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「……ご主人様」
「はあ、はあ、あら、おかえりなさいカリア。私が望んだものはてにはいりまして?」
集中していて、気配に気づきませんでしたわ。
ほんの一刻ほどだというのに、滝のように汗が流れています。ぐっしょりと濡れて動きにくいこと。パンと向き合うのなら、致し方ありません。職人とは厳しい道程ですわね。
「はい、こちらに。
相変わらず美しい鍛錬ですね」
「ありがとう。でもまだまだ。お母さんの域には至っていませんの。一時間も鍛錬すればこの汗ですわ。早くお母さんの次元に行きたいですわ」
悔しさをにじませた私の顔に気づいたのでしょう。カリアは優しくフォローしてくれました。
「母上様は、……体格に恵まれておりますから」
声は平坦ですけれど、これでも私を心配してくれているのよ。やさしいわ。
確かにお母さんったら、私より頭三つ分も大きくて、オーガも逃げ出すという逸話おもつお方。
二の腕、太もも、お腹に背中。どの筋肉もそれぞれの役割を主張して割れているの。私が一度間違えて包丁を向けてしまった時も、その刃先が折れてしまったこともあったわね。ああ、素敵な鋼の肉体。
お母さんは、高速でパン生地を形成するの。それはもう、目にも留まらぬ速さよ。そこから生み出されるパンは、外はバリ、中はふわふわ。スープにもお肉にもピッタリな一品よ。ああ、早く家に帰って食べたいわ。
いそいそと準備をする私を、カリアが静かに制します。視線の先には、パン作りには重要なカマドが有ります
「カマドに火が入っておりません。――試し火を昨日焚いてみましたが、あちこちにヒビも入っておりますし、火の周りは不均一でした。
これではパンがうまく焼けないのではありませんか」
「まあ」
ぽん、と手を叩きます。
「そんな時こそお父さんの魔法陣ですわ!」
言うが早いか、私は魔法陣を書き始めました。
カマドの下に積み上がっていた灰と水を混ぜて、指で陣を描きます。
魔力を通すと、ち、と小さな音と雷の白い光が散りました。
「準備ができましたわ。カリア、これに魔力を通してもらえる?」
「……これは」
「お父さんの魔法陣ですわ。私に扱うことができる範囲内で、簡易の釜と同じ機能をもたせて一定時間熱量を安定させられるそうですわ。
でも私ではまだ、魔力を通して陣を固定させることが精一杯。発動するにはカリアの魔力が必要ですわ」
「……………………父上様の魔法の構成力は、本当に素晴らしいと思います」
「そうなの!
私、簡単な陣を覚えて描くので精一杯よ」
お父様は魔力不足で覚えの悪い私のために、微弱な魔力を使い、簡単な陣を組み合わせで作動する魔術とその陣を考えてくれたんですの。まだ私だけでは陣を発動できないのが悔しいですわ。
「将来、私がパン屋を開く頃には、この陣を私の力だけで作動できるようにならなければなりませんわ」
お父さんはそれができる、っておっしゃってますもの。私頑張ります。
「……」
カリアは私の決意を見守ると、一度深く目を閉じました。やはり浅はかでしょうか。
それでも優しいメイドですわ。陣に向き直ると、魔力をそこに通しました。
一気に光りに包まれて、その後にほの赤い光が滲むようにして消えます。ヒビに染み込むようなその魔力。さすがカリアですわ。縁にふれると、僅かにぬくもりを感じます。
「カリア、流石ですわ」
「お褒めに授かり、光栄です」
平坦な声でそう言うと、姿勢を正して隅に控えます。
火入れをしておいたカマドがあれば、とりあえずパンもスープも煮物もお手の物。暑い日も寒い日も、カマドはきちんと火を入れるというのが常識ですの。
一定の温度を保っておけば、パンもおいしく仕上がりますわ。
ああ、それだけで心が踊ります。同時に落ち着くんですの。綺羅びやかな舞踏会や謁見の間、バラに囲まれた庭園よりも、私にはパンの匂いのする台所が一番です。
私のお父さんとお母さんは、とても優秀なパン屋。
私は日々、二人に追いつくために修行の身です。
本来なら、このような場所で油を売る時間もないのですわ。
私だって、わかっております。脆弱なこの身で、あの二人に近づきたいなんて、おこがましい話だということ。
それでも、少しでも役に立てるよう、私は頑張るのですわ。街の皆に美味しいパンを焼いて、からかい半分に立ち寄る馴染みの客をギャフンと言わせてやりますの。お父さんとお母さんの娘――私の妹、シアリも修行を始めましたもの。負けていられませんわ。一緒に新しいパンを作ろうって、約束もしているのよ。
私は、この苦境にごろんと寝転がって日々を過ごすわけにはいきません。そして、起きるにしてもただでは起きないのですわ。
鍛錬を続け、虎視眈々と機会を伺っておりますの。
その約束は、この婚姻の話が出た時点でお父様にとりつけておりましてよ。
「私婚姻を解消されたあかつきには、パン屋になりますの。
正式にお約束いたしましたもの。この痛みも辛抱ですわ」
「……スカーレット様」
そうですの。
私実はね、パン屋の娘ですの!