだ。誰も彼もが興奮してはいるが、未知への不安が森へ行くと言う選択を消しているように思える。ならば女子はと言うと、明らかに異質な出来ごとに混乱して泣き出したり、気絶してしまったりした者がいるようだった。ただ、気の強い娘を中心としてある程度纏まりは見せているようでもある。
どちらにせよ、取り敢えずは様子見と言ったところか。
途中何人かと擦れ違い、怯えられながらも一階に降りた誠は、そのまま渡り廊下を渡って特別棟へと足を伸ばす。そとの様子を窺うことが出来ない中庭には人はおらず、グラウンドや校舎へと走る者が多く目に留った。どうやら、生徒会長様を頼ろうと言う人間は誠だけのようだ。
特別棟の一階。職員室の反対側に生徒会室は用意されている。隣には生徒会議室と生徒会倉庫と看板が出ている。誠はどちらにも入ったことがない。横開きの扉を大きな手で開け、誠は「おい。いるか?」とノックもなしに生徒会室に入った。
生徒会室は、現在生徒会長しかいない生徒会には勿体ないくらい広い。普通の教室と同じくらいの敷地面積に加え、パソコンが乗ったスチール製のデスクを五つ寄せ合わせたくらいしか物がないから余計にそう感じるのかもしれない。
「ん? 誠ちゃん。遅かったね。待ちくたびれちゃったよ」
そんな生徒会長室の主人。三年A組(特別進学科)真壁創志は酷く退屈そうに誠の無礼な入室に応えた。デスクチェアに座り、デスクの上に長い脚を放り投げている青年が、現在の私立豊夕大学付属鹿子木高校生徒会長である。もっとも、会長と呼ばれるよりも《人払い》等と呼ぶ者の方が多いのだが。その渾名は、彼と同じクラスになった生徒は、小学生時代から例外なく全員が『不登校児』になってしまうことに由来している。生徒会室を私物化していると言うのも、決して休みの間に勝手に利用していると言う意味ではない。学校の顔でもある特別進学科の生徒が全員不登校になってしまった為、創志をこの生徒会室に隔離しているのだ。生徒会役員が現在創志しか在籍していないのも、誰もが創志と同じ生徒会役員になりたくないからと言う面が大きい。
「結構急いで来たんだけどな」
喋りながら勝手知ったる生徒会室のデスクに誠は腰を下ろす。普通の椅子では誠の尻を置くには少し小さい。創志は無作法を無視して、手にした菓子パンを一口食いちぎった。そして何か考えるように目を閉じて咀嚼をした後、
「ふーん。君が慌てるようなことがあったわけで? そう言えば、何処か騒々しいね」
如何にも何も知らないように誠に問うた。『遅かった』等と言ったからにはある程度事情はわかっている癖に。誠はそう言い返そうと思ったが、生徒会室の窓からは、中庭しか覗くことができないことに気が付く。この部屋にいる限り、状況の変化に気が付くのは不可能だ。だとすれば、何も知らないのだろうか?
しかしそうなると説明が難しい。いや、説明は簡単だ。学校の周囲が突如として森に囲まれてしまっているのだから、そう説明すれば良い。しかし見たことがない人間にそれを信じさせることが出来るだろうか?
となれば、『一目瞭然』『百聞は一見に叶わず』の言葉通り、直接にその目に焼き付けて貰うしかあるまい。
座ったばかりだが、誠は立ち上がる。
「珍しい物を見られるぞ? 取り敢えずこの部屋を出て、屋上にでも行こう」
「何だ? 校庭にティラノサウルスでも入って来たのか? まあ、良い。偶には僕も他の生徒に顔を見せておいた方が良いかもしれないしね」
疑問符の様に首を傾げながらも、創志は菓子パンをもう一口頬張りながら腰を上げた。立ち上がると、誠程ではないが上背があり、手足が異様に長いことが目立った。それでも誠と比べれば常識の範囲内で、男ながらにモデル体型とでも言うべきか。
生徒会室を出て、二人並んで廊下を歩く。教室棟と違って特別棟には生徒達は溢れてはいない。昼休みに訪れる理由もないので当然だろう。人通りのない階段を、気持ち速いテンポで上がって行く。
「誠ちゃん」
そして、三階の窓から外の景色を見た創志は、顔色一つ変えることなくやる気なさそうに髪の毛をかき混ぜていった。
「屋上へは行かない。職員室に行こうか」
誠は黙って頷き、踵を返す。
一階にまで降りた二人は職員室の扉を開ける。八〇人近い教師や部活動の指導者達に用意された机には誰一人として座ってはいない。蛻の空と言うやつだ。まだ、死体でも転がっていた方が良かっただろう。机の上に広げられた弁当箱や、淹れたてのコーヒー。つい先程までヒトがいたと言う気配が不気味さをより強調している。
「メアリー・セレスト号かよ」
「誠ちゃんは例えが古いなあ。僕は軽子坂高校を想像したよ」
「この学校で魔人皇がいるとしたら、お前がはまり役だと思うが?」
「残念ながら、僕は何も知らない」
肩を竦め、創志は教師のパソコンの画面を見たり、キーボックスからいくつかの鍵を抜き取って自分のポケットに収めたり、テレビのリモコンを何度も押したりと、やりたい放題に職員室を物色していく。
誠もそれに倣い、ノートパソコンのマウスを操作してインターネットに接続するが、画面には接続できないとの文字が表示される。良く見ればノートパソコンは内臓のバッテリーで動いており、充電器がコンセントに繋がっているにも関わらず充電されていない。電気が来ていないと考えるのが自然だろう。そとの景色からみれば、地下を走る電力供給の電線が全て切断されていても不思議はないのだから。
と、そこで誠は携帯電話を取り出す。当然、圏外だ。メールも電話も機能していない。もしかしたら、時刻すらも正しくないかもしれない。
その後、二人は無言で三分程の時間をかけて職員室を荒らすが、最初に発見した以上のことを見つけ出すのは難しかった。教師のパソコンの壁紙だとか、弁当のおかず等が重要な情報になるとも思えない。
「創志。何かわかったか?」
「何も知らない者が何をみても、そう、何も理解できない」
お互いに無意味な時間を過ごしたことに溜息を吐き、さて、次はどう動こうかと頭を捻る。
と。
「失礼します! 先生! 大変で……す?」
閉めていた職員室の扉が女子の甲高い声と共に勢い良く開いた。女子にしては高めの一六二センチメートル。腰まで届く艶やかな黒髪が良く映えるその少女は伊吹愛望と言った。総投票数一票で選ばれた創志とは違い、全校生徒の満場一致で選ばれた風紀委員長である。
「真壁に北沢君? どうして君達がここにいる?」
風紀委員に相応しい生真面目な性格をした愛望は、サボりがちな誠や、他人を不登校に追い込む創志を快くは思っていない。当然、そう思っている相手に対して寛容になれるはずもなく、誠は口元をへの字に歪める。
「おお。丁度いい時に来たね、愛望ちゃん」
そんな子供のような対応の誠とは対照的に、創志はその表情に笑みを貼り付けた。
「生徒の様子はどうだい? 混乱はしてない?」
「混乱しないわけがないだろう! 収めて貰おうと先生方を頼りに来たのだが、いないようだな?」
「うん。僕と誠ちゃんが来た時には蛻の空さ」
「それで? 丁度良いってのは何のことだ? 創志。この小姑に何か頼むのか?」
「な! 誰が小姑だ! このウドの大木が」
「まあね。事態の収拾をお願いしたいんだ」
こんな状況でも平常運転の二人の会話を気にする風もなく、創志は続ける。
「取り敢えず、風紀委員を使って、生徒は全員自分の教室に入れて欲しい。点呼を取って、いない人間も確認して。あ、いない人間は探さなくていいよ。携帯も通じないから、細かい連絡取れないし。戻って来れるんなら、勝手に戻って来れると思うし。それが終わったら、生徒会議室に委員長達を集めて置いてくれる? 後、部活の男子部長達も。強制ではないけど、多い方が嬉しいかな」
「お前がやればいいだろう? 真壁創志生徒会長?」
「うん。僕がやるのが一番確実だけど、それだと恐怖政治みたいでしょ? 愛望ちゃんは人望があるし、風紀委員って言う手足もあるしね」
ペラペラと流れる様に喋った後、創志は慣れ慣れしく愛望の肩を叩いた。
「それに、僕は少し確認したいことがある。取り敢えず、よろしく頼むよ。誠ちゃんも好きに使って良いから」
「す、好き!?」
「おい。俺もやるのかよ」
何やら頬を赤くする愛望を無視して、誠は意外そうに尋ねる。てっきり、用事があるのならば付いて来い言うと考えていた。誠も中々だが、創志はそれに輪をかけて人望がない。大抵の人間は目の前を創志が歩くことすら耐えられない嫌悪感を抱くというのだから、最早それは呪いと呼んだ方が良いかもしれない。
「まあ、ないと思うけど、暴れる奴とかいるかもしれないしね。誠ちゃんがいれば大抵の状況はどうにかなるでしょ?」
「そりゃあ、そうだが、お前の方は大丈夫なのか?」
「さあ?」
「さあって、お前」
「こんな状況で何か断言できることがあると思う?」
確かに、それもそうか。誠は創志の言い分に納得をすると「行くぞ」と愛望の背中を軽く叩く。
「ひゃん! な! 気軽に障るんじゃあない! びっくりするだろうが!」
「はいはい。次からは気を付けるよ」
「おい! その言い方は何だ!」
仲が良いのか悪いのか。妙に引っかかって来る愛望にうんざりした様子で誠は職員室を後にする。
「創志、気をつけろよ?」
最後にそう言い残して。




