序幕
みんな、イマジナリーなんたらって知ってる?
俺は最近イマジナリー上司とよく会話するんだけど、わかる人いるよね?
彼と話して出した答えは、実物の上司が求めているものとは、だいたいズレるんだ…
―――
「今週も一週間、お見守りいただきありがとうございました。」
今週の仕事を終えて帰宅した直後。
翌週の朝までの自由な時間を楽しむ、その直前。
俺個人が行う、週の大事な締めくくり。
社会人生活も一人暮らしも、順風満帆ではなかった。
そんな時に縋る思いから手を合わせていたが、いつからか平穏無事なときにも、感謝を伝えるために手を合わせていた。
思い描くのは神様、ご先祖様、守護霊様。
視線は俺の身長より少し低い棚の上。
地元のお祭りで授かった福笹や友人と訪れた神社のお守りが、祀られるように置かれている。
供えられた日本酒の瓶に浮いた露が、表面をなぞり、静かに落ちていく。
神棚のように正しく祀られたものではないため、意味のない行為かもしれない。
ただ、これまで様々な困難を乗り越えてこれたのだから、俺はきっと感謝の形を表すために、これを続けていくのだろう。
手を合わせ終えた俺は、普段から持ち歩く鞄の中から一体のお守りを丁寧に取り出す。
テーブルの中央へそのお守りを置き、お猪口を供え…お酒を注ぐ。
「本日も変わらぬご配慮を賜り、ありがとうございました。」
正座した状態でお守りに手を合わせ、目を伏せ頭を下げる。
正しい言葉遣いは勉強中だ。
頭を上げた視線の先には、
お守りの隣に小さなお姿で座られ、両手で抱えた小さなお猪口を傾ける"湍津姫神"のお姿があった。
―――
この日の昼前。
俺のいるプロジェクトを束ねる、課長のスケジュールは"出張"の文字で埋まっていた。
スケジュールは共有されており、みんな前もって知っていた。
こんな時、その課長の次に偉い、外面の良い上司がサボりだす。
…みんな前もって知っていた。
「…おい、熊先。」
俺かぁ。
今日はいつもより深刻そうな顔で、その上司に資料をまとめるよう求められた。
昨日、颯爽と定時退社しようとしてたアンタに、課長が振ってたやつだろソレ。
そんなアンタに重たい仕事を丸投げされてるから、俺たち忙しいんだけど。マジで。
その内容は…俺やAIからそれっぽい回答を得て報告しても、突っ込まれたら粗が出るヤツ。
アンタの視点でしっかり情報収集して、精査した内容の方が欲しい感じ。
どうやら、課長が上司の行動を掴んでるっぽい。
よく話すイマジナリー上司を脳内に呼び出す。聞こえますかー?
うん。課長の思いはぼかしたうえで、それっぽい誘導をしても、「理解できない」「結果をくれと言っただろ」と怒鳴られる。
あんためんどくせえな
なんだと!
このままだと昼メシ食えるか怪しい…何とかならんかね…
「それ、君にお願いした話だよね?」
今日は居ないはずの課長の声がする。彼の机からではなく、フロアの目隠しの向こう、フリースペースから現れた。
どうも出張は午後からのようだ。スケジュールの記載が雑ぅ
一瞬驚いた顔を見せ、課長の方には顔を向けず、悩むように傾けた頭を掻きながら無言で机に戻る上司。
なんかいつもと違う流れだな…
イマジナリー上司に説明した内容を、リアル上司にも社内の個人チャットへ送付しておいた。
しばらくしたあと、珍しいことに「助かる」と、礼にも取れる一言が返ってきた。
どうした?
今日は諦めかけてた昼メシに、無事、ありつけた。
―――
空いたお猪口を見て、俺は日本酒に両手を添え、注ぐ仕草をする。
湍津姫様は応じてくださったのか、お猪口を少し持ち上げた。
しばらくの間、酒を注ぐ音だけが静かに続いた。
本作はフィクションです。
作中に描かれる神や出来事は、信仰や感じ方の一つの形を表現した創作です。
実在の宗教・信仰・人物とは関係なく、それらを否定・評価する意図はありません。
主人公も誰も彼も、清廉潔白である必要のない、普通の人です。




