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婚約破棄された代筆令嬢は、満員の寺で恋の俳句を売る  作者: 乾為天女


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第5話 俳句札、はじめました

 翌朝、月暁寺の鐘が六つ打つころ、西の回廊脇にはまだ冷たい影が残っていた。


 石畳の目地には夜露が光り、門前の茶屋が湯を沸かし始めた匂いが、ゆっくり風に混ざって流れてくる。祭は二日目だというのに、石段の下にはもう人の帯ができかけていた。昨日の混雑で懲りた寺男たちが、今日は早くから机の位置を直している。その少し脇で、恵美子は小部屋の戸を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 机は昨日のまま、虎哲が高さを合わせてくれた場所にある。硯は布で包んで棚へ上げ、白札は湿気を吸わないよう箱の底へ薄紙を敷いて入れた。夜のうちに何度も見返した値付けの案が、机の端に置いてある。


 札一枚四十文。

 聞き取りを含む願い札一枚六十文。

 二枚組は百十文。


 自分で書いたくせに、朝の光で見ると急に心細い。


 「安すぎます」


 背後から、よく通る声がした。


 驚いて振り向くと、戸の外に隆冶が立っていた。手にはいつもの帳面。きちんと敷居の外で止まり、昨日と同じように戸はくぐらない。


 「おはようございます」

 「……おはようございます。入ってお話しください、と言いたいところですが」

 「板が下がっていますので」


 扉の脇では、例の木札が朝の風に揺れていた。


 ノックはしないで。


 恵美子は少しだけ肩を落とした。

 「冗談がお上手なのか、律儀すぎるのか、判断に困ります」

 「どちらでもありません。書かれていることに従っているだけです」


 その答え方がいかにもこの人らしく、恵美子はつい口元をゆるめた。


 「では、今だけ入っていただいて大丈夫です」

 「承知しました」


 許しが出てから初めて、隆冶は敷居をまたいだ。こういうところだけでも、人の境目を無遠慮に踏まない人なのだと分かる。


 彼は机の端に置かれた値付けの紙を見下ろし、眼鏡の位置を指で直した。


 「札一枚四十文は材料費しか見ていない額です」

 「白札と紐と墨代は入れました」

 「筆を持つまでに聞く時間が入っていない」

 「聞く時間にお金をいただくのは、何だか」

 「聞かなければ、その人の札にならないのでしょう」


 そう言われると返せない。


 昨日の夜、値段を書きながら、恵美子は何度もそこで筆を止めた。人の話を聞くことへ値をつけるのが怖かったのだ。話を聞くくらいなら、ずっとただでやってきた。婚約者の店でも、家でも、親戚の集まりでも、頼まれれば言葉を整えた。そうしてきた時間に札がついたことは一度もない。


 だが隆冶は、そこを迷わず切り分ける。


 「書く前の三呼吸も、値に含めてください」

 「三呼吸」

 「あなたは相手の顔を見て、ためらいを待ってから筆を入れるでしょう。その待つ時間があるから、昨日の案内札も人に伝わった」


 昨日の案内札。願いにあわせて一枚ずつ、と書いたあの札のことだ。


 恵美子は紙へ目を落とした。

 「では……願い札一枚、六十文のままにします」

 「ええ。二枚組は百二十文で」

 「百十では」

 「十文足りません」

 「十文で客足が鈍るかもしれません」

 「その十文で、あなたが鈍ってはいけない」


 朝の光の中、きっぱりと言い切られて、恵美子はしばらく黙った。


 昨日までの自分なら、その十文くらい、と言っていただろう。安くして喜ばれるほうが楽だったからだ。だが楽だっただけで、その後に残るのは疲れだけだったことも、もう知っている。


 「……百二十文にいたします」

 「はい」


 隆冶は短く頷いた。賛成されたというより、当然のところへ戻された気がした。


 そこへ、ぱたぱたと急ぐ足音が近づく。

 「おはよーっ。白紐、紅紐、薄青、若草、あと夫婦向けの二色結び持ってきた!」


 通子だった。両腕に抱えた籠から、色糸が朝日にこぼれる。後ろでは虎哲が小さな台と板を肩に乗せて歩いてきた。さらに少し遅れて、日依が紙束を大事そうに抱えている。


 「日依さんまで」

 「寺の清書は午の鐘まで手が空きますので、その間だけ」


 そう言って頭を下げる様子は控えめだが、昨夜より目の中に少しだけ気負いがある。自分も役に立ちたいと思って来た顔だ。


 虎哲は入口脇へ木の台を下ろした。

 「売り場、外に組むぞ。中は座って話を聞く場所にしろ」

 「ありがとうございます」

 「礼は売れてからでいい」


 それを聞いて、通子がすぐ笑う。

 「それ、隆冶さんのうつった言い方」

 「似たか」

 「似た」


 虎哲は別に照れた様子もなく、板を手際よく組み始める。板の幅は札を横に三列並べてちょうどよいくらい、台の高さは立った客が覗き込みやすく、恵美子が手を伸ばせばすぐ届くくらい。大工仕事の人間は、言葉より先に寸法で気を回すのだと分かる。


 通子は売り場の端へ色糸の見本を吊るしながら言った。

 「ねえ、看板もう一枚足したほうがいいよ。恋だけじゃありません、ってやつ」

 「恋だけではありません、では固いでしょうか」

 「ちょっと。もっと、謝るのも送り出すのも書けます、みたいにさ」


 日依が小さく頷く。

 「見た人が、自分の願いをそこへ置ける言葉のほうがよいかもしれません」


 恵美子は白札を取り出し、膝の上へ置いた。筆を持つと、昨夜よりは手が震えない。


 恋も 仲直りも 送り出す言葉も

 願いにあわせて したためます


 書き上げると、通子が覗き込む。

 「うん、いい。やわらかい」

 「やわらかいでしょうか」

 「うん。説教じゃなくて、寄っておいでって感じ」


 売り場の正面にその札を立てると、急ごしらえの場所だったはずなのに、急にちゃんとした店先に見えた。通子が色糸を揺らし、虎哲が板のがたつきを直し、日依が白札の角を揃えて箱へ入れる。人の手が加わるたび、昨日まで物置だった場所が、客を迎える場へ変わっていく。


 朝の鐘がもう一度鳴った。


 石段の下から押し上がってくるざわめきが、昨日より少し整っている。入口の列はまだ長いが、机の位置を変えたぶん、人の流れは止まりにくくなっていた。昨日ここで言ったことが、町の動きに少し残っている。その事実に、恵美子は不思議な勇気をもらった。


 「最初のお客さま、来るかな」


 通子が売り場の端から首を伸ばす。


 「来なくても、朝のうちは焦らないで」

 そう続けようとしていた恵美子の言葉は、三歩先で止まった。若い娘が一人、看板の前で足を止めていたからだ。


 薄桃の小袖に、小さな草花の刺繍。年の頃は十七か十八か。手にはまだ買ったばかりの団子の串を持っている。興味はあるが、声をかける勇気が足りない、という顔をしていた。


 通子が即座に笑顔を作る。

 「おはよう。見るだけでもどうぞ」

 「あ、えっと……ここ、ほんとうに一枚ずつ書いてくれるんですか」

 「書きます」


 恵美子が答えると、娘は少し目を丸くした。もっと商売らしい大きな声が返ると思っていたのかもしれない。


 「恋のでも?」

 「恋のでも」

 「その人だけの?」

 「その人だけの」


 娘は串の先を困ったように見つめたあと、意を決したように売り場へ寄ってきた。


 「じゃあ……お願いしたいです」


 最初の客だった。


 小部屋の中へ案内すると、娘は緊張で膝の上の手を握っていた。名前は澄乃。染物屋の向かいで菓子を売る家の娘だという。朝、店を開ける時に向かいの若旦那と顔を合わせる。けれど、交わす言葉はいつも「おはよう」と「今日は暑いですね」くらい。縁句祭のうちに一歩進みたいが、あからさまな恋文を渡す勇気はない。


 「夢とか……その、そういうのは、ちょっと重いかなと思って」


 澄乃は小さな声で言った。


 恵美子は心の中でそっと頷く。昨日まで町を騒がせていた甘い文句は、こういう娘には強すぎるのだ。たしかに人目を引く。けれど、人と人の間に置くには、時に砂糖が多すぎる。


 「その方は、どんな時に笑いますか」

 「笑う……」

 「菓子を渡した時でも、釣り銭を返す時でも、何でも」


 澄乃は少し考え、頬を赤くした。

 「桜餅を包む時です。葉がずれないように、すごく真剣な顔をするのに、うまく包めるとちょっとだけ」

 「口元がゆるむ」

 「はい」


 恵美子は筆を持った。相手の癖が一つでも分かると、札は急にその人の顔を帯びる。


 包む手に

 春をこぼして

 待っています


 書いてから声に出して読む。澄乃は最初、息を止めるようにして聞き、次の瞬間、団子の串を胸の前でぎゅっと握った。


 「……待っています、って、言ってもいいんでしょうか」

 「渡した相手が逃げる文句ではありません。けれど気づく人には伝わります」

 「すごい」

 「札は薄青にしましょうか。菓子の包み紙に合わせるなら、白でも」

 「あ、薄青で……お願いします」


 外で通子が「はいはい薄青一枚」と声を上げる。日依が受け取り、綺麗な手つきで清書のための札を用意した。売り場の外と中が、初めて一つにつながる。


 澄乃は六十文を、掌に少し汗をにじませながら差し出した。

 「ほんとうに、その人だけの札なんですね」

 「はい」

 「じゃあ……もし渡せたら、また来ます」


 出ていく背中は、入ってきた時より少しだけまっすぐだった。


 最初の客が去ったあと、恵美子はしばらく手の中の銭を見つめた。銭そのものは特別な形をしていない。昨日まで帳場で見ていたものと同じだ。なのに、自分の前へ置かれるとまるで重さが違った。


 六十文。


 誰かの恋に手を貸した対価ではなく、自分が話を聞き、自分が考え、自分が書いた札の代だ。


 「どうしました」


 戸口から隆冶の声がかかる。今日は朝から境内の見回りがあるらしく、彼は中へ入らず外から尋ねてきた。


 「……いえ」

 「売れましたか」

 「一枚、最初の一枚が」


 答えると、隆冶は眼鏡越しにこちらを見た。

 「では、その銭はちゃんと別にしてください。寺へ納める分と混ぜないように」

 「はい」

 「最初の一枚は、あとで帳面に書き残しておくとよい」


 そう言い残し、彼はまた人の流れの中へ戻っていった。喜びを大きく言葉にする人ではない。けれど、売れた事実をちゃんと働きの一つとして扱ってくれる。その静けさが、今の恵美子にはありがたかった。


 朝のうちは客足はゆるやかだったが、巳の刻が近づくころには看板の前へ人が足を止めるようになった。通子の呼び込みが効いたのもある。


 「恋だけじゃないよー。言いにくいことを札にするよ。謝るのも、送り出すのも、仲直りも!」


 その声は、華やかすぎず、押しつけがましくもなく、ちょうどよく人の耳へ引っかかった。通り過ぎる年配の女房が二度見し、若い男が足を止め、母親に引かれた少年まで看板を読む。


 二人目の客は、髪へ銀の混じりはじめた女だった。


 小袖は上等ではないが、縫い目がきちんとしている。爪の端に染料の色が薄く残っていたので、染屋か洗い張りをする家の者だろうと分かる。女は席に着いてもすぐには話さなかった。


 「恋ではないのです」


 ようやく出た第一声が、それだった。


 「はい」

 「夫婦なのです。二十年も一緒にいるのに、いまさら札なんて、変でしょう」


 変ではありません、とすぐ言うより先に、恵美子はお茶を置いた。寺から借りた小さな湯飲みが二つ。昨日の夜、もし年配の客が来たら甘い香より温かい湯のほうがよいだろうと思って用意しておいたものだ。


 女は湯気を見て、少しだけ肩を落とした。

 「昨日、主人に言いすぎてしまって」

 「どんなことを」

 「商いのことで、です。息子を店へ入れる入れないで揉めまして。主人は体が強くないのに、まだ自分で抱えたがる。私は心配で、つい――」


 そこで言葉が詰まる。二十年積んできた夫婦のあいだには、若い恋とは違う黙り方がある。怒っているのではなく、長く知っているからこそ言いすぎる黙り方だ。


 「今朝は?」

 「いつも通り、何も言わずに店へ行きました。私も、お弁当だけ持たせて」


 恵美子は女の手を見た。節が少し太い。毎朝、包丁を持ち、湯を使い、布を絞る手だ。その手が今日は膝の上で縮こまっている。


 「謝る札になさいますか」

 「……謝る、とだけ書くのは、私らしくなくて」

 「では、普段なさっていることを入れましょう」


 女は目を瞬いた。


 「普段?」

 「怒っていても、朝のお茶は淹れるのでしょう」

 「それは」

 「やめないのでしょう」


 女はしばらく黙ってから、観念したように小さく笑った。

 「やめられません。喉が弱い人なので」


 恵美子は筆先を軽く整えた。


 言いすぎた

 湯気の向こうに

 茶を置くよ


 読み上げると、女はすぐには返事をしなかった。湯飲みの湯気がその目元で揺れ、やがて鼻にかかったような笑い声が出る。


 「ほんとうに、そうですね」

 「大げさな言葉ではありません」

 「ええ。そのほうが、あの人には届きます」


 女は銭を払う前に、もう一度札を見た。それから六十文を置き、しばらく迷ったあと、十文を余分に出した。

 「これは、お茶代に」

 「いえ、それは」

 「いいえ。今、私は言葉を買いに来たけれど、湯気にも助けられました」


 恵美子は断りかけて、やめた。相手が自分で決めて差し出したものを、何でもかんでも遠慮してしまうのは、結局また相手の選びを軽く見ることになる。


 「ありがとうございます。では、茶葉を替えます」


 そう受け取ると、女は少し晴れた顔で帰っていった。


 そのやり取りを、売り場の外で通子がにこにこ聞いていた。

 「今の、すごくよかった」

 「どこがですか」

 「最後。前の恵美子さんなら、お茶代なんてとんでもないって返してたでしょ」

 「……返していたと思います」

 「でしょ。受け取るのも商いだよ」


 言われてみれば、その通りだった。


 日依は清書の札を乾かしながら、そっと言う。

 「さっきの句、読むときに息がよく流れていました」

 「息?」

 「昨日、私に教えてくださったのです。相手が話し終わるまで急がないほうがよいと」


 教えたつもりはなかった。けれど朝から日依は、客の話を聞く恵美子の呼吸をじっと見ていたらしい。清書へ入る前に一度肩の力を抜くようになったのは、そのせいかもしれない。


 昼が近づくころには、売り場の前に三人、四人と人が溜まるようになった。恋を告げたい若者、王都へ奉公に出る妹へ札を持たせたい姉、出産を控えた娘へ無事を願う母親。昨日までなら同じ「縁起札」としてひとまとめにされていた願いが、一人ひとりの顔を持って並ぶ。


 忙しさの中で、通子は結び紐の色をぱっと選び、虎哲は人の足が引っかからないよう売り場の脚元へ板を足し、日依は札を乾かす順と受け渡しの順を間違えない。誰か一人が頑張る場ではなくなっていることが、恵美子には何より新しかった。


 午の鐘が鳴る少し前、売り場の前に見覚えのある影が立った。


 朝の女だった。しかも一人ではない。少しうしろに、背の高い男が気まずそうに立っている。日焼けした手、目元の疲れ、喉をかばうような襟元。たぶん主人だろう。


 女は恵美子を見るなり、困ったように笑った。

 「また来てしまいました」

 「何か不都合が?」

 「いいえ、逆です」


 横にいた男が、妻の手から札を半ば奪うように受け取り、ぶっきらぼうに頭を下げた。

 「……朝は、これを机に置かれた」


 それだけ言って口を閉じる。


 女が代わりに説明した。

 「主人、いつもは店へ行く前に湯だけすすって出るのです。でも今日は、札を見てから『茶なら飲む』って」

 「それで?」

 「それで、私が笑ってしまって。主人も少し笑って」


 そこで女房は小さく鼻を鳴らした。

 「二十年ぶりに、店へ行く背中へ“気をつけて”と言えました」


 聞いていた通子が、露骨に嬉しそうな顔をした。日依は目を伏せて微笑んでいる。虎哲だけは変わらぬ顔で台の釘を指で押し込んでいたが、手つきが少しゆるんでいた。


 「今日は、二枚組をお願いしたいのです」

 女が続けた。

 「息子のことは、今夜きちんと話します。その前に、店へ戻る主人へ一枚。主人から私へも、一枚ほしいそうで」


 その言葉に、男は耳まで赤くした。

 「おい、そこまで言うな」

 「だって本当でしょう」

 「本当だが」


 言い合っているのに、朝とは違って声が尖っていない。恵美子はその変化を見て、胸の内側が静かに熱くなるのを感じた。札が夫婦を魔法みたいに変えたのではない。ただ、口を開く一つ目のきっかけになったのだ。


 それで十分だった。


 「では、お二人それぞれへ一枚ずつ書きます」

 「お願いします」


 女には、今夜きちんと話すための札を。

 男には、店から戻る時に黙ったまま渡せる札を。


 恵美子は二人へ別々に問いかけた。長く一緒にいる人間は、同じ家で同じ食卓を囲んでいても、口に出せないことが案外多い。男は喉の具合を案じられるのが情けないと思っていた。女は、自分が先に年を取るようで怖かった。どちらも相手を思っているのに、思いやりの向きがぶつかっていた。


 書き上げた二枚を前に置くと、男はしばらく黙ったあと、低い声で言った。

 「字にすると、逃げ場がないな」

 「逃げ場がないから、渡せる時もあります」

 恵美子が答えると、男は札を懐へしまった。

 「……なるほど」


 二枚組で百二十文。女はためらわずに払った。男は一度、銭の枚数を見てから、余計な値切りをしなかった。働きへ払う金額として受け取った顔だった。


 二人が帰ったあと、通子が売り場の横で息を吐く。

 「やばい。今の見た人、絶対また来る」

 「やばい、はどういう意味でしょう」

 「すごくいい、って意味」

 「でしたら、最初からそう言ってください」

 「今のは、やばいのほうが合うの」


 言いながら、通子はまわりを顎で示した。


 気づけば、さっきの夫婦を見ていたらしい客が、看板の前へ二組並んでいた。若い娘たちのきらきらした視線だけではない。年配の夫婦、旅装の兄妹、仕事着のままの男。ここが恋だけを売る場所ではないと、少しずつ伝わり始めている。


 「順番にお伺いします」


 恵美子はそう言って、次の客へ向き直った。


 午後の日差しは回廊の柱をゆっくり西へ移し、石畳の熱が少しずつ上がる。忙しさは増したが、不思議と昨日のような息苦しさはなかった。聞くべき話を聞き、選ぶべき言葉を選び、受け取るべき銭を受け取る。その一つ一つが、誰かに使われる作業ではなく、自分で回す商いになっていた。


 日依が途中で清書を一枚書き損じた時も、恵美子は叱らなかった。

 「筆を止める前に、息が止まりました」

 「はい……」

 「急がなくて大丈夫です。乾かす場所は、今日はありますから」


 言うと、日依は恥ずかしそうに頷き、もう一度、肩を下ろしてから筆を持ち直した。昨日、自分がしてもらったことを、今日は誰かへ返している。そのことにも、恵美子は少し驚いていた。


 夕方近く、隆冶が帳面を持って戻ってきた。境内の混雑は今日は大きな揉め事なく収まったらしい。眼鏡の縁に薄く埃がついている。ずっと歩いていたのだろう。


 「今日の記録をつけます。売れた枚数を」

 「はい」


 売り場の隅へ移り、恵美子は銭を三つに分けた。


 寺へ納める分。

 紙や紐の材料分。

 そして、自分たちの手間賃。


 朝のうちに六十文を前に固まっていたのが、嘘のようだった。銭は少しずつ増え、しかし混ぜなければ怖くない。どの銭がどこから来たのか、今日の自分は説明できる。


 「願い札、二十八枚。二枚組が三件。案内札の追加が四枚」


 隆冶が書き留める。数字にされると、働いた一日が急に輪郭を持った。


 「初日としては十分です」

 「初日」

 「ええ。正式な店ではなく、祭の臨時売り場ですから」


 そう言われて、恵美子はようやく実感した。今日一日は、始まりだったのだと。


 「こちらが寺の分。こちらが材料分。こちらが恵美子殿の取り分です」


 隆冶が確認しながら、銭を小さな布袋へまとめる。その袋を差し出された時、恵美子はすぐには受け取れなかった。


 「私の……取り分」

 「はい」

 「こんなに」

 「少なく見積もってあります」

 「少なく」

 「通子殿と虎哲殿、日依殿の手も入っていますから」


 そこまできっちり分けてあるのかと思うと、可笑しくなるやら、泣きたくなるやらで、変な顔になってしまう。


 「何か」

 「いえ」

 恵美子は布袋を両手で受け取った。

 「今日は何度も、驚いてばかりです」


 隆冶は少しだけ目を細めた。

 「驚きが減るころには、もっと稼げているはずです」


 慰めでも励ましでもなく、事実みたいに言う。その言い方に、通子が横から笑い声を挟んだ。


 「隆冶さん、そういう時だけ妙に甘い」

 「甘くありません」

 「いや、分かりにくいだけで甘いって」

 「聞こえています」


 虎哲が板を外しながら、

 「まあ今日は上々だ」とだけ言った。

 日依も札を箱へ戻しながら、小さく頭を下げる。

 「私もまた、空く時間に参ります」


 夕方の風が、売り場の札を揺らした。


 恋も 仲直りも 送り出す言葉も

 願いにあわせて したためます


 朝に立てた時より、少しだけ頼もしい文字に見える。文字は同じはずなのに、そこへ積み重なった一日の分だけ、意味が増したのだろう。


 通子と虎哲が帰り支度を終えると、回廊の脇は急に静かになった。参拝客の波も引き、空はもう薄い群青に変わりかけている。恵美子は小部屋へ戻り、机の前に座った。


 布袋をそっと開く。

 中には、今日一日で自分の名へ集まった銭が入っている。


 たくさんではない。けれど、どれも自分で聞き、自分で考え、自分で書いた結果として来た銭だ。耐えた分の慰めでも、誰かのおこぼれでもない。


 戸口で足音が止まった。


 反射的に身を固くする。だが次の瞬間、自分で少し笑ってしまった。ここにはもう、待つ声があると知っているからだ。


 「恵美子殿」


 案の定、隆冶の声が外からした。


 「はい」

 「明日も同じ場所で問題ありません。寺から継続の許可が出ました」

 「ありがとうございます」


 少しの間があってから、彼は付け加える。


 「それと――今日の夫婦は、帰り道でかなり楽しそうに口論していました」

 「楽しそうに口論?」

 「互いに、先に渡せ、いやお前からだ、という種類のものです」


 恵美子は思わず吹き出した。


 戸の向こうでも、隆冶がわずかに息をゆるめた気配がする。


 「それは、よかったです」

 「ええ。あなたの札は、人を無理に変えない。ですが、足を止めるきっかけにはなる」

 「そんなふうに見えましたか」

 「見えました」


 短い返事だった。けれどその一言は、今日いちばん深く胸へ落ちた。


 恵美子は布袋の口を結び、机の端へそっと置いた。

 そして新しい帳面を開き、一番上へ書く。


 一年目の春 縁句祭 二日目

 願い札 二十八枚

 はじめて、自分の名で売る


 筆先が紙を離れたあとも、手は震えなかった。


 扉には、まだあの板が下がっている。

 ノックはしないで。


 昨日は心を閉じるために書いた言葉だった。けれど今夜は、少しだけ意味が違って見える。無遠慮に踏み込まれるのを拒むだけでなく、自分が開ける相手を選んでよい、という印にも思えた。


 外では春の風が回廊を抜け、色糸の端をかすかに揺らしている。


 恵美子は灯りの下で、もう一度、帳面の文字を見た。


 はじめて、自分の名で売る。


 その一行は、願いではなかった。

 今日たしかに起きたこととして、静かにそこに残っていた。



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