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婚約破棄された代筆令嬢は、満員の寺で恋の俳句を売る  作者: 乾為天女


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第6話 都萌は敵か味方か

 月暁寺の西の回廊脇は、縁句祭の大きな賑わいが引いたあとも、すぐには静かにならなかった。


 縁句祭の大きな賑わいは三日で引いたものの、その余熱みたいなものが門前に残っている。あの札を書いてくれた店はどこ、あの夫婦が仲直りしたのは本当か、恋だけでなく別れの文も頼めるらしい――そんな噂が、寺へ参る人の袖や荷の隙間に紛れて、朝のうちからふわふわと流れてきた。


 恵美子は小部屋の戸を開け、板札の位置を指先で確かめた。


 ノックはしないで。


 まだそこにある。

 けれど今日は、その下へ通子が勝手に小さな紙を貼り足していた。


 ご用の方はお名前を。


 「……通子さん」

 「だって、叩かなきゃいいんでしょ。じゃあ名乗ってもらえば丸く収まるじゃん」


 丸いのか尖っているのか分からない理屈だったが、少しだけ可笑しい。恵美子が口元をゆるめると、通子は得意げに紙の端を押さえた。


 「ほら、字もちゃんと日依ちゃんに書いてもらったし」

 「わたしは、頼まれた通りに清書しただけです」


 日依が控えめに言い、硯へ水を落とす。虎哲は新しく削った看板の脚を床へ置き、少し離れて眺めていた。


 「これで風が吹いても倒れねえ。昨日みたいに、通子が客より先に看板へ飛びつかなくて済む」

 「飛びついてない。守ったの」

 「同じだろ」


 言い合う声が、小部屋の古い天井でころりと跳ねた。


 祭の三日間で、売り場の形は思っていたより早く整ってきた。虎哲が作った簡素な台には白札と色札が並び、通子の飾り紐は風の向きで見え方が変わるよう結び直され、日依の清書も、最初の遠慮がちだった線から少しずつ芯のあるものへ変わっている。


 恵美子は帳面を開いた。

 一日目より二日目、二日目より三日目。札の枚数だけではなく、頼まれる願いの幅が広がっている。仲直り、送り出し、礼の手紙、亡くなった母へ供える短い言葉。恋だけが人の胸を動かすわけではないと、この場所で働くたびに思い知らされる。


 「今日は午前のうちに二枚、婚礼の祝い札が入るって」

 通子が表を覗きながら言った。

 「あと、昨日の茶屋のおかみさんが、息子に持たせる旅立ちの札も頼みたいって」

 「では、白札を少し多めに出します」


 恵美子が箱へ手をのばした、その時だった。


 回廊の向こうが、ふっと静まった。


 人の声が消えたわけではない。ただ、流れていたざわめきの向きが一斉に変わったような沈み方だった。誰か目立つ者が来た時の、あの独特の空気である。


 通子がすぐに眉をひそめる。

 「……やな感じ」


 表へ目をやると、薄い若草色の衣を着た女が、侍女を一人だけ連れて立っていた。余計な飾りのない日傘、きっちり結い上げた髪、歩くたび迷いなく石畳を打つ細い靴先。


 都萌だった。


 徳博の横で見た時より、今日はずっと色が少ない。けれど、そのぶん目がよく利いているように見える。


 通子が舌打ちしそうな顔で一歩前へ出た。

 「何のご用ですか」


 都萌はその声を無視せず、まっすぐ返した。

 「用があるから来ましたの」


 柔らかくも刺々しくもない、平らな言い方だった。だからこそ、聞く者が勝手に身構えてしまう。


 都萌の目が売り場をひと巡りする。札、台、飾り紐、看板、客の立ち位置、回廊の影。見ているだけなのに、値踏みされているようで落ち着かない。


 やがて彼女は、看板の前で足を止めた。


 「安すぎますわね」


 場が凍った。


 通子の肩がぴくりと動き、虎哲が無言で看板の脚へ手を置く。日依は筆を持ったまま息を止めた。


 都萌はそんな空気に気づいていないのか、あるいは気づいていても曲げないのか、そのまま続ける。


 「聞き取り込みで六十文。二人分の願いを一枚にまとめるなら、なおさら安いですわ。人の話を聞く手間を、自分で値切ってどうなさるの」


 通子が口を開いた。

 「けんか売りに来たなら、もう少し分かりやすくしてくれる?」

 「売っておりません。心配しているのです」

 「何それ」

 「商いの話です」


 あまりに真顔で言うので、逆に怒鳴り返しづらい。通子が言葉に詰まると、都萌は今度こそ恵美子へ視線を向けた。


 「あなたに伺いたいことがあります」

 「……ここで、でしょうか」

 「ここでは人の耳が多すぎますわね」


 そう言って小部屋の戸の前まで来ると、都萌は板札を見上げた。


 ノックはしないで。

 ご用の方はお名前を。


 彼女は一拍だけ黙り、それから戸を叩かずに言った。


 「都萌です。お話ししてもよろしくて」


 通子が思わず吹き出しかけ、慌てて唇を押さえた。虎哲はそっぽを向いたが、肩が少し揺れている。恵美子は戸口へ立ったまま、ほんの少し迷った。


 徳博の隣に立っていた人。

 婚約破棄の日、自分の一番惨めな朝を見ていた人。

 けれど今、ちゃんと札の決まりに従って名を名乗っている人。


 「……どうぞ」


 小部屋へ通すと、都萌は埃っぽい壁も狭い机も気にした様子を見せず、まず恵美子の帳面を見た。次に白札の束。最後に、机の端へ置かれた見本の句へ視線を落とす。


 「ここは、人が息をしやすい場所ですのね」


 その言葉が意外で、恵美子は返事に遅れた。


 「そう見えますか」

 「外の客の顔が、徳博さまの店の前よりずっとましですもの」


 褒めているのかどうか、一瞬わからない。だが都萌は本気らしかった。


 「わたくし、回りくどい言い方が苦手ですの。先に申し上げますわ。あなたの敵になりに来たのではありません」

 「では、何を」

 「確かめに来ましたの」


 都萌は侍女へ目配せした。侍女が風呂敷包みを差し出す。中から出てきたのは、徳博の店の札が三枚だった。紙も墨も見覚えがある。けれど文面は見たことのないものだった。


 一枚目。

 春を待つ 袖にこぼれる うれし雨


 二枚目。

 逢うまでは 胸にしまえる 恋の鈴


 三枚目。

 言えぬなら せめて笑って 花の下


 恵美子は札を見つめた。

 字は店の書き手のものだ。けれど、言葉の置き方に見覚えがある。


 都萌が先に口を開く。

 「最後の一語で、相手を追い詰めない。願いを言い切らず、少しだけ逃げ道を残す。あなたの癖でしょう」


 恵美子は息を呑んだ。


 自分でも、そういう書き方をすると明言したことはない。だが確かに、恵美子は昔から、受け取る相手が苦しくならないように文の終わりを柔らかくすることが多かった。徳博はその癖を、うまく説明もできないまま、売れる部分だけ掬って使っていたのだろう。


 「なぜ、それを」

 「徳博さまが、昨夜、わたくしの前で自分の作だと自慢なさったからですわ」


 都萌の声に、わずかな乾きが混じった。


 「それでわたくし、二つ試したのです。一つは、似た調子でもう一枚お作りになって、と頼むこと。もう一つは、語尾だけ変えたらどうですの、と申し上げること」

 「……どうなりましたか」

 「前者では硯を睨んだまま黙り、後者では『語尾を変えると効きが落ちる』と仰いました」


 通子ならそこで腹を抱えて笑っただろう。けれど都萌は笑わなかった。


 「効きが落ちる、ではありませんのよ。自分で書いていないから、崩し方が分からなかったのでしょう」


 恵美子の指先が、札の縁をきつくつまむ。


 胸のどこかで、まだ期待していたのかもしれない。徳博が少しは自分の言葉を理解して使っていたのではないかと。三年もそばにいたのだから、何か一つくらい、本当に受け取っていたのではないかと。


 けれど違った。

 表面だけだったのだ。


 「失礼でしたら謝りますわ」

 都萌が言った。

 「でも、あなたの方が、ずっと上手に人を喜ばせる」


 その一言は、まっすぐすぎて、かえって返事に困った。


 恵美子が黙っていると、都萌は少しだけ視線を伏せた。初めて、彼女の言葉に迷いが差したように見えた。


 「……婚約破棄の日、あなたにあんな場を通らせたことについても、申し開きはできませんわ」


 小部屋の空気が、わずかに変わる。


 通子も虎哲も、今は口を挟まない。日依だけが静かに筆を置いた。


 「わたくし、あの日の朝まで、ああいうやり方をするとは知りませんでしたの。家同士の話は前からありましたけれど、あんなふうに人前で並べ替えるように口にするなんて」


 都萌はそこで一度、息を整えた。


 「伯爵家といっても、我が家は余裕ばかりではありません。父は徳博さまの家と繋がれば、商いの道が広がると考えた。向こうは伯爵家の名を欲しがり、こちらは金回りの良い商家の道を欲しがった。わたくしは、その真ん中へ置かれただけです」


 言い方は淡々としているのに、指先だけが日傘の柄を強く握っていた。


 「ですから、わたくしも見栄の駒ですのよ」


 その言葉を聞いた時、恵美子の胸の中で、何か固く結ばれていたものが少しだけゆるんだ。


 自分だけが踏みにじられたのだと思うのは簡単だ。けれど、都萌もまた、別の金の紐で結ばれてここへ来たのかもしれない。きれいな衣を着ていても、息苦しさが消えるわけではない。


 「……どうして、わたしにそれを」


 尋ねると、都萌はすぐには答えなかった。

 代わりに、小部屋の隅の紙箱、低い天井、磨り減った机の角へ順に目をやる。


 「ここへ来て、分かってしまったからですわ」


 声が少しだけ柔らかくなった。


 「あなたは、人を使って飾りを増やすのではなく、人がちゃんと働ける場所を作っている。そういう店のほうが、わたくしは好きですの」


 通子がそこで堪えきれず、ぽつりと言った。

 「最初からそう言ってくれたら、こっちも喉が楽だったんだけど」

 「先ほど申しましたわ。回りくどい言い方が苦手ですの」

 「回りくどくないのに伝わりづらいの、逆に難しくない?」


 都萌は本気で考え込んだ。

 「……難しいのかもしれませんわね」


 その返事があまりにまっすぐで、ついに虎哲まで吹き出した。張りつめていた空気が、そこでやっと人の息でほどける。


 都萌は少し眉を寄せたが、怒りはしなかった。むしろ、初めて困ったような顔になった。


 「笑われた理由は、後で侍女に確認しますわ」

 「そこは確認するんだ」

 通子が言う。


 恵美子は気づけば、さっきまでよりずっと自然に息をしていた。


 「確かめたかったことは、それだけですか」


 問いかけると、都萌は背筋を正した。


 「いいえ。もう一つありますの」


 彼女は机の前へ座り、まるで正式な注文を出す時のように両手を膝へ揃えた。


 「札を一枚、お願いいたしますわ」


 恵美子は思わず目を見開いた。

 「わたしに、ですか」

 「ええ。わたくし宛てに」


 都萌は少し言いよどみ、それでも視線を逸らさずに続ける。


 「恋の札ではなくて結構ですの。婚約だの家だのと言われても、せめて、自分の足で歩いている気持ちを忘れないための一枚を」


 その願いは、華やかではない。

 けれど、ひどく切実だった。


 恵美子は白札を一枚取り出し、都萌の顔を見た。婚約破棄の日には、きれいで、遠くて、自分と争う側の人にしか見えなかった。だが今は、息を詰めて姿勢を崩さないまま、ほんの少しだけ助けを求めている人に見える。


 「少し、お時間をください」

 「ええ」


 恵美子は筆を持った。

 春の光が格子を通って机へ落ちる。外では人の声、回廊を渡る風、遠くで鳴る小さな鈴。その中で、言葉だけが静かに沈んでくる。


 歩くこと。

 選ぶこと。

 誰かの見栄ではなく、自分の呼吸で明日へ向かうこと。


 墨を含んだ筆先が紙に触れた。


 春の道

 裾をもたずに

 風を受く


 書き終えた札を差し出すと、都萌はすぐには取らなかった。読んで、それからもう一度、ゆっくり読んだ。


 「裾を、もたずに」

 「誰かに持たせるのでも、踏まれないよう怯えるのでもなく、です」


 都萌の喉が、小さく上下した。


 「……好きですわ、この札」


 初めて、彼女の声に感情の温度がのった。


 通子が横から言う。

 「それ、八十文」

 「こら」

 恵美子が小声で止めると、都萌は真顔で首を振った。


 「いいえ、通子さんの仰る通りですわ。六十文は安すぎますもの」


 そう言って彼女は、六十文ではなく百文を机へ置いた。


 「多いです」

 「情報料ですわ。徳博さまの店、来月から上流向けの贈答札へ手を広げるつもりですの。けれど、文の中身が追いついていない。無理をすれば、どこかで綻びます」


 都萌は札を大切そうに包み直し、立ち上がった。


 「それと、わたくしの知る方々にも、こちらのことを話しますわ。恋に限らず、贈る言葉を必要としている女は多いもの」


 扉のところで一度立ち止まり、振り向く。


 「敵か味方かと問われたら、まだ上手に答えられませんの。でも少なくとも、あなたを踏んで上へ上がる気はありません」


 言ってから、自分で少し眉をひそめた。

 「今のは、もう少しましな言い方があった気がしますわね」


 「ありましたね」

 通子が即答する。


 また小さな笑いが起きた。


 都萌はほんの少しだけ頬を染め、今度はきちんと戸口の外で名を名乗ってから出ていった。叩かないまま去っていく後ろ姿を見送りながら、恵美子は札の上に残った墨の匂いを吸い込んだ。


 通子がすぐに身を寄せてくる。

 「ねえ、あの人、変だね」

 「変ですね」

 日依がめずらしく即答した。

 「でも、悪い人ではなさそうです」


 虎哲は腕を組んだまま、都萌が置いていった百文を見た。

 「商いの話だけで来る娘なら、あんな札は頼まねえだろ」


 恵美子は頷いた。


 敵か味方か、まだ決めなくていいのかもしれない。

 世の中には、そのどちらにもきれいに収まらない人がいる。

 そして自分もまた、ただ捨てられた娘ではなくなりつつある。


 白札の箱へ手をのばす。

 次の客のために一枚取り出した時、指先はもう震えていなかった。


 小部屋の外では、春の風が新しい紙札の端を揺らしている。

 誰かのために書く言葉が、また一つ増える。

 そのことを、今日は少し誇らしく思えた。



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